Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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日本からアメリカへ  (3)        夏原勢ん

     1915年(大正4年)頃から

リースした畑の都合で、今まで住んでいたイーストオーバンからアリゴナ地区へ千九百十一年に移転しましたが、イチゴ栽培を続けながらその畑にある家で日本人相手にこの頃から日本品雑貨の商売を始めました。そして、千九百十五年になって、AUBURN オーバンの町の屋敷へ二階建ての自分の家を建てました。ダウンタウン近くで、一九十一年に買っておいた土地です。下はお店にして二階は住居にしました。苺畑のリースが終わったら、すぐオーバンの新しい家へ移転いたしました。お店「夏原商店」は日米食料雑貨店です。良人はほかにすることが多いので、子育てをしながら店番は私の仕事です。横浜での奉公の時に商いのことは見てきましたし、商売がきらいではありませんでした。精米は店の隣部屋に精米機をすえ付ける所を作って、電気はありますがパワーが足りませんので、又ギャスリンエンジンで機械を動かして精米しました。

日本のイネワラからバイキンがアメリカへ入ったと言って、その後ワラ類一切が  ゆにゅう(注 輸入)キンシになりましたが、お米の商売もだめになってきました。其の時には、加州に防長日本米ができて( 栽培されて)ましたので、加州から玄米を買い精米してました。加州の玄米は貨車で来ましたが、一度に貨車一台に三百俵で百十斤入りでしたが、それを精米機で精米して小米とぬかは選りのけて百斤にしますのです。また、シヤトルのホ-ルセール・ノースコースト・ツレーデング商会とスターボーエキ商会から毎ウエキ(注 week  週)注文取りにこられまして、デリバリもして下さるので入用だけ注文してました。しかし、しばらくしてから日米商会もスターも皆精米はやめられました。サクラメントの北、コロサで日本人の米作りが盛んで。精米もされましたから太刀打ちはできません。私方も残り分だけ精米してからやめました。

パパは結婚当時はやせていて百十五斤くらいでしたが、健康でよく働く人でした。食事は何も好き嫌いなく小食でした。然し、お餅類は好きで、おもちばかり三日でもご飯はなくてもよい位すきで、一生すきでした。お酒は全然きらいで飲みませんでした、お酒の製造と販売が十年あまりも禁止された禁酒時代、お酒の好きな人はかくれて家でお米からドブ酒をつくって飲まれました。食事は何でも一度も不足は言ひませんでしたのでらくでした。夫はたばこだけは人よりたくさんのみました。シガレットではありません。サイキタバコ(注 袋入り煙草)で、一々自分でタバコをペーパーにまいてのむ分です。小さい布の袋に粉タバコが入っている分です。ブールダハムは一個拾セントでヅークスメキチャは一個五セントでした。夫は五セントの分を毎日一袋づつのんでいました。ところが四十二、三才の時、苺畑二十五エーカーを作り行商もして忙しい時、セキが出てからセキがコンコンと出たらなかなかやまんので、とてもつらいのでシヤトルの日本人のダクターに行きました。「このセキはタバコがすぎた毒だから、タバコをやめなさい。」と言われました時、「酒も飲まんし、ほかに道楽もないし、このタバコだけはやめられん」と申しましたが、ダクターは「このセキは、タバコをやめないとやみませんよ」と申されたので、とうとう観念して早速やめました。

テキメンにセキはだんだん出なくなりましたが、こんどは何か気が抜けたようなさびしい顔をしてますので、あめ玉かニッキ玉でも口にふくんでいたらよかろうとすすめましたら、甘いものは好きでしたからニッキシナモンをたくさん入れてあめ玉を作ってくれと言われたのでたくさん作りました。喜んでおいしいと言ってましたが、あまりニッキがきついので口の中が荒れましたので、自分で考えて仁丹を一粒口に入れていました。舌でなめてると、タバコの後のようなよい気持ちだと申してました。仁丹のお蔭でタバコを忘れ、またのちにはガムをよくかんでいました。良人はタバコをやめたら、いつのまにか10斤も目方がふゑました。

