Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
05 - 出会い (その 2) - 竹村 なおみ

出会い(その 2)- 竹村なおみ

1992 年 2 月 カリフォルニア州サリナス

ちょうど、7月には館長の窪島誠一郎氏が、野田英夫の描いたオークランドのピートモンド ハイスクールの壁画を切り取り、日本に送るというまことに目を見張るような偉業をされた記事が邦字新聞に載った時だったので、ますます興味深かった。夏期講習の前一週間ぐらい、少しでも稽古にと思っていたのであるが、「お茶ばかりしないで、この際何処へでも行ってみることにした。

私は、信濃デッサン館と粂井輝子先生の住む家が同じ上田市と言うだけで、どのくらい遠いのか近いのか、何の予備知識ももたず、輝子先生のお言葉に甘えて長野県に出かけたのである。松本駅に輝子先生とご主人、お二人の出迎えを受けて、ご主人の粂井先生のドライブで、松本市内を巡って「美ヶ原」高原へ向かった。美しい高山植物が咲き競い、広々とした高原の美しさを満喫して、信濃デッサン館へと案内していただいた。「こんな田園の中?」と驚いたが車を降りたつと広大な塩田平が一望に見渡せ、深呼吸をして吐く息と共に、思わず「ワッー!」と言う声が出てきた。

野田英夫にも私は大変興味を持っていた。佐藤青稲の遺品と共に貴重な資料として夫の手元に入った僅かな野田英夫の手紙などから彼の人生哲学と言うか人生観を通してあたたかい人間性感じていたので、胸のドキドキする思いで館内に入った。信濃デッサン館には、野田英夫のほか、村山塊多、関根正二、戸張孤雁などなど、九名のいずれも「夭折の画家」と呼ばれる画家達の遺作品が収蔵されている。野田英夫の作品は館内の一番奥まった所に展示されていた。大変懐かしい気持ちになった。「せっかくアメリカから来たのだから館長さんにお会いになったら?」と突然輝子先生。辞退する間もなく受付嬢に館長さんの在館を確かめ、輝子先生は「野田英夫スケッチブック」の本を買い求めサインをお願いされていた。

きっと館長さんはお留守の事と思っていた私は、7月に壁画を日本に送る準備を終えられた後、ほんの2時間位、夫を尋ねてくださった時お忘れになったペンを、受付嬢にお願いするつもりでいたところを直接お返しする事が出来た。「日本にはいついらっしゃったんですか?どうぞ、ごゆっくり観てください」。館長さんのお言葉通り、ゆっくり拝観させていただいた。「別館もありますから、そちらの方も観て行ってください」。別館はなんとも人家を展示室に使用しているような親しみがあり、庭にはきゅうりやなすやトマトが植わっていた。靴を脱いで部屋に入ったが、中にはモダンなガラスのような陶芸品がたくさん展示されていた。広大な塩田平を名残惜しく一望して粂井先生ご夫妻のお宅へと向かった。お心のこもったおもてなしを受け、ゆっくりと休ませて頂き、翌日もサイトシーイングを楽しみながら松本駅に送っていただいた。

京都の実家に帰ると、青森の袖村さんから電話があった。「弘前の佐藤てるさんのところに行ってきました。頂いたコピーを渡しました。イヤ、イヤ、エーライご馳走になりました。竹村さんが来られるのを待っているそうですよ」。袖村さんは親切に案内して下さると言う。私は夫に電話をした。「行ってきなさい、行ってきなさい」。イヤ、イヤ、エーライご馳走になったらどうしよう。困る困るそれは。

次の朝一番の新幹線で青森へと向かった。袖村さんのドライブで何処をどのような道を走ったのか、さっぱり分からなかったが、佐藤さんの家に近ずくと、あっちもこっちもりんご園ばかり(このりんごが後に台風19号の被害にあうとは思いもも及ばなかった)。途中無人の花店で仏前のお花を買った。

佐藤てるさん八一才、お年よりもお若くお見受けした。とても上品で美しく、お育ちの良さが感じられた。佐藤肇夫妻、豊三郎さんのイトコのお孫さんに当たられる方とか。肇氏はりんごの研究家で、ご自分でも金星と言う品種の種苗を登録しておられる。昔、豊三郎さんの兄佐一さんが、日本に帰る時はりんごの新種を持って帰るようにと、豊三郎さんに手紙を書かれたことがあるので、私は豊三郎さんの顔と肇さんの顔が重なり合って見えるようであった。そしてもう一人のご親戚で、校長の職をリタイヤされたばかりと仰る方の 4 人がお迎えくださった。

渡米時の豊三郎さんの写真や、アメリカから書き送った手紙、豊三郎さんの俳句が掲載された新聞の切り抜き、波多泰厳の手紙、そして袖村さんが届けたコピーなどの資料をテーブルの上に揃えて待っていて下さったのである。若き日の豊三郎さんの写真は、なかなかハンサムで、ダンディーである。母や兄に詫びる手紙には、渡米して一時期は米作で成功したが、その後はすべてが裏目に出て失敗ばかりしたなどと書かれてあった。とりわけ母の死を知らされた時の悲しみと親不孝を嘆いた手紙から、彼の姿を思い浮かべ涙がさそわれた。私達が心配していた豊三郎さんの晩年の生活は、これらの資料からご家族の皆さんにはよくおわかりのようであった。

佐藤てるさんは「今年のお盆は、思いがけず袖村さんから豊三郎の事を知らせてもらって、特別な想いでお参りしました。 50 回忌の法事も 5 年前に済ませました。後は豊三郎のお骨をここのお墓に納めてやりたい」と仰った。甥の妻にあたるてるさんの言葉に、私は胸が熱くなった。豊三郎さんの最後について詳しい報告をされた波多泰厳の温情にも心を打たれた。私は豊三郎さんのお骨が日本に帰れるよう、帰米してから夫と努力する事をお約束した。イヤ、イヤとうとう私もエーライご馳走になってしまった。袖村さんには、青森の名所を案内していただいたり、かれのお母様から手打ちそばの作り方まで教えていただいたり、お世話になってしまった。

とうとう夏期講習には、足袋だ、草履だ、ハンカチだと必要品を買い揃えるだけで精一杯、一度も稽古する機会もなく臨んだ。勿論恥はかいた。でも私は、こんな素晴らしい人との出会い、物との出会い、歴史との出会いが出来た。野田英夫は有名な著述家の窪島誠一郎氏によって不滅の画家として輝いている。下山逸蒼は彼自ら4,5冊の句集を刊行している。佐藤青稲は、彼らと同じ時代に生き、青森弘前の名門の青森一中を出た人であったが、晩年は「ブランケ担ぎ」をし、淋しく亡くなっていった。ほんの僅かな「平成」の光を佐藤豊三郎さんにと思ってこれを書いた。

たくさんの彼の俳句の中から、二つを紹介しよう。

        佐藤 青稲 作
        春朝まだ寒く異国の納豆の香   ( 1929年 4月 22日)
        老桃に鋏を入れる冬日暖かきかな ( 1930年 1月 30日)

終わり



同人誌「平成」第 12 号 1992 年 5 月号に掲載、題名も同じ

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