Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
02 - 日本からアメリカへ (2) - 夏原勢ん

日本からアメリカへ(2)- 夏原勢ん

1906 年(明治 39 年)頃から

九月に、地主が土地を売り度いから「お前のイチゴ植えた分も家も売ってくれんか」と言われたので、夫は此の土地はあまり上等でないから、もっと良い土地へ変ろうと思って売る事にしました。ストロベリ十エーカと家も一緒に七百五十弗で売る事にきめましたら、地主がお金払うから三年のリースペーパー(借地契約書)持参してくれと言うので、夫はリ-スペーパ持参しましたら「三千五百で売ったが、今五百弗の手付けだけ受け取ったので、此のリースペーパ送って残金皆くれた時残りを払う」と言って、夫は百弗だけ受け取って帰りました、私が、「リースペーパ渡して百弗の受取だけなら、是でしまいやと言われてもリースペーパがなかったら仕方がないな」と言ったら、そんなばかな事はないと夫は地主を信用してましたが、翌日町のストア「ミスタダアウ」の親切な方に相談に行きましたらすぐ何か書いて、是に「シャイン」してもろたらよいと言われましたので、夫はすぐ地主の所へ行き、是にシャインしてくれと言ったら、只「ノーノー」と言ってシャインしてくれんので、又ミスターダーウのところへ行って話しましたら、「よくわからんのだろう。六時に店しめてからわしが行って話してあげる」と言って、親切に二マイルもあるいて来て下さって、地主によく話してくださったのですが、地主は「夏原は百弗でオーライといってリースペーパ渡したのだからあれでしまいや」と言うのをきいて夫は腹を立てて「クレジ」のようになりましたが「チャレー、是は裁判したら取れるから、私がウエッツネス」になって、手続きしてあげるから、明日朝九時にジミーハーチのオフィスへワイフと二人できなさい。」と親切に言って下さったのです。地主を信用してだまされた事、其の夜はねむれなんだ。

翌朝九時にオーバンの町「ジミハーチ」のオフィスにまいりました。ミスタダーウがくわしく事情を話して下さったので、裁判したら取れるが裁判するには「ボンド」をつまねばできんとローヤーが申されましたので、お金は百弗受け取ったのよりありませんと申しましたら、ではその百弗をボンドにつんで願ひ出すことになり、万一まけても百弗のボンドだけです。勝ちましたらローヤと半分わけの約束でした。早く裁判して下さったらよいがと待ちましたが、なかなか順番がまわらんのです。五ヶ月過ぎてはじめてシヤトル市で裁判に出席いたしました。ミスターダーウさんと他に二人白人が私等に同情してウイットネスに出席して下さいました。裁判の結果、夏原の勝ちと聞いて私等はホットいたしましたが、ばかな地主はまけた事に不服で、今度はオリンピヤーの上級裁判所に上告して、とうぜんまけてますから、三千五百弗の土地代は文無しになったでせう。子供が四五人かわいらしいガールとボーイが居りましたが、こどもにはつみがなく、かわいそです。一方、土地を買った新しい地主は、シヤトルの人で、自分は作りませんからレントして下さいと言われたので、私等も今すぐ行く所はありませんから、もう一年百五十弗払って二ヵ年居りました。其の間にオーバンから南五マイル位のボイドの新しい土地の良い所二十エーカーをリースして十エーカづつ友人と私方とわけてて、其処へまた家とバーンを新しくたてたのです。私方は十エーカーの内、ストロベリとロキンベリ植え付けました。友人はラスベリとロキンベリを植え付けなさいました。此の土地は何でも作物が上等でした。四ヵ年のリースをしていました。イーストオーバンの苺畑には其後二ヵ年居て、つぎにはボイドの苺畑へ移りました。二女千勢は一九百〇七年五月に生まれました。市役所登録のアメリカ名はメリー(MARY )ですが日本名は先に死んだ長女と同じ名前です。

