Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

前のページにもどる

物語 - 一世関係
12 - ナツハラ商店 - ゲール デュブロー

夏 原 商 店

NATSUHARA'S STORE


オリジナル   From book titled “Sento at Sixth and Main”
著   者   By Gail Dubrow with Donna Graves
出 版 社   Published by Seattle Arts Commission
         2002

「オーバンのメインストリートにあるフランク夏原のグロサリーストアは、彼の父親千代吉が 65 年ほど前に店を開けた時とほとんど同じだ」と、ワシントン州ケントの 1980 年のデイリーニューズジャーナルは特集記事を書き出している。「注文取りの帳面や書類が積み上がったロールタップの古いデスクが店の隅にはあり、アンティークのガラスとマホガニーで出来た陳列ケース、大きな鋼鉄製の金庫、そして格好よいブロンズ色のキャッシュレジスター。」親戚のある者は、あきらめ半分の怒った口調で「アンクル・フランクは何ひとつ捨てない」というが、これ故にこの地方の歴史を調べる者にとって、彼も極めて重要な役割を果たしてきた。

歳月の経過とともに、食料品乾物、干し草、穀物、家畜飼料などの商売からギフトショップへと変わった。お店のカウンターには日本の団扇やアメリカ国旗が所狭しと置かれていた。貴重な古写真や安価なギフト物が棚の上に無造作に並んでいる。 1980 年に新聞記事になってから 15 年以上も時は流れ、店の主人と店は歳月の経過を示しているが、その他は記事の記述とかわりがない。二階にベッドルーム、裏側にキッチンのあるこの場所に住み、つつましく生きたフランクは妻を亡くしたが熱心な仏教徒で家族想いであり、そして日系米人をかつて余り歓迎しなかったこの町の非公式なヒストリアンであった。彼は「長く生きてみると・・・・」と話を中途で止めるだろう。だが心中にあったのは皮肉なことだが、この町の一部の人達がまだ若い時どのように冷たく彼に当たったにせよ、年を取ってみると地域の記憶の集積所として彼を頼る結果となったことだった。

1999 年 4 月 6 日、 88 歳での彼の死去は彼を知る者にとり悲しい時だった。それに追い討ちをかけるように、四ヶ月後に店が放火が元で火事になり、店と店内の物品ことごとく灰燼に帰した。 1916 年から 1999 年まで 80 年以上もオーバンのウエスト メイン ストリートの 622 番地にあった店に住んだ夏原ファミリーの貢献を最早示す事はできないが、彼等にまつわる話は日系人の歴史の上で重要な位置を占める。又、その店は今日では見ることの出来ない消えゆく建物様式は記録に留めるに値する。

フランクの父、夏原千代吉 は 1876 年に日本の滋賀県にて出生した。十年も経たないうちに母、古川勢ん が隣の村で生まれた。千代吉は二十歳台初め 1897 年に家を出て、カナダからアメリカ合衆国に 1898 年に密入国した。初めの二、三年はて鉄道線路の敷設に従事した。フランクは父親から聞いた塩汁スープとねり団子を食べて、からくも生き延びる当時の労働者の厳しい状態の話を今も覚えている。古屋商会のような輸入会社がのちほど豊富な食材を供給するまでのことだった。 1902 年頃、千代吉は鉄道の仕事をやめて、同郷人がいたクリストパーの近郊で農業を始めた。作物はポテト、キャベッジ、そしてイチゴだった。1904 年アメリカに入って六年立って二十八歳の千代吉は、日本の親に手紙を出して「健康で背が高く読み書きの出来る嫁」を探してくれと頼んだ。そのとき十九歳の古川勢んは、千代吉の親の隣村に住んでいたが承知の返事をした。

勢んの記憶 「私は将来の夫を写真をみただけで実際に見たことはありませんでしたが、祖父母が一度見たことがあり、あの男ならよかろうと言ったので、その言葉を信じて結婚する事を決めました。」

千代吉も勢んも長男長女であり、日本の慣習からいうと親の面倒をみる大きな責任があるので、アメリカに来て結婚する事は普通の事ではなかった。勢んは日本を出て太平洋を船で渡り、長い航海の末シアトルに着いた。合衆国移民局の規則があって、船上で移民官による結婚式をすまして、新婚の二人は新居へ向かった。勢んの記憶によると「オーバンに家はありました。それは粗末なもので部屋はたった二つだけ、ベッドルームとキチンだけでした。私の夫が友達三四人のヘルプで 50 ドルくらいで材料を買って建てたものでした。」千代吉には結婚生活が以前の生活より良くなったとしても、勢んにはとんでもない大きな逆戻りに思えた。勢んにとって、この新しい生活状態は日本の故郷の田舎の困窮振りよりも、なお哀れに思えた。

