Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 一世関係
19 - 日米戦争と抑留所生活 - 井上久次郎

日米戦争と抑留所生活 - 井上久次郎

「寝耳に水」、この言葉は一九四一年十二月七日、日米開戦当日の在米日本人の驚きをよく云いつくしています。私もその驚かされた一人です。

一九一六年(大正五年)十二月にアメリカの親達の呼び寄せで、二十才の私は島根県江津市から渡米以来、カリフォルニア州サンノゼ市郊外に住んできました。外人土地所有禁止法のために、日本人は土地を所有することができない。したがって、自分で住む家を買うこともできない不自由の中を、何かとやりくりしながら野菜作りをして四十五才にもなり、どうにか妻子を養って暮らしていました。永年の排日で痛めつけられた在米日本人にとって、この度の開戦は、死刑の宣言を受けたかの如く目の前が真っ暗になる戸惑いを感じました。日米間の関係は悪くて戦争になるのは、時間の問題と言われていましたが、そんな事はないと信じていましたので全くの驚きでした。我々にとって起こって欲しくないことが起こってしまいました。

日米戦争が始まった十二月七日の当日、サンノゼ日本人会々長の畠山喜久治氏が直ちに FBI に検挙されたので、副会長だった私が日本人会を処理せねばならない責任者となりました。以前から日系社会の指導者たちを危険人物リストに載せているので、次々と逮捕連行されていく中で、日本人会幹事の平野周平氏も、年が明けて二月二十日に検挙されたので、私も検挙されるのが今日か明日かとビクビクしながら日本人会の始末をつけ、二月末日には解散してしまいました。

しかし、戦争になって途方にくれている日本人をどうしたらよいかの問題が残っています。その中には毎日の食糧にも困る日本人がでてくることも予想されます。そうした場合に当るべき団体の日本人会が解散したので、これからは仏教会がそうした世話をせねばならないと話し合っていた時に、仏教会理事長の甲斐政友氏が汽車のアクシデントで死去されました。それで、仏教会の会計をしていた私が、そうした事にも対処せねばならなくなりました。

そこで、何をするにも先立つものは金です。在留日本人が散りじりにならないうちに救済資金を用意しておかねばならないので、サンノゼ仏教会の麻生主税、鶴山達也、永谷清人の三開教使に頼んで、仏教会員その他の家庭を廻って資金の寄付を募りました。開教使があちこちしているのを、FBI が目をつけて調べ出し、そのの募金の目的を釈明するのにばたばたしたり、また、近く日系人は総立ち退きになるというので、みんなが仏教会々堂などに家財道具を毎日のように預けに来ていた頃、仏教会から出火したという電話があって、夜間外出禁止法違反で検挙されても仕方ないと仏教会へかけつけたりなど、毎日をあわただしく送っていた。そんな私にも遂にその日が来て、一九四二年四月二十八日に戦時利敵外人として検挙収容されることになりました。

私は FBI 連邦捜査局員に検挙されると、すぐサンフランシスコ南方郊外の太平洋沿岸にあるシャークパークのキャンプに収容されました。そこには、すでにフレスノからの重藤円亮師などの開教使や遠近の知り合いの人達が大勢いたので、「やあ、やあ」といった挨拶をして「さあ、矢でも鉄砲でも来い」といったようなやくざ気分の落ちつきが一応できました。それからの私達は何回かの尋問やら取調べを受けて、指紋までとられてから、行く先は何処とも知らされずに汽車に乗せられ、窓をすっかり閉じての旅を何日か続けて、ニューメキシコ州ローズバーグの抑留所に収容されました。ローズバーグは、今まで住んだカリフォルニアとは全く様子の違った砂漠の真ん中でした。

そのインターンメント・キャンプ(抑留所)は軍部の管轄で、司令官は陸軍大佐であり、敵国捕虜を収容するためのものであって、一時は航空母艦「飛竜」の生存者の日本軍人が四十数名が収容されていました。この抑留所では、私共が若い時に聞きなれていた連隊、大隊、中隊などの組織と配置がしてありました。そして、完備された病院まであって、その病院のヤード広場には、空からの攻撃を避けるために大きな赤十字の標識まで作ってありました。各中隊には、五十人のベッドを並べたバラックが四棟あり、共同の食堂、便所、浴場、洗面場が造ってありました。朝の食事前後には、ずらりと並んだ便器に腰かけて、隣の人と語り合いながら煙草をくゆらせて平気でいた光景は、普通の感覚では考えられない抑留所ならではの異様なものでした。