千九百〇九年には、シヤトル市に「アラスカユーコン太平洋博覧会」が開かれました。其の年四月に三女 勇( ゆう) が生まれました。子供等の写真を取って日本へ送り度いので、丁度其の時のハクラン会見物に夫も一緒に行きました。当時は自動車もヒコーキもありませんから、皆電車と汽車だけですから、汽車で遠方からたくさん見物に来て居られました。それはそれは、とても大きな博覧会でした。立派な日本館もありました。あまりたくさんの人々ですから子供づれでの見物は何も見られません。ベビーは知人方に預けて来ましたが、チセ子はまだ二才でつかれて歩かんので早くかえろと言っていた時、何か知らん、たくさん人が集まって見て居るので、私はうしろから一寸見てましたら、白人がテーブルの上にオレンジ色の火のように見えましたが、其の上にアミを置いて其の上にブレッドをたくさんならべて、しばらくして裏かへされたら、丁度トーストブレッドできたのを見物人に見せて何か説明して居られました。不思議なものや何やろと尋ねたら、今発明されたデンキストーブ(トースター)やとききました。ハクラン会見物に行った土産は、只たくさんの人とデンキストーブ見たことでした。

千九百十年に「ベオハーチ」の土地二十五エーカを七ヵ年リースして、十エーカは立木がたくさんあるので五六人の人に開いてもらってストロベリを植え付けました。新しい土地ですから上等のイチゴができました。十エーカにラスベリ、五エーカにロキンベリとブラキベリを植え付けましたのです。此の土地には大きい立派なハウスと物置とバーンハウスと大きい物置小屋、馬小屋がありましたが、それを皆付けて七ヵ年のレントリース致しました。地主はオーバン市に移転しましたので、私達もはじめて大きい立派な家に住むことになりました。苺ばかり、ストロベリ、ラスベリ、ロキンベリ、ブラキベリをたくさん植えまして、クラップタイムには遠方へたくさん送りました。エレンスバーグ、ヤキマ、ウエナチ、スポーケンなどです。モンタナ州へは木苺だけ、たくさん送りました。「オーバンの苺夏原さん」と言われるようになりました。うれしい知らせが日本から来ました。妹の美登が養子に行った夫の弟堀田留吉と結婚して北海道で住んでいます。

当時の若い一世の人達は、たくさんコビントンとイナムクロのソーミル製材所に働いて居られましたが、だんだんオーバンへ出て来て苺作りを我もわれもと始められて苺百姓がたくさんできました。イチゴを作るといっても、畑を買うお金はないし、たとえあっても日本人は買うことができないので、みんなリース耕作で畑を借りてました。アメリカ政府は1906年に日本人の帰化権の申請を拒否したが、其の後に土地のリースは許すが、帰化不能の者( アメリカ市民権を取れない者、すなわち日本人) は土地の購入を禁止する法律をつくりました。子供が二十一才になれば子供の名義で買えますが、たいていの人は子供が小さいのでそれもできず、どうしても買いたい人は信用できる白人に名義を貸してもらって買いました。皆独身の二十才代の若い人々ですが、日本に行く時間とお金の都合がむつかしいので、お嫁さんを日本から写真結婚で皆さん迎えなさったので、オーバン地方にも日本婦人がたくさんになり、にぎやかになり喜びました。

千九百十一年三月七日にはじめてボーイが生まれましたので、良人は大よろこびで私もほっといたしました。良人は長男出生記念に、オーバン市内に屋敷二ロット買いましたが、其の当時はまだ日本人には市民権がありませんし、子供は未成年ですから、オーバンの銀行のミスタービネーさんの名儀で買ってもらいましたのです。今の店の所 (622 West Main Street) です。(注, 土地だけで建物はなし)

ボーイ長男が生まれました時、友達から色々たくさんお祝いをいただきましたので、其の命名祝い(注 フランク千次)のパーテには日本酒菊正宗四とう樽を一丁買って祝いました。お酒はシヤトルの説田商店酒屋から買いました。当時の一世は、三十才前後の元気な若い人ばかり。四十才以上の人は、小財新弥さんと他に二人位でしたと思います。皆さんお酒をたくさんのまれました。良人千代吉は盃に一ぱいのんだら金時のようになり、それ以上はのめんのです。お酒には一ばん弱いのです。熊本県出身の坂口善造様は、よく仕事をし働く人です。お酒が大好きで、飲んだら上気元(注 上機嫌)で歌をうたひ出したら、なんぼでもなにわぶしでも、どんな流行歌でも知って居られ英語のうたまでうたって、パアテーの時、みんなをたのしませて下さいましたのです。