勢んの記憶 「水は二百フィートくらい離れた地主のところまでもらい水だった。バケツや石油カンで毎日運んだ。洗濯や行水の湯は野外でわかした。便所は、家の裏百フィート位のところに建てられていた。この家は隙間だらけだった。ある寒い夜、いくらストーブをたいても暖かくならないので、地主から古新聞をたくさんもらって、メリケン粉でノリをこしらえ、隙間に二重に目張りをした。目張りを乾かすために、部屋の中で消し炭をおこしてねたところ、頭がガンガン痛むのでふと目をさますし、ドアを開け、寒い風にあたりながら、雪を食べたら楽になった。空気の流通がわるくなり、一酸化炭素の中毒であやういところだった。私のアメリカ生活はこのようにしてはじまった。」

ホワイトリバーバレーや近くのべインブリッジ島やバッション島にいた初期の日本移民は骨の折れる切り株を掘り起こして作物をつくったり、牧畜を始めた。 1911 年に長男フランクはこのクリストパーのファームハウスで生れたが、千代吉と勢んにとってこの年が夏原商店のスタートとなった。一部屋は子供立ち入り禁止として、シアトルから仕入れたお米、日本茶、醤油の小売りがオーバンの田舎で始まった。 1914 年頃には、千代吉は米や醤油を直接日本から輸入するようになっていた。顧客の日本人農家には冬季はツケにして、収穫時に支払ってもらった。

1917 年までにオーバンの町のユニオンパシフィック線路の近くのウエストメイン通りに店を建てて商売を始めた。家族は二階に住み込んだ。トラックで  オーバン、ケント、ペアラップ、パークランド、サムナーばかりでなく、ベレビュー、オーティン、バショーン、べインブリッジ島などの日本人農家への行商だった。肥料や農業関係物は、ケントやシアトルのグリーンレークやもう少し遠方まで取引した。勢んは店を受け持ち、商品は乾物食料、日本食料品、薬、編み上げ靴、布地、その他もろもろだった。

競争相手から区別できるように、千代吉と勢んはふるさとの(滋賀)県から最高級品の茶を輸入し、また精米機を取り寄せた。白米を日本から輸入すれば、かなりの関税がかかり割高になるので、純益を増やすためにお米は精米していない玄米を日本からオーバンに送ってもらい、ここでよく精米して売る事にした。フランクは、母が精米を受け持っていた頃のことを振り返る。「よくここを飛び出し、倉庫に行って玄米をかついで店に運んだものだ。そんな時、よく母は<これはもう一寸搗き方が足りない>と言ってた。」何度も精米する事により一級品が出来上がった。

、千代吉と勢んには十一人の子供ができた。子供の中には、大人になるまでに亡くなった者もあるが、千代吉と勢んは二人とも九十歳以上生きた。子供らは小さい時から、「よく手伝いをした者は早く外へ出て遊べる」ということ躾(しつけ)を受けていた。週日はオーバンの店に住んで手伝いをし、町の学校に通った。そしてウイークエンドはクリストパーの農園に住んで、四十エーカーのブラックベリーいちご畠と肥料混合倉庫の横にある野菜畑の仕事をして、いろんな作物を作った。

千代吉と勢んは交互に日本に行き、家族や親戚の訪問と店の品物の買い入れをした。勢んが 2 インチから 3 インチの鯉 250 匹を持って帰ったこともある。クリストパーの住居には、バショーン島の向井ガーデンなど目立った庭を見て廻りそれを参考にして、方々から大きな石も取り寄せて、池もある本格的な日本庭園を造った。夏原の子供等は石を動かした時の腰の痛みと岩石のすばらしさを今も覚えている。孫たちはディナーの後、食べ残しのごはんをえさにあげたことを覚えている。

二人は日本に行く時、子供を一人か二人連れて行くことが多かった。親と一緒に千勢、フランク、せき子、富子、ジャックが日本に行ったが、親はアメリカに帰ってしまって自分たちは親戚の家に一年から三年も預けられることは驚きだった。しかし、このお蔭で、祖父母や親戚にも会えたし、日本語の習得や生け花、茶道、琴などの伝統文化に親しむこともできた。

夏原商店は、イチゴを入れる箱をつくり、イチゴを農家から買い、鉄道貨物でワシントン州東部、ワイオミングやモンタナまで送った。家族全員が箱作りをしたが、店の横側に建てた長屋に住んでいた働き人も一緒に作った。