日米開戦一年後、戦況の変化と米国政府の日系人に対する取り扱い方法の変更によって、私達は軍部から移民局の管轄に移されることになりました。そこで、私などは一九四三年六月にローズバーグからニューメキシコ州の首都であるサンタフェのキャンプに移りました。サンタフェの汽車の駅に着くと、何が珍しいのかと癪にさわるほど大勢の白人やメキシカンやらが見物に来ていました。その中を、青一色の服の背中に「WP」(ワープリゾナー)と白くマークした捕虜囚人服を着た私達が、悄然と汽車からトラックに移されたのです。こんな姿の中の一人に自分もなったのかと、いささか悲哀を感じたものでした。それから、私のサンタフェ収容所生活が始まったのです。千五百人余りがサンタフェに移転して、ローズバーグ抑留所から日本人はいなくなりました。

サンタフェ収容所は、第一次世界大戦ととき出来た古いキャンプで、そこに今度は新しく増築して私達を収容したのです。私達はそこに新しく特別に造った定員六名の小キャビンに入れられたのです。今まで何十人もが、ベッドをずらりと並べて、暗がりでうっかり手をのばすと隣の人の顔に当るような大バラックの中で落ち着かない集団生活をしていたのに比べて、少人数の五人だけが家族的気分で静かに起伏しできる小キャンプの生活をさせて貰ったことは、インタニー生活中で一番楽しいものであったと、今もなお懐かしく思っています。

そのキャンプは、サンタフェ市の市街がはるか眼下に見える眺めの良い郊外にあって、ローズバーグの砂漠の真ん中とちがい、人里近い賑やかさを感じるところでした。しかし、その辺一帯は海抜七千尺の高地なので、私蔵の弱い人にはよくなかったようです。そんな人達は、食堂の鐘がなっても途中で一休みしなければ行かれない、といった困難もあったようです。そして、我々日本人は一番大切なお米のごはんが、高山での炊事のように煮えきらず、うまく炊けずに、かたいしんのある御飯しか食べられなかったのが、いつも小言の種でした。尋常でなかったのは、出来そこないの御飯ばかりではなくて収容所生活そのものすべてであり、やはり正常な人間生活ではなかったのです。女子供の一人も居ない集団生活というものは殺風景なもので、確かにまともな世界とは言われません。

日米戦争のために、在米の日本人の家庭は大きく転換しました。子供はアメリカ人でもその親は日本人だから、子供まで敵国人というかたちになりました。その上、私達のような抑留者(インタニー)は、利敵外人という名の下に、FBIに嫌応なしに家族から引き離されて、鉄条網を張りめぐらし望楼から機関銃を持って昼夜を分かたず監視されるというキャンプの中で、いつまでという期限もなく暮らす生活は、たしかに正常なものではなかったのです。しかも大部分は壮年以上で、しかも老年配の人達ですから、家長のいなくなった自分の家族の者が知らないアメリカのどこかの奥地に集団立ち退きをさせられているといった話やうわさが種々伝えられてくるので、我々は皆一様に精神の平静を欠き、一種のノイローゼ気味ではなかったろうかと思います。

だから、動物園の熊みたいに毎日の散歩に柵内をぐるぐる廻る途中で、突然、鉄条柵によじのぼり監視兵から撃たれたという事件もありました。それから又、あの人がと思う指導者級の人が、何でもない些細な事で口論をしたり、喧嘩をしたりしたこともありました。その反面には、男だけの社会ですから、便器に並んで座りながら平気で雑談してもおかしくないといった、地金丸出しの飾りけのない生活を送っていました。見せかけのない、偽りの少ない平等の世界でもありました。キャンプ内の仕事は、誰彼の遠慮なしに順番で食堂の皿洗い、風呂番、便所掃除などと、健康上で除外される以外は、一様に割り当てられたものです。だから、かつての知名の有志、先生、開教使、牧師でも、当番にはエプロン姿でお茶を注いでまわり、別院の輪番だった人もTシャツ一つで鍋洗いをさせられたというのが、抑留所での私達インタニーの生活でした。