五月からストロベリつみが始まり、ラスベリ、ロキンベリ、ブラキベリつみで、とても忙しかった。つみ手は白人とインデヤンと日本人、たくさん来て下さってとても忙しかった。日本人の食事は、内で(注 自分の家で)いたしますので、私は食事のしたくに忙しかった。内に働いてる石橋おじさんに米かしとデシワシ(注 皿洗いdish wash )は手伝ってもらった。

八月十八日、私は朝から少し気分がわるく頭痛があまり痛いので、八時頃から一寸ベッドに入って休んでました。チセ子と勇子はパアーラであそんで居りましたが、いつのまに外に出て、二人は父が汽車道電車道の向こうの畑へ行っているので、自分も行こうと思って電車の線路の踏み切りの所で、折悪しくタコマからシヤトル行き九時五分に通る電車に勇子はハネラレテ死去いたしました。あの時の悲しみ、忘れられません。なむあみだ仏。なむあみだ仏、なむあみだ仏 合掌。勇子のお墓は町はずれの墓地につくりました。ハート型の墓石に英語と日本語で法名、名前、死亡年月日をシアトルの石屋さんで作ってもらいました。オーバンの大きな墓地は山手にありますが、この小さな墓地はオーバンの町はずれにあって、Angelene Seattle という昔のインデアンの酋長(シアトル)の姪か誰かのお墓と他に五つほどこの町へ最初に入ったパイオニヤの墓があるだけでした。この墓地一帯の持ち主は、オーバンで代言をしているローヤーのジミー ハーチさんでした。日本人のお墓は前に亡くなった長女と勇子だけでした。その後、日本人がここにたくさんお墓を作って居られます。町の近くにあり、ケントに行くハイウエーの横にあるので、シティ(市当局)が美化のため墓を移転しようとしたこともあるそうですが、有名なインデアンの女性のお墓があるので移すことはできないそうです。今はパイオニアセメテリーとなってオーバンの町が管理していますが、収容所に入るまでは、西本、山中、夏原の三人がいつも相談して世話をしていました。 ( 注;この勇子の墓の在ったパイオニア墓地の日本人のお墓が 1945 年 8 月に荒らされて、 100 基あまり倒されたり壊されたりした時、勇子の墓は行方不明となりましたが、 1990 年6月オーバンのハイスクールの体育館改修工事現場で 45 年ぶりに見つかり、 Yu Natsuhara のハート型の墓石を見つめる兄フランクの写真と関連記事がUPと共同通信で広く報道されて加州やコロラド、日本にも伝わりました。もしも、千代吉と勢んが存命ならば、どれほど喜んだ事でしょう。 )

千九百十三年(大正二年)四月に男女双子が生まれました。女の子は、勇子の生まれかわりやろとゆうて勇(注 ゆう)と名づけ、男の子は勝(注 まさる)とつけました。命名祝パーテいたしました時、友人辻川さんが一首の歌を書いて下さいました。上の句は忘れましたが、「生まれ来て、浮世の波に勝ち勇むらん」だったと、今も一寸記おくしています。あの当時は、友達にベビが生まれたら、おたがいによんだりよばれたりして楽しみましたが、何年か後にパアテはやめて品物を送るよになりました。勇(ゆう)は、日本の役場にとどける時には、「勢き」にしました。双子が生まれた時、子供等皆百日セキで大困り。ベビー二人共百日セキにかかって、夜昼コンコンコンとかわいそに夜もねむれんのです。ダクタが六ヶ月以下のベビー、百日ゼキにかかったらたすからん、薬はないと申されました。勝(まさる)は、かわいそに、一ヵ月後五月二十三日、百日セキで死去いたしました。ダクタは勇(ゆう)も死ぬだろうと申されました。米谷さんが、亀田の六神丸をのませたらどうかと教えて下さったので、一粒をおゆでとかしてすこしづつ毎日つづけてのませたら、セキがすこしづつらくになり、長くかかりましたが六神丸のお蔭様でたすかりましたのです。勝にも六神丸を早くのませられたらたすかったでせう。残念に思いました。(注 六神丸 ろくしんがん 解熱薬)