フランクの追憶 「 1920 年代には冬と春に、店の横のアパートに私の父親の所で働いている夫婦が二三組住んでいた。電気があるだけで、水道は外にあり、日本スタイルの風呂も家の裏にあった。冬中は箱作が仕事で倉庫に積み上げ、春には畠に持っていく。夏には今までイチゴの箱作の人が畠で働き、秋には又戻ってきた。」

フランクの妹、メリヨのいちごの箱作りの工程の記憶「男の人たちが釘を打って箱を作り、女の人たちがその中に区分けのためのいちごの小箱をステープルでとめる。何千とある小箱。みんな一人一人箱打ちミシンを持っていました。子供は毎日、公立学校や土曜日の日本語学校から帰ると、仕事は皆終わっていました。私たち子供の仕事は、 1 箱につき 12 個か 24 個の小箱の取り付けと後日の農家への販売と配達のために、倉庫の決まった場所へ運んで積み上げることでした。次の日の準備など、いつもすることは一杯あった。」

シアトルやタコマで開かれた移民公聴会には、 1920 年頃の排日機運の台頭を記録している。白人農家の中には、ホワイトリバー平原での集中的な日本人移民の増加を極端に嫌った。特に牧畜企業関係者はきつかった。そして、 1922 年に反アジア団体が組織された。日本人経営の牧畜農家の家畜検査の妨害や相継ぐ放火と思える不審火による火事は、伸びてくる日本人農家の頭を押さえようとするものだった。

晩年、勢んは 1920 年、 1930 年台にケント、オーバン地方の日本人農家を恐怖に陥れた連続放火の模様を書き残している。火事は最初、小財さんの牧畜バーンを焼き、次は板橋文四郎さんの牛が全滅、次は安村さんの牧畜バーン、そして夏原の肥料を混ぜる所と倉庫が焼けた。土曜日の夜十時半ごろ、勢んと子供が畠の向こうにある大きな倉庫の近くで暗闇に上がる炎を見た。そうこが燃え上がる時、一台の不審なカーが過ぎ去るのが見えた。この放火で建物はコンクリートの土台まで燃えつくした。

ワシントン州の外人土地法に対する日系人の政治運動は不成功に終わり、 1921 年および 1923 年制定の法律は合衆国市民でない者へ土地を売る事およびリース(借地契約)することを禁じた。これは、一世の農地の借地や所有や借地を禁止することを意味した。しかしながら、多くの一世はアメリカで出生の子供の名義で借地をしたり、理解ある白人の隣人と取り決めをして事業を続けた。

夏原ファミリーの通った経験は、外人土地法のこの地域での遂行による影響など、日系米人の歴史の中の多くの共通の形態を具体的に示している。伊藤一男はその著書の中で、あまり知られていなかった夏原と隣家の前川が法律違反で起訴された事実を記している。夏原千代吉と前川音吉の両人は、 1916 年にアメリカ市民から十年契約で八エーカーを共同で借地した。 1920 年初頭の外人土地法の通過とそれに伴う施行により長期借地の効力が問題になった。裁判では、幸いにも夏原・前川は勝訴した。しかし、興味深いことは、勢んは裁判の時は夫と結婚して十年以上も同居していたのに、何十年も後に伊藤一男がアメリカの日系社会のインタビューをした時、彼女はこの裁判の事を全然知らなかった。彼女は否定と狼狽の表情を示した。「私の夫は外人土地法違反で裁判になったことを、私に話した事はありません。悲しみ喜びを 60 年共にしましたから信じられません。」

しかし、伊藤一男が筆重く書くように、裁判は紛れもない公式記録である。フランクの妹は千代吉が勢んに知らせなかったのは、問題が女に及ばないように取った男の方策だという。もしも女が借地契約の細目について何も知らないならば、女は告訴される事もない。有名無実の千代吉の土地と建物は、アメリカ生まれの子供たちが成人になって正式の名義書換えをした。オーバンの店は長男のフランク、クリストパーの家と土地は下の息子二人ジャックとジョージの名義にした。