大正7年(1918年)二月二十四日に六女、春子(メイ May)が産まれました。女の子の名前に「子」の字がつけられるのは、皇族か貴族か士族のような高貴な家の女性だけで、平民には無礼(ぶれい)なことでしたから、今までは付けないようにしてきましたが、大正になってから国の法律が変わったのか普通の人でも「子」を付ける人がでてきましたので、「子」を入れて春子にしました。これから又しばらくして、これがはやりとなりましたので、戸籍はだめですが普段の名前は、千勢は千勢子、勢きは勢き子、富代は富子を使うようにしました。オーバンの家に来てから、春子(メイ)につづいて1919年五月に善雄( ジャック Jack) 、1922年四月に米子( メリヨ Maryo) 、1925年四月に丈次(ジョージ George )が生まれました。

店のビルデンを建てた時、店から裏の道までの間に大部屋三つ続きの長屋をたてました。小さいアパートのようにしてストーブを入れて日本人三軒に貸しました。お風呂と便所は外に小屋をたてました。箱作りする人や畑仕事に行く人やら皆日本人男子ばかりでにぎやかでした。クリストパーのお隣の小財新弥さんが急に亡くなって、千九百二十年にすみさんは日本に引揚げなさいました。私にはこの国には家族のほかには親も兄弟も親戚もありませんから、叔母か母のように思うすみさんが居られなくなり、とてもさびしくなりました。勉強としつけのために東光寺に預けていた千勢子は、千九百十九年に久徳尋常小学校を卒業して高等科に進みましたが、竹内等恵住職が千年九百二十年四月に亡くなり、次の年に芳子ご夫人がなくなったのでお寺から夏原の家にもどりました。お二人に子供がなかったので、長い間自分の子供のように大事に育ててもらいました。この頃、久徳の家は今まで藁屋根でしたがカワラ屋根にしました。

精米の商売が下火になったころ、こんどは苺箱がたくさんいるようになりました。それまでは、イチゴ農家は箱をピアラップの箱屋から買っていたのですが、これからは自分で作ろうとしたのです。良人は小学校しか出てませんが、商売は上手でした。近江商人のすじがあったのでしょうか。精米がだめになっても、ちゃんと次に打つ手を持っていました。「箱を作りなさい」と他所からすすめられたのでもないし、「作ってください」と頼まれたのでもありませんでしたが、「日常みんながたちまち必要なもので、商売になりしかも自分で出来るもの」は箱だと判断したのでした。

箱はべーション島、ウインスロー、ベンブリッジ、ベレビューなどのイチゴ屋さん農家へ運んだのです。オーバンの店の横の空き地一ロットへ大きいワヤハウス(注 倉庫warehouse )を建てて箱作りを始めました。ピヤラップの箱屋ミルから箱の材料と箱作りのミシンを買って、箱作りを始めました。箱打ちの仕事に、シヤトルから四人も来られました。ほかからも来られましたので、男女十人位で作りました。千九百二十三年〔大正12年〕に日本から帰った長女千勢も、洋裁学校から帰ってから、箱打ちの手伝いと下の子供らの子守をしました。箱打ちはピースオーク(piece work 出来高による数仕事 )でしたから、上手な人は夫婦で一日五弗になったとよろこばれました。苺の箱作りは一月から六月までです。それがすむと皆さん、苺つみ仕事に行かれます。

日本人が多くなって、「日本人は日曜日でも仕事をする、安賃金で仕事する、お金は日本に送ってアメリカに残さない・・・・・」といって日本人排斥の空気が強くなっていました。日本政府は日本からの労働者を制限するために、アメリカとの間に紳士協定を1907年(明治40年)に結んで、日本から来るのは両親、日本においてきた妻と子供、及び写真結婚の女性だけくらいにしました。さらに、1920年には写真結婚が禁止になって、男性は日本へ行って結婚してもよいが、花嫁と同伴で帰国せよときまり、そんな新婚女性だけが新しく渡米できました。