其の年(大正二年 一九一三)十月に、シヤトル、サウスパーク正木訪日観光団が計画されましたので、私達も参加して私は九年ぶり、良人は十七年ぶりに子供三人(注 千勢6才、勢き6ヶ月、千次2才)つれて訪日いたしました。横浜から汽車で東京へ。東京見物は人力車一人乗り、二人のりの人力車にのり、一日名所見物、翌日は横須賀の軍港へ一週間前に英国から日本が買った大きな軍艦「金剛」が入港したので、正木さんの兄弟が海軍に居られましたので、団体をかんげいして下さったのでした。私達は初めて大きな軍艦を拝観させて頂きました。観光はまだ伊勢から奈良や京都。観光費は払いましたが、子供等つれては難儀ですからやめて、横須賀から郷里へ帰りました。十月下旬、近江鉄道が高宮から多賀へ鉄道を敷き、多賀駅をたてられる時でした。

駅の近くに運送店が必用だから、運送店をたてたらよかろうと多賀で親類にすすめられたので、たてる事にしたのです。早速駅の近くにくぼ地を1反買って、埋め立ててそこへたてました。名はわすれましたが、久徳の大工さんにカンツラクしてたてて頂いたのでした。二月十二日の開通式には立派に仕上がってました。丸通(注 〇の中に漢字の「通」が入った丸通のマーク)夏原運送店と大きい看板に書いてました。三年して帰ったら自分が運送店をするが、まだはっきり分からんからだれかにやらせようと言って、私の弟源之助一人ではあかんから清水久蔵と二人にやらせる事にして、後見に松宮孫太郎おじさんをたのみました。

私は久徳の家にへかえったばかりから、三人の子供が出物やら病気で大困り、ベビーは土田の小児科の医者様へウバ車でガラガラ道をおして、何回も通った。とてもえらかった。年が明けて、アメリカへ帰る話が出た時、私は「三人の子供を子守して日本に居る」とがんばったのですが、「苺畑も三年リースがあるから、三年だけでもぜひ来てくれ」と良人は申しますので、「でも、チセ子をおじいさん、おばあさんの所から学校に行かせるのなら、私はアメリカへはいきません」と、がん張ったので、良人が「それでは、学校の先生の所へでも預けよう」と言ひましたが、先生は近くには居られんので、村のお寺東光寺様は近いのでお願ひしたら預かってあげようと言って下さったので安心。ベビー(注 勢き 生後九ヶ月)は中川原(隣村)の高橋政次郎様方へ乳子に預けて、二才の千次だけつれて帰米しました。(注、チセ 六才)毎月の養育費のお礼は東光寺竹内等恵ご住職には五円、高橋様には十円にしました。当時の小学校の先生の俸給は十円( 男子) と八円( 女子) でした。

開業した当座は、荷物がどんどん来るので、だんだんはぶりになり出した時に、近くに別の運送店ができて働き人に運動費をたくさん出して良いお得意先を皆取ってしまわれたので、こちらはさびれるよになりました。源之助も久蔵さんも行ったりいかなんだり、自分等の小使仙(注 銭)も出んよになり、ぐずぐずしてた時にバンクーバから引揚げて帰って居られた久徳の小財初次郎さんが運送店を買い度いと言われたので、売る事になりました。売ってあくる年の千九百十四年、良人は運送店売渡と始末のため一人で日本に行きました。運送店を売ったお金で、ほしかった田んぼも久徳と多賀にたくさん買いました。夫の弟、留吉は三才の時に石川県の堀田家に養子に行きましたが、其の後北海道に移住したので、夫は広い土地を紹介してもらって、引退してからのためにと北海道樺戸郡新十津川村下徳留に宅地のほか一町歩(二エーカー半)の田地と四町歩(十エーカー)の畑を四千円も出して買いました。借家が四軒建つお金です。大阪の展覧会見物に行って、新式精米器を買い、神戸で防長米玄米二十五俵(四とう入り)、丸万醤油二十樽、高宮の石田茶屋で池之尾その他いろいろの上茶を注文して、神戸の三光舎で米国へ送る手続きをして帰って来ました。しばらくして、日本からだんだん荷物が送って来ました。精米機は物置が広いので、そこにシヤトルから白人のエンジニヤをたのんで、田舎ですから電気がないので大きいギャスリンエンジンを買ってきてとりつけて、すえ付けてもらいました。ポンポンと大きい音のするインジン。  千九百十五年に四女(注 富美代)が生まれました。

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