このような収容生活は、また心ある人にとって、修養生活であったとも言えましょう。入所者の中にはその道の先生方が多かったので、書道、尺八、謡曲、短歌、俳句、川柳、手芸、英語などのクラスが開かれた。 もしも、あの戦争でもなかったら、我々はあのカリフォルニアで年から年中、畑仕事に馬みたいに追われ、せわしい、せわしい、忙しいで、ろくに休養もできなかったでしょう。それが戦争のおかげ?で、ともかくも衣食住は官費で支給されて休養させていただき、その上に修養を積んだり、仏法を聴聞するチャンスに恵まれたことは、生涯を通じて願っても得られぬ仏縁であったと思います。

何分、在米日本人社会の指導者と認められた宗教家の大部分が収容されたのですから、仏教だけでなくあらゆる宗教の行事が、キャンプ内で絶え間なしに催されていました。我々は、鐘が鳴ったら食堂へ足を運びさえすればよい毎日でしたから、聞こうと心掛けさえすればいつでもご聴聞できたのです。それは、普通の社会では到底見ることができないものでした。仏教の方を申しますと、キャンプ内には各宗の僧侶方が全部で約百名ほどおり、毎週サンデーの合同礼拝説教は勿論、週間には各宗それぞれの仏教講演が毎日のように開かれていましたから、聞く気さえあればお聴聞は毎日でもできたわけです。

そのキャンプ内で、むなしく死んだ気の毒な人もありました。その人が仏教徒であった場合は、その百人近い僧侶方が葬式に出勤され、全キャンプの人々が会葬してのキャンプ葬でしたから、それは普通の社会でも見る事の出来ない盛大なものでした。このような訳で、かねてから仏教に心掛けのあった人の中には、サンタフェの収容所を千載一遇の修養所、お聴聞所と心得て、仏教を求めた信者もちょいちょいありました。その人達は、いつ出会ってもニコニコと笑顔でしっかり落ち着いていました。何かにつけていらいらしやすい、不満に満ちた柵内生活にも、心静かに念仏を喜んでおられる人たちがいたことは、本当に教えられる尊いものがありました。それがインタニーという不遇な囚われの世界でしたから、一層強く感ぜられ、仏法の尊さ、お慈悲の有難さをしみじみと味わせていただいたのであります。

そうしたキャンプが、何となくざわざわと動揺してきたのは、七、八月の暑い夏も過ぎて秋風の訪れる頃からでした。キャンプ内で抑留者に再尋問を行なって、格別米国の戦争遂行に邪魔になることはしないと認められた人は、家族の住むところへ帰される保釈出所が許されるようになってからです。 その再尋問の際の返答の仕方がまずくて引き続き抑留となった人、また嬉々として出所する人、いずれも同じバラックにベッドを並べての毎日を、戦争が終わるまでこうしてがんばるのだと共に語り合っていたのです。それらの間には、インタニー友達と申しますか、鉄条柵の中で一緒に苦労して同室のよしみがあったのですが、この時からその人々の間柄が妙にこじれてきたのも事実です。とにかく、嬉しそうに出所して家族のところへ帰る人々を、鉄条柵の内側から見送って、すごすごとバラックに帰る者の気持ちには、堪えがたいものがありました。

そうした同室の友人に、アラスカから来た広島県生まれの老人がありました。アラスカに何十年か暮らしていて、今度の戦争のために検束され、アンカレッジに連行されてきて、そこで三十年ぶりで日本婦人に会ったのです。だが、急には日本語で話ができないで困った、といったようなかの地の話を面白おかしく聞かせてくれたものでした。その老人が、パロール(保釈)で出所できるようになった時、小さな仏壇を造ってくれと言い出したのです。私は百姓ですが、ローズバーグ・キャンプにいた頃から、大工仕事をする仲間に入っていました。大体、アメリカに住むと、誰でも掘立小屋程度の造作は自分でできるようになってしまうものです。