1924年7月1日(大正13年)には、アメリカ議会で排日移民法ができて、外交官や宗教家など少しの例外を除いて、日本からは一人もアメリカへ移民できなくなりました。これによって、今まで四十年ほど続いてきた日本人移民の道は完全に閉じられました。しかし、一儲けしたくて日本からどうしても来たい人は、どうかして来られました。そんな密航者を移民局に届ければ賞金がもらえるという事でしたが、私らは見て見ぬふりをしていました。横浜から出るアメリカ行きの船には、見送りに来たふりをしてそのまま下りずにいる日本の若者がいつもいるそうです。船員にばけたり、船底の石炭倉庫に入れてもらって船員に食べ物を運んでもらってきた人もありました。

日本人の野菜屋さんが多いシアトルの港に近いサウスパーク方面、シヤトルやタコマのレストランや山手の製材所には、郷里の知人をたよってきた人が多いという話でした。見つかれば強制送還ですから、弱みをつかまれて在留資格が取れるまで、安い給料で働いた気の毒な人も多かったそうです。仕事は日本で想像していた以上にきびしく、其の上に「飲む、打つ、買う」の誘惑のために計算通りに事が運ばず、日本に帰る日が遠のいて各地に仕事を求めて渡り歩く人も沢山ありました。日本からの移民が禁止になったので、一世男子は結婚しようと日本に行っても連れて帰ることができないし、二世の女性はまだ結婚する年頃の人は少ないし、白人との結婚は法律で禁止されているし、いろんな事情で日本には帰れない人も多く、独身の一世男子は本当に気の毒でした。

三男の丈次 (George) は、千九百二十五年四月に生まれました。良人の千代吉は久徳の母親、たけの病気見舞いに四月二十一日に帰りました。ベビーの時から日本においていた三女勢きは、この春に久徳小学校を卒業しました。六月から苺シーズンで忙しいから良人は早くかえり度いと言って、母親のかん病と世話は私の妹、お美登が北海道から帰って世話してくれますので、お美登と親るいの人達にたのんで、六月はじめに帰ってきました。良人の母親は六月二十三日に亡くなりました。父親の善三郎は十年前の千九百十五年に亡くなったので、良人の両親は共に亡くなりました。勢きは多賀の私の母親に預けて行儀作法、活け花、琴などを習わすことにしました。

千九百二十五年には、オーバン仏教会ができました。オーバンの町はずれに白河仏教会がありましたが、オーバンから遠いので、オーバンの町の中に建てられました。二階建ての大きいビルデンです。皆さん、よく寄付をしてくださいました。建築世話人は古賀隆賢、島崎歌郎、大下九一郎、中井忠助、辻伝吉、夏原千代吉の六人でした。二階は仏間本堂で、下の一階は日本語学校の教室でした。オーバン日系人会も必要の時に使われました。八月に落成祝いと入仏式が立派に行われました。前後になりましたが、四月に訪日しました時に、良人は京都御本山におまいりして、仏教会の仏具を皆注文しました。オーバン仏教会は、開教使は不在ですからタマス(注 オーバンの東Thomas )の白河仏教会の開教使様がサンデーと其他仏事にはいつも出張して下さいましたのです。千九百四十年には、オーバン仏教会創立十五周年記念祝賀法要が盛大に営まれました。夫は仏教会のためにはよく寄付をしました。出来る時にはするといって、日本のお宮、お寺、学校や村への寄付を欠かしませんでした。夏原家は日本でも熱心な門徒ですが、アメリカでも毎晩、ご飯の後パパが導師になって家族みんなで「正信偈」のおつとめをしてました。私は「子供たちへのお願い」として「十ヶ条」をきめて壁に貼って、みんな良い子に育ってくれるよう願ってました。

  • うそをついてはなりません
  • かげひなたをしてはなりません
  • ぬすみをしてはなりません
  • 人にめいわくをかけてはなりません
  • わるいなかまにはいってはなりません
  • いつもゑがほでしごとにはげみなさい
  • たべものによくきをつけなさい
  • 人のかげぐちはゆわんよになさい
  • 「いただきます」と「ごちそうさま」はわすれずに。

