Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
10 - 佐藤豊三郎の日本の兄への手紙 (1)

佐藤豊三郎の日本の兄への手紙 (1)

From: T. Satow
    c/o T. Ishikawa
    102 Wall St.
    Chico, Calif.
    U. S. A.

差出郵便局消印 Oct. 15, 1929 6:30 PM Lodi, Calif.

To:   Mr. S. Satow   日本青森県弘前市在府町  佐藤佐一様
    Yokohama
    Japan

お手紙を拝見しました。何よりも壮健で居られる由聞いて一同安心しました。尤も無事でゐると思ふてうゐるものの、たよりに接しては一層喜ばしく思はれます。母は昨年より健康を害してゐました。身体よりも心の労は多い様でした。それは子供等の事を考へてのではありません。米国に居て永くたよりもしませんから、それを思ふたのでないかと思はれるでせうが別問題です。

昨年の秋使ふてゐる新岡より来て居た若者は火を粗末にして寝て居る処から出火しました。其の小屋を焼き払ひ、知って居る漬物小屋に移り、今や便所に移る処防ぎ止めました。家と倉は残りました。私も知りませんでしたが弘前から自動車ポンプ迄走りましたそうで大変なさはぎでした。夜中行って見た時にはまだ燃えてゐました。

其の為に悲観したらしい。今迄長生して最後に出火、一生涯を棒にフッタとでも思ふたのか好きな酒は進みました。酒にあらざれば生活出来ない様に見えました。其の為に段々身体を害しました。弟永二郎は大変心配して幾度か相談されました。然し好きな酒なら後幾年もないのだから呑ました方はよいと、別に私は其の酒を禁じ様ともしませんでした。

酒は次第に身体を害して五月二十六日には私は北海道視察から帰った晩に、飛脚は家からありました。心臓病一分間に百二十それに血滞はあります。一同心配しました。本人の養生と医師の治療と看病にて一時はのがれる事出来るかと思はれました。

処があの呑気性絶対安静を守りません。余程よくなったと思ふてゐたら又々迎への者は来ました。行って見ると九十から百までの脈は百二十余になってゐます。起きてみたくて起きてみたくて仕方なく、起きて永二郎妻に足を洗はしめたそうです。何故に足を洗ってやったか、それは母に対して弟の妻は絶対服従です。それでなければ安らかな家庭を作る訳には参りません。それは自然のなり行きです。良くなっては帰り、次第次第に疲労して骨と皮ばかりになりました。

其の時に島中氏より弘前にて面会したいと申込も手紙ありました。絶対安静弘前に転地療養も出来ない場合でした。玉城で会いました。御身の上の心配でした。その事を長尾君にも通信したらしい。

母は八月十九日后後O 時(二十日と言ってもよい位の時刻)私等夫婦、弟永二郎夫婦、武永千世其他別家の人々に護られながら眠るが如く昇天されました。火葬后(母は父と善X の火葬された為に火葬を希望していた)葬式を村でしました。沢山の会葬者はありました。勿論知識階級の人々の多く集まった事は今迄ない。決してそれを喜ぶものでないが、会葬した者は東京の私のこどもの処に報告したと言ふ事を後で聞きました。私の子供の嫁いでゐる今其の夫は丁度旅行出来ない事務上の関係、子供は五年になって初めての妊娠し大学病院の診断を受けて、これも旅行できずに二人とも来ませんでした。

こんな訳で葬式も済ませ武永千世子供(長男)は東京へ行き、七日七日の法要も済ませました。この月の二十五日か二十六日にかけて百か日の仏事です。この手紙を見る時は勿論それも過ぎてゐます。

島中さんと面会の由を聞いてそんなに皆のものは心配してくれてゐるかと云ひてゐました。時々母はたよりはあるかと申されます。その度につい近頃ありました、丈夫でゐると常に母に云ひて置きました。母からxxx なければ決して云はない様にしてゐました。母も生きてゐる内には顔を見る事出来ないものとあきらめてゐました。其の事はあまり残念でもありませんが思ふて見ると心の中にはどんなに思はれたでせう。

りんご一町五反ばかり作ってゐます。相当な収入もあります。家族は食ふて行かれます。開墾の山も四町歩位手に入れました。何時にても帰って来なさい。皆で働くと食べられます。帰るなら妻を迎える関係上、早い方がよいと思ひます。

何れまた家族の有様など申上ます。 左様なら。

十一月十八日                兄

豊三郎殿



上記の手紙は便箋5枚に書かれている。同じく弘前の佐藤家から複写を頂く。封筒のアドレスはChico になっているが、消印 Modesto になっているから豊三郎さんはモデストの葡萄畑で師走の寒風にさらされながらぶどうの蔓(つる)切り pruning の仕事をしておられたのか。

Chico はフルーツ類の多いところで、その住所は多分、豊三郎さんがパーマネントアドレスのために石川さんに頼んで使わしてもらっておられたのではないだろうか 。

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