Japanese American Issei Pioneer Museum
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物語 - 一世関係
17 - 帰郷 (その 1) - 竹村なおみ

帰郷 (その 1)- 竹村なおみ

1993 年 9 月  カリフォルニア州サリナス

佐藤豊三郎様

九十年ぶりの日本で、御両親や御兄弟、そして御先祖の皆様方とお 迎えになられたお正月は、如何でございましたか。

寒い雪国のお墓の中は、さぞかしあったかくてにぎやかで、楽しゅうございました事でしょうね ・・・・・・・・・・

佐藤与三郎さんの生家がある青森県弘前市で、たった一人でお住まいの、豊三郎三の甥の奥様である佐藤てるさん(八十二才)にお会いしたのは、一九九一年夏、八月のことでした。必ず豊三郎さんのお骨を日本に送りますとお約束して、それから二ヶ月経った秋晴れの、ある暖かい日に、私は夫のドライブでスタクトンは向かいました。

先ず最初に訪れたのは、豊三郎さんが入院し、そこで一人淋しく亡くなって逝かれたサンウォーキン・カウンティー・ホスピタルでした。昔は随分と町から離れたへんぴな所だったに違いないと思われましたが、とても立派な大きな病院でした。(もっとも豊三郎さんが亡くなられて、六十年もの歳月が流れています。)

オフィスに行き、この病院に隣接しているはずのサンウォーキン・カウンティー・セメタリーはどこにあるのか尋ねましたところ、二年前に全部のお墓はどこかに移されと聞かされました。私どもは驚きがっかりしました。でもそれは大いにありうることで、いつまでも昔のままであるはずがありません。道理で、それらしき場所は見当たらず、周囲は大きなブルドーザーが動き回り、土地の造成が行われて何やら新しい大きな建物が建ち並び、また建設中のものもありました。

病院で尋ねた女性事務員からは要領がえられず、それらのたくさんのお墓がどこに移ったのか分からないまま、私達は車で墓地らしきものを探してまわりました。会う人ごとに尋ねてもみました。ポリス・ウーマン、少年院のオフィサー、アルコール中毒のリハビリセンターで働く人、ガーデンに花を植えている人などなど、皆親切に教えてくださったのですが、お墓がどこに行ってしまったか分かりませんでした。

これらのカウンティーのたくさんの建物が並ぶ中に、今新しく建設中の建物は、大きな大きな刑務所でした。グルグルと道に迷って入り込んでしまったついでに、六十年前のお墓を探している私達は、あろうはずもないのに刑務所の死体安置所の中まで見せてもらいました。

諦めて、私達は次にスタクトンのダウンタウンにあるサンウォーキン郡役所のレコーディング・オフィスに行き、豊三郎さんの死亡証明書をとることにしました。六十年前のそれがちゃんとあったのです。少し明るい気持ちになってきました。しかし、新しい墓地についてついての追記はありません。そこで事情をお話しすると、衛生局に問い合わせてみなさい、ということで、早速、夫はそこへ電話をしてみました。

サンウォーキン郡立病院に隣接する郡立墓地のお墓は、一八九九年にローダイのチェロキー・メモリアル・パークに移し、全部火葬にして合同埋葬とした、ということが分かりました。もうすでに午後四時半を過ぎていましたが、私達はチェロキー・メモリアル・パークに行ってみることにしました。ハイウエー九十九号線沿いに大きな、そして大変美しいセメタリーがありました。

合同埋葬されているその一角は、すぐに見つかりました。ありました ! ありました! 立派な銅版の碑には、約三千人もの名前が刻まれていました。中にはどういう事情からか、無名者(unknown)とかかれたものもありました。私達は一生懸命豊三郎さんの名前を探しました。しかし豊三郎さんも無名者の一人で、いくらさがしても名前は見当たりませんでした。すでにチェロキー墓地のオフィスは閉まっていましたので、また改めて出直すことにしました。

私達はしばらく碑の前に佇み、持参していたお花をお供えしてお経を唱えました。西の空はもうすっかり赤く染まっていました。故人のお骨が本当にここにあるのだろうか、という一抹の不安が残りましたが、それは次回に確かめることにして家路につきました。

(つづく)

カリフォルニア同人誌「平成」第 16 号 1993 年 9 月号に掲載、同じ題名

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