私はその老人の申し出を聞いて、お仏壇をどうするのかと尋ねてみました。老人曰くです。アラスカに帰って朝晩拝みたいし、子供達にも拝ませたいというのでした。子供というのは、勿論アラスカ婦人との間にできた子供なのでしょう。よろしい、と私は引き受けて、サンタフェ産の香り高い木であるシーダーをもって、小さな仏壇を造りました。そして、ある開教使が持ち合わされたお名号を頂き、同室の僧侶の方にお願いして入仏式の勤行をして貰って、その仏壇を老人に渡しました。その老人はまもなく、その仏壇をおみやげと捧持して出所しましたが、その時の姿は今もなおはっきりと私の瞼に残っております。それ以来、すでに二十余年、老人は今もその仏壇を拝んでいるのでしょうか。それとも、すでにお浄土に参られたのでしようか。

十一月の感謝祭が近づく頃から、高原のサンタフェは急に寒くなり、雪は降る、ツララはさがる、流行性感冒で病人が続出して、病院は満員という状態になりました。私もその仲間になりましたが、ハワイからこられた親切な上原ドクターの手当で軽くてすみました。そうしたところへ、私にも保釈出所の通知が届きました。いよいよ出所となると、「戦争がすむまでは一緒に」と語り合った人々と別れるのが淋しいような、また悪いような、妙な気がしました。しかし何と言っても、私は家族に会えるという喜びの方が強いので、笑顔で皆さんと別れて、雪のサンタフェから夏のように暑いアリゾナ州ヒラリバーの戦時転住所(ワーリロケーションセンター)の妻子のもとへたどり着きました。一九四三年十二月の中旬、一年八ヶ月ぶりの再会でした。

戦争があったために、我々は過ぎ去った歳月の受け取り方に断層ができているようです。今も、あの戦争はついこの間のことのように思われますが、すでに二十幾年が過ぎ去りました。あの当時、共々にインタニー生活をした先輩たちは、だんだん少なくなってきています。その中で、私は今もこうして平安に生きております。そして、今年で私が世帯をもってから満五十年を数えます。その明け暮れを賑やかに孫子にとり囲まれ、老妻の世話で病躯を養ってもらっている毎日は、まことに「おかげさまで」と言うより外はありません。何かと邪魔の多い人生で、私が横にそれずに今日までたどり着けたのは、それなりのわけがあるのです。私の生まれた古里のほど遠からぬところで、浅原才市同行や善太郎同行が生まれています。このようなご法義の土地で育った因縁から、私は渡米早々の一九一七年にサンノゼ仏教会に仏教青年会ができると同時に入会して、今日までお寺に出入りさせていただきました。そのおかげで、念仏を忘れなかったのだと喜んでおります。  合 掌  一九六五年一月

竹村義明

「日米戦争と抑留書生活」は井上久次郎氏が日系紙や知人に配布したもので、サンフランシスコ日本航空支店に勤務の同郷の小原静爾が受け取った。

日米戦争が始まると、FBIはただちに日系社会の中心人物や各種団体の役員や指導者を危険人物として検束し、開戦僅か三日間に 1291 人を逮捕した。その後の検挙者を加えて、モンタナ州ミソーラ、ノースダコタ州ビスマーク、オクラホマ州フォートシル、ルイジアナ州リビングストン、ニューメキシコ州ローズバーグ及びサンタフェ、テキサス州クリスタルシティー及びシーゴビルなどの抑留所 Internment Camp に収容した。 

戦況がアメリカに不利になるに従い、上昇する排日感情の中で、日系人指導者だけでなく、新しくアリゾナ、オレゴン、ワシントン三州の軍事区域及びカリフォルニア全州に居住する一般市民の日系人約 11 万人も強制立ち退きにより、次の 10 箇所の転住所 Relocation Center に収容されることになった。

  (カリフォルニア州)マンザナー 及び ツールレーク

  (アリゾナ州)   ポストン 及び ヒラリバー

  (アイダホ州)   ミネドカ

  (アーカンソー州) ローワ 及び ジュローム

  (ワイオミング州) ハートマウンテン

  (ユタ州)     トパーズ

  (コロラド州)   グラナーダ

収容所(しゅうようしょ) Camp

普通の会話では抑留所と転住所は、両方とも収容所とかキャンプと呼はれた。

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