日本人社会に対する直接的攻撃がまだ充分でないかのように、人種排斥の被害は違う形をとって現れた。日本人移民の住む「線路の向こう側」は、鉄道線路と電車の踏み切りのためにたびたび怪我や命を落とす事故がある悪い環境だった。 1911 年 8 月 18 日、夏原勢んが仮寝をしている時、三歳の勇子が一つ年上の姉と新しい勇子の靴を父親千代吉に見せるために、だまって家を出た。近くの鉄道線路で靴がはまった。取りに行ったが、通った郊外電車に轢かれて死んだ。勢んは、以後仮寝はやめた。フランクは妻静子を同じような不運に見舞われて、自動車と汽車の衝突事故で亡くした。今残っている夏原家の子供たちが線路の側で、雪すべりをしている写真を見ると、呪われた気持がする。

1924 年、フランクが十三歳の誕生日を迎えると、彼の責任は、店のトラックで町を出て近辺の日本人農家へ行って、家にいる女性から注文を取ることだった。「米でも何でも出すものをみな買ってくれました。当時、女子は家から出る事はなく、男だけが外に出てました。」農園での毎日と子育てにくくられて、これら近郊に住む移民女性は、不便の中で生活していた。産婆さんなしにお産をした人も多い。輸入会社夏原は、配達トラックで運ぶ品物とサービスを通じて、西北部にいる日系人にわずかながら、もう一つのアメリカの日本人社会の香りを伝えた。特に小さな町や田舎や未開地に住み、伝統的な日本の食材、さかな、豆腐、醤油、味噌などに不足する人々に喜ばれた。

1930 年代になって大恐慌が益々深刻になり、ホワイトリバーバレーの農家も、収穫物が売れにくくなってきた。日系人農家の殆ど全部が不景気に陥った。信用売りをしていた夏原商店はオーバン地方の多くのファミリーの借用証書は紙くず同様になった。昔は大抵の人は日本の伝統に従って「親の借金は息子の借金」としていた。借りの支払いが出来ずに他所に出て行った人もあるが、戦時収容所に入った時に夏原を探してきて、借金の一部を払ってくれた人もあった。第二次世界大戦が終わって随分経って、フランク夏原が親の店の運営を引き継いだ後も、時々オーバンの農家の息子が返済だといって支払いに来てくれた。

「ボーイ、悪い、悪い、悪い思い出を思い出させて」とフランクは言って、強制立ち退きと収容所行きの数週間前の事に関する質問に答える前に警告した。「ほとんどの人は、私たちがどんな状態だったか知っていない。」という。しかし、この町の新聞からは真珠湾攻撃の後の日本人社会に対する憎悪の強さが 察し取れる。ホワイトリバー平原の Veterans of Foreign Wars (海外従軍軍人会)やAmerican Legion ( 世界大戦従軍米国軍人会)の支部は、日本人を祖先に持つ者すべてに極端な偏見を持っていた。アメリカの市民権を持つ子供を含むすべての外人の日本人の立ち退きに賛成した。

ただちに立ち退きになる話から 1942 年の農作物の取入れまでは動かなくてもよいという上から下までのさまざまのうわさが飛び交った。立ち退き命令が遂に五月末に来た。前川キヨは、これをはっきりと覚えている。「収穫を待つばかりでした。ピーはいつでも摘み取れる状態でしたし、ストロベリーも色づいていました。」緊急事態になって、前川農園は急遽下請けをしてくれる人を探さなければならなかった。

1942 年 5 月の終わりに、オーバンハイスクールは繰り上げて、日系生徒シニアクラスの早期卒業式を挙行した。夏原ファミリーは、「売れるものは皆売って、店のフロントに錠をかけ、キーは「隣の親切な」ソネマンさんに渡した。そして彼は私たちを駅まで見送りにきてくれた」が、その親切は第一次世界大戦の時に、反ドイツの熱狂的感情の中に育まれてきた、苦境に立つ日系人に対する共感からだった。ホワイトリバー平原の日系人は、カリフォーニア州フレスノ近隣のパインデールに送られた。二ヶ月経たないうちに、毎日気温が 100 度を越すツールレーク転住所に移された。フランクと静子に、二人の娘が収容所で生まれた。一人はツールレーク、次はアイダホ州ミネドカ収容所で生まれた。

多分、ソネマンが写したものだろうが、当時の写真には、反日敵意の標的にならないように夏原商店の看板ははずされている。建物は異常がないことを示す二三の写真の他に、戦時中のファミリーの生活を写したものはない。フランクはみんなにそう思わしかったのかも知れない。ハイスクールの year book に出ているフランクの写した写真でも分かるように、カメラ類に関しては金に糸目をつけなかったのでカメラ通として通っていた。。カメラ、ラジオ、鉄砲や禁制品は没収されたので、もし自発的に差し出さなければ、すぐ警察に分かると判断した。そこで彼はボックスカメラを差し出したが、 50 年後そのカメラには没収禁制品の札がまだ付いている。警察の目を逃れるために、そのようにしただけで彼は他のカメラを収容所に隠して持ち込んでいる。

