Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
04 - 出会い (その 1) - 竹村 なおみ

出会い(その 1)- 竹村なおみ

1992 年 2 月 カリフォルニア州サリナス

1933年(昭和8年)5月18日午前7時40分、スタクトン郡立病院で永眠。遺体は同病院共同墓地に埋葬。墓標番号は3千百16番のC。彼の所持品、僅かに布団と毛布の他は炊飯道具とカバン一つ。カバンの中には旅券、小中学校時代の成績表、卒業証書、履歴書、手紙の束、アドレス帖、書籍三冊、自分の唯一足跡とも見るべき句稿、その他少しの食べ残しのクラッカーや薬品、洗面用具など。病気が隔離された肺病のため、書類だけ残し、一切焼却。

10年ほど前の頃であろうか、そのカバンの中の書類すべてが他の貴重な資料と共に、縁あって、夫の手元に入ってきたのである。カバンの中の書類を所持していた彼の名前は、漂白俳人青稲といわれた佐藤豊三郎。一世に対する深い関心をもっている夫には、これらは何よりの宝物。遺品にとりくみ、驚きや同情の念を、夫は逐一話して聞かせた。私もすっかりこの佐藤豊三郎(青稲)のアメリカでの生涯に興味をそそられてしまった。

手紙の束、書籍そして句稿は、豊三郎が亡くなる三年くらい前からのもので殆ど晩年に近いものであったため、彼の渡米当初の頃のことはよくわからない。しかし渡米以来、最後まで大切に持ち歩いていた成績表、卒業証書、履歴書、旅券などから、彼の出生や渡米の年月日は判明するのであるが、これらの遺品を見ていると何とも哀れを感じた。

豊三郎は、1882年(明治15年)、10月28日、青森県中津軽郡にて出生し、1902年(明治35年)3月、青森県立第一中学校を卒業。2年間東京にて新聞記者をした後、1904年(明治37年)4月27日横浜港を出帆し、5月12日サンフランシスコに着いている。豊三郎21才であった。そして1933年(昭和8年)5月18日五十才と7ヶ月の生涯を閉じるのである。

手紙の束をひも解くと、まず転々と異なる彼の住所に驚く。ルーミス、オロビル、ランポック、サクラメント、チコ、メルスビル、ローダイ、モデスト、オークランド、スタクトン等々である。いわゆる「ブランケ担ぎ」の生活であったと思われる。しかし経済不況の真中「ブランケ担ぎ」生活者は相当数いたと聞いている。1929年(昭和 4年)「大恐慌」に見舞われた米国は不況のどん底に落ちた。閉鎖、倒産、失業、流浪という巷の絵図が浮かんでくる。この不況の波は第二次世界大戦が始まるまでの 12 年間も続いたと聞き及んでいる。友人と共同の米作事業で、一時は成功したが残念にも失敗に終り、晩年はブランケットを肩に僅かの見回り品の入ったカバンを持ち、日系人の農園や果樹園の仕事を求めて渡り歩く季節労働者の生活であった。

豊三郎は青稲という俳名をもち、邦字新聞の文芸欄に毎週のように俳句を投稿していた。1931年(昭和 6年)1月からは新しく創立された句会、湖畔社の同人となり句会に参加している。同年5月には日本へ帰る旅費を作りにアラスカへ行く彼のために、送別句会を開いてもらっている。また彼は、アラスカ便りや句をその時、日米新聞に投稿している。興味深いことには、同年10月湖畔社抄には、18名の同人の句中に、野田英夫、寺田竹雄、下山逸蒼(いっそう)波多わかな、波多泰巖などという誠に親しみのわく名前とともに佐藤青稲の名が連なって日米新聞に掲載されていたことである。