ほかの人はしなくても じぶん一人でもしなさいよ

  • あさばん仏さまにおれいをわすれずにしてください

1925年秋に思いもかけない不運に見舞われました。六女の春子はすくすくと育って小学校一年生の時でした。熱が出て風邪気味で二日ほど寝込みましたが、前夜に熱も下がりだして喜んでいたのに、翌朝から足に力が入らず立てないと言うのです。恐ろしい小児麻痺ポリオでした。今ならポリオ予防のワクチンもありますが、其の時分にはありませんでした。治す薬は今も昔もないのですが、それは知りつつも、シアトルの大学病院で診てもらったり、ヨーロッパからのトマトがよく効くという話を聞くと、夫は高いトマトを箱ごと買ってきて食べさせたりもしました。1961年10月に43才で亡くなるまで杖の要る不憫な子でした。春子は存命の時、「パパとママが長命だからうれしい」と云って喜んでくれましたが、歳若きわが子に先立たれた悲しみに会うのは、私の前世の種蒔きが悪かったのでせう。春子は「仏様のお救いを聞けよ、目覚めよ」という善智識です。もう誰も弾く人のなくなったピアノを見ていると、私は聞こえない音が聞こえます。それにしても、春子は不幸にして七才の時難病にかかり、片足が不自由になりましたが、うらみもせず、悲観もせず、勉強と仕事に精を出し父母や兄弟皆にいつもやさしくしてくれました。ピアノは殊のほか上手で、ひとに教えて生活し家族に厄介は掛けませんでした。それなのに、愚かな私は春子を喜ばすことも良き方に導くことも出来なかった事を残念に思ひます。親は不幸な子ほど不憫がかかるのです。どれほど嘆いても後へは帰らぬ事とは知りながらお恥ずかしい事です。私は、朝夕御仏前でおつとめをしている間だけは不思議に心が安まります。アメリカへ来てから毎日のお勤めを欠かしたことはありません。(夫は晩年にはもうろくして字も忘れてしまひましたが、お経さんだけは間違わずに、しかも導師をしてしっかりと唱えていました。)

前に日本に行ってから十年以上もたつので、1927年10月に私は丈次をつれて母に会いに行きました。其の時、信州長野の善光寺さまへ私の母と富之尾の(良人の)姉さんと小財すみさんと五人でお参りしました。立派な有難いお寺でした。なつかしい多賀にかえって、見るもの、会う人、すべてが良い思い出になりました。

1930年に善雄を日本におくり、母に預けて多賀の学校へ入れてもらひました。母親の体の具合が悪いといふので、三年後の1933年夏に、私は母親と善雄の様子を見るために日本に来たのですが、どうしたことか善雄が私に何もしゃべりません。良人に手紙を書いて「善雄が物を言わぬがどうしたらよいか」と尋ねたら「さびしいのだろうから、つれて帰れ」という返事でした。私と善雄が居なくなってさびしくて力が抜けたのか、母古登は六ヵ月後の昭和九年三月九日(1934年)なくなりました。父の時も母の時も、とうとう親の死に目に会う事ができませんでしたし、葬式にも出席できませんでした。遠い所に来てしまったのですから、仕方がありません。善雄がアメリカに帰ってすぐに、母から善雄にこんな手紙が来ていました。「お手紙をもらって、すぐに松宮のおばあさん(注:勢んの祖母)に見せに行きました。善雄さんは上手に書きなさるとほめてもらって、私はほんとにうれしくてうれしくてなりません。善雄さん、日本の子供にまけてはなりません。これからもしっかり勉強してえらい人になってください。。。」母の最期の手紙となりました。

苺の肥料は、初めの頃はポートランドのスイフト会社からセールスマンのミスタターリボーさんが注文取りに来ましたので、たくさん注文取って、カーロード(貨車積み)でおくってきましたら、皆で分けましたのです。ところが、二年後にミスターリボーさんはシヤトルへ来て、どく立して肥料会社を始められたので、それまではシヤトルのリボーから買ってましたが、夫は肥料をメキス( 注 ミックス) する事を見たり聞いたりしているうちに自分も始めようと言って、前に買ってあった鉄道線路近くで便利なクリストパーの十エーカーの土地に、線路を引き込み、貨車が横着けできる大きいワヤハウス(warehouse 倉庫)を建てたのです。これは、何年だったか忘れましたが、千九百三十年前後だろと思う。それで、肥料の原料を色々買い集めて、「メキス」して売り出しました。日本人農家からだんだん注文がきて忙しくなりました。