夏原の子供らは次々に収容所を出て、陸軍や大学や政府の認可した西部以外の土地へ出て行った。 1945 年に戦争が終わる最後まで収容所にいたのは、千代吉、勢ん、娘のメイの三人だけだった。戦争中、お店はソネマンが極力見てくださったが、住む所が荒らされていたので、再び住めるようにするためにはかなりの修復が必要だった。居間は完全に破壊され、家具の多くはこわされていた。また、戦争の終末期に、クリストパーのかなりの建物を短期日に売ることを決めたことが悔やまれて、欺(あざむ)かれた思いが強かった。

夏原ファミリーが店を再開するに際しては、卸し問屋が品物を充分呉れないので難しかった。戦後の問屋は、前年に買主がどのくらいの品物の量を買入れたかを基準にして取引をしたが、そのころ夏原や他の日系人は収容所に閉じ込められていたのだ。その上、オーバンで生まれ育った多くの夏原の農業関係の顧客層は、ここに帰って来なかった。ある調査の結果によると、戦後二割近くしかここには戻らなかった。

歳は移り、いろんな日本人コミュニティーの団体が再開されるが、その活動は活気あふれる戦前とくらべると遠く及ばなかった。そしてこの時期に Ethnic identity 人種上の位置確認の問題が複雑になってきた。愛国心と忠誠心が証明されても、社会からはほんのわずかの敬意しか得られないまま、日系アメリカ人は 1950 年代になると、文化的背景から見ると難しい問題のある人種同化の時代に入った。

1950 年代にフランクはファミリーストアの全責任を引き受け、店の名を C. Natsuhara & Sons から Natsuhara’s Oriental Imports  に変え、店の正面を補修した。町の初期にはやった正面の屋根の上の形だけの木壁をとりのけて、ギフトショップにくる新しい顧客の目を引くようにオリエンタルルックにした。皮肉にも、東洋風でなかった以前の建物は、補修が済んだ後に、それを惜しむ声が出て値打ちが上がったようだ。

フランクは、長年にわたって写真アルバムを、あたかも庭のように手入れして大事にした。ハイスクールバスケットボールチームの最も大事な試合を選手の切り抜きの配置で説明したり、ハートの形の枠のなかにシルエットで彼女スイートハートをいれたり、一群の友達をいろんな形の葉の枠に入れたりしていた。もしもファミリービジネスの中で働くという堅く縛られた家族の一員としての責任がなかったら、彼は興味を持っていた写真の方にもっと真剣に進んだに違いない。店の主人の息子だから、写真にかかる費用も心配なかったが、彼の撮った写真の量をみると、写真こそ彼の友コンスタントコンパニオンであった事が分かる。彼は又、アメリカと日本の切手の熱心なコレクターだった。この地域の地域の歴史を記憶している人として皆が認める彼は、ボックスカメラ、いちごボックス、 1915 年の古屋商会カタログ、とても大きいがきれいな模様のペイントがある金庫など、彼の残している多くの古い品物を前に、日系米人のたどった道を言い聞かせることができる。

1999 年 4 月 6 日、フランク夏原は死去した。一時代は終わり、店もドアを閉めた。白河仏教会での葬儀には 300 人以上の人が参列した。一箇所で一生をよく生き抜いた彼への表敬だった。火葬の後、お骨は父親のあと彼が引き継いで手入れをしてきたオーバンのパイオニア セメタリーの夏原家の墓地に埋められた。四ヵ月後、放火関連の火事で、店は焼け、建物と共にフランクが長年大事にしてきた品々も焼けてしまった。

火が消えた時、そこには殆んど何も残らなかった。ただ残ったのは、大金庫、壊れた古いタイプライター、建物の柱の一部、フランクが毎週シアトルへ出来たての豆腐を買いに行く時のカー(熱で塗りは取れて折れた木でへこんでしまった)、そして唯一の色付の品(ぬれてススくさいハギレの刺繍の黄土。おそろしい光景、それは火の通った書類入れファイルキャビネット。引き出しが一つ大きく開き、焼け焦げた中身を見せていた。

フランク夏原は亡くなり、放火は店が歴史史跡に指定される可能性をなくしてしまったが、夏原家の名誉のためにも、彼等のたどった道は語り継がれるべきであり、又、今なお残存する日系人史にかかわる史跡は保護保存されねばならない。

おわり 日本語訳 竹村義明

一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2010