豊三郎は結婚もせず、従って妻子もなく、酒とバクチが彼の身寄りとなった。1932年(昭和 7年)5月、再びアラスカに出稼ぎに行き、 8 月帰ってきた時には、身体もすっかり弱っていた。翌1933年(昭和 8年)3月、4月には病床に伏し、働く事はおろか、歩行も困難となり、スタクトンの日本旅館の10仙ベッドの止宿料にも困り、友人下山逸蒼や波多泰厳に毎日の糧に悩まされていると、無心を乞うている。

「新世界」の新聞社で校正の仕事をしていた俳人下山逸蒼(何万句とも言われる俳句を作り5冊の句集を発刊した)は、「在桑港の俳句同人から、いくらかでも集めて、君の急場のヘルプをすることになっている・・・・。いやはやこの世界的不況は言うだけヤボだが、あらゆる人間にたたって、僕の新聞社なんかその後給料などと言うものはなく。いよいよ窮して・・・・」と返事を書いている。また西本願寺の布教師であった波多泰厳は「7人の大家族で、しかも不平を言うことのできぬ人の喜捨で生命をつないでいるものであるため、なんら財力の援助ができないが・・・・」と衣類などを送った。4月6日には、福島と言う人から書留で見舞金が届けられている。豊三郎は、ミルクとクラッカーで生命をつなぎ、唯々やせた我が手を見つめながら、淋しく、5月18日スタクトンの郡立病院で息をひきとったのである。享年五十歳。友人下山逸蒼から届いた最後の手紙の封筒の裏面に豊三郎は力ない筆跡で次の5つの句を書き残している。
         
         いたむ身体をベッドに小鳥の歌リズム
         独り病み友よりの手紙を幾度読みしか
         病床に臥し友の顔を空に画て見る
         唯々やせた我手を見つむるのみ
         嗚呼ホントのビーヤを飲んでいる

病魔に冒されては身寄りのない一人身にはどうすることもできない。「かわいそうだ。あわれだ。豊三郎さんはかわいそうや」いつか青森の佐藤さんの故郷を訪ねてみたいと、夫も私も10年来の口癖にしていたが、豊三郎さんの兄佐一氏は、弘前市の助役をされていた人だ。それにひきかえ豊三郎さんの晩年はブランケットを担いでの放浪の生活であった。彼のご家族に迷惑がかかっては、と思い、私達は何度も訪日の機会があったが、青森にどうしても足が向かなかった。

昨年(1991年)7月、まったく思いがけず青森県のガーリック日本一の町、田子町という所から、姉妹都市ギルロイのガーリック フェスティバルに来ておられた袖村護さんが我が家を訪ねて下さるというご縁に出会い、豊三郎さんのお話をし、資料をお見せした。

ご家族がまだいらっしゃるかどうか私達は知りたかった。遺品の一部のコピーをお渡しし、チャンスがあれば調べて頂くようお願いをした。 7 月末、青森にお帰りになった袖村さんはご多用の中、早速豊三郎さんの実家を探して下さり、今は豊三郎さんの兄佐一氏の長男の奥様、つまり甥の奥様、佐藤てるさんが弘前に一人でいらっしゃると、わざわざ電話で知らせて下さった。

おりしも8月12日に訪日する事になっていた私は、佐藤てるさんにお会いしてみたいと思った。訪日の主目的は8月下旬、一週間行われる茶道の夏期講習を家元で受講することであったが、初盆を迎えた叔父や先祖の墓参りも兼ねての訪日であった。また、8年前にお出会いしてから何度か日系人アメリカ移民の研究でお訪ね下さっていた粂井輝子先生から「今年の夏は何処へも行きませんので、是非上田に遊びに来て下さい」と言うお便りを頂いていた。かねがね私は、長野県上田市には、一度行ってみたいと思っていた。それは上田市には、佐藤青稲と同じ湖畔社の句会に属していたこともあった夭折の画家、野田英夫の絵画やデッサンや資料が集められている信濃デッサン館があるからである。

(つづく)



同人誌「平成」第 11 号 1992 年 2 月号に掲載

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