或る時、こんな事がありました。肥料をメキスする時、原料の「ポータシ」(注 potash  苛性カリ)は、ぜひ必用ですが、米国には少なくて皆 ジヤーマニ(注Germany ドイツ)から取り寄せられるのです。シヤトルからブロカーが注文取りに来られますので注文しますのです。十二月までに受け取る約束でしたから、船は港へ着いてましたが、其の時「ロングショーマン」ストライキで荷物は上がらんので大困り。一月に入ってもストライキはやまんので、こちらでは早く必用だからとたびたびデンワしましたので、船主もあきらめて船をバンクーバの港へまわして、積荷を汽車フレツカー(注 freight car 貨車)二台につみ込んで、オーバンのNP 駅ヤードへ送ってきました。一月下旬と思う。NP リッポから、「今 2カーロール,ポータシーフレツ、NP ヤードへついた」とデンワかかり、良人は不在でしたが、やれうれしやと私は早速ワヤハウスに働いてる白人「スワンソン」にデンワして、今ポータシフレツカーがオーバンNP ヤードについたから早く取りに行きなさいとデンワした所へ、表から何か目つきのわるい大きな白人が入って来て、「夏原いるか」と言ったので,「ヒーナットヘヤ」と言ったら、「わしはFBI や」と言って「今NP のヤードへポータシー2カーロード入ったが、あれは開ける事ならん。明日朝九時に来るまであけるなと夏原に言って置け」と言って出て行った。 (NP・鉄道会社の名前

私は、わからんような顔をして、只フンフンと言っただけ。さあたいへん。折角よろこんでたら、FBI だと言って朝九時に来るまであけるなと言って帰ったが、九時までに一カーでも出せたらよいが、スワンソン一人では無理やろう、どうしようかと困っていると、丁度店に買い物に来て居られたミセス石田が聞かれた。石田さんは、うちの畑に居られた方ですが、「では、うちのボーイにヘレップ〔注 help 〕させませう」と言って、ボーイさんがツラクで来て下さいました。私はまた嶋崎さん方へデンワしてたのみましたのでベレーさんが大きいツラクで来て下さったので、うちのツラクと三台の大きいツラクで「クリストッパ」のワヤハウスへ運んで下さったのです。三時頃から夜の十一時過ぎまでかかって、2カーの積荷を皆運んで下さったのです。良人は十二時前に帰りましたので、以上の事話しましたら、「そら大へんやったな。皆さんご苦労さんやったな」とよろこびましたが、警察かFBI が明日朝九時まで開けるなと言ったが、明日朝来て2カー共開けてあるのでおこるだろうと申しましたら、良人はフ-ンと言って平気な顔をしてました。良人は体は小さくても割合度胸がありました。私は体は大きくても気が小さいのです。

翌日九時にFBI の白人が来ました時、良人はオーバンの店のオフィスデスクで帳簿をしていました。「ユー、夏原か。昨日九時に来るまでポーターシーのカーをあけるなと言って置いたのに、なぜ開けた。どこへ持って行ったのか。」と聞きますので、フワマア(注 farmer 農家)は肥料が早くいるのでフワマアが皆持って帰ったと良人が申しましたら、どちらの方へ持って行ったかと聞きますので、良人はフワマアは八方に居るからどちらへ持って行ったか知らんともうしました。農家へ一たん運んだ物は押さえる事はできん、もうあきらめたのでせう。ぷんぷんおこりながら出て行きました。私は陰から様子をみていました。おこって何からんぼうでもされるかと心配して居ました。良人が, 若しクリストッパのワヤハウスへ運んだと言ったら、すぐワヤハウスにピケットつけて困らしたでせうが、フワマアがみな持って帰ったと言った良人の機転で難をのがれたようす。ストライキがなかったら、十二月にクリストッパのワヤハウスに着いてるので、私等がツラクで運ぶ必用もなかったし、デーラー(注 dealer 業者)はバンクーバーからオーバンまでは二百マイル以上も運賃払わなくてもよかったし、ストライキは災難でした。

町外れのパイオニア墓地は、日本人では夏原家が最初にお墓を作りましたが、その後ご不幸のあった方もだんだんお墓をここに作られましたが、日本に引揚げた時に日本に正式につくるということで、ここの墓地には木板の塔婆を立てる程度の簡単なものが殆どでした。書いた字が読めなくなったものもありました。日本に帰られる柴田栄寿開教使が1922年のメモリアルデーの墓参の時に、丸橋さんのセメントのお墓をご覧になって、是なら安くできるし粗末にならないから是非こんなものがほしいと置き土産の注意の言葉を残されました。それから、少しずつ作ってきましたが、1927、8年頃に残りの全部のお墓をセメントで作り、墓地の整理をしました。板橋武一さんがトラクターで地面をならし、木箱の型の中にセメントを流し日系人みんなで作りました。セメント流しの手伝いをした若い衆には石碑一つに一ドルあげました。乾かないうちに、仏教会の先生竹村義諒開教使にお願いして、石碑に法名と俗名を書いてもらいました。初めは指で書いて居られましたが、固くなりだしたので木のステッキできれいに書いて下さいました。十分かわいてから大きなトラックに積んで墓地に運んで、きれいに並べてすえつけられたので見違えるように立派になりました。其の当時のオーバンの新聞オーバングローブにくわしくこのお墓のことが出たそうです。

お墓はきれいになりましたが、今度は草刈と掃除が大変になってきたので、早速草刈ミシンを買って、チャレー; リブリンという白人に仕事を頼みました。はじめは一時間五十セントから七十五仙、一弗、一弗二十五仙とだんだん高くなりました。一世の娯楽のために、昔の活動写真はトーキーでありませんが、加州から活弁士の浪衛門さんや伴さんが時々回って来られて、白河仏教会の会堂で開かれました時、純益から何割か墓地掃除費に寄付して頂きました。

白河仏教会の竹村義諒開教使と千勢子が千九百二十九年六月に結婚しました。初孫寿美子が翌年に生まれ、次女和子が生まれた1932年6月、竹村一家はアメリカを引揚げて氷川丸で島根県に旅立ちました。これが、義諒師との最後のお別れとは思ひませんでしたが、急性肺炎で昭和九年二月二十三日(1934年)亡くなってしまひました。不思議というか、その日の朝、義明が生まれたので病床で息子の顔を見てからのご往生でした。昔の事ですから病院も産院も同じ家の中の出来事でした。十月に千勢子は子供三人をつれてもどってきました。しかし、アメリカでの生活はむつかしいと判断して、千勢子は日本の夏原の実家に入れる事にして、翌年1935年1 0月11 日(昭和10年)に良人は千勢子らと一緒に日本へ行きました。五六年もすれば自分たちも日本に引揚げて帰るから、それまで寿美子はこちらで預かることにしたので、下の子二人(和子と義明)をつれて行きました。

良人の日本滞在は翌年3月まででしたが、久徳の古い家をひと月あまりの突貫工事で二階建ての家に建て替えて、壁土のまだ乾かない家に一晩寝て帰ってきました。小作の人達が年貢米の米俵百俵余りを庭先に積み上げて見せてくれたそうです。良人は日本に帰るたびに「田んぼの売り物がないか」と親類にたのんで多賀や久徳も田地を買いました。還暦のお祝いをして貰って、その記念に短冊をもらって帰ってきました。「 夏原千代吉殿の再び渡米せらるるにつき別れを惜しみよめる歌  立ち別れ また逢坂のほとときす こゑきくまては まちてたひぬる  樂堂」 千勢子の手助けをしながら、結婚するまでに日本のことを知っていたほうが良いからと、一緒に連れて行った四女の富子は、久徳の家に一年半ほどいて花嫁修業の習い事や京都や奈良など各地の名所見物をしました。富子が日本から帰って間もなく、1937 年7 月に支那事変が始まりました。

是は戦前の事で、四十年も前の事です。千九百三十六年(昭和十一年)の秋、長男フランキが丁度二十五才の時にシヤトルから二世のベースボールチームが日本へ遠征に行った時、フランキはその団体に入って日本郵船氷川丸で一緒に日本へ行きました。その当時の日本にはまだなかった高価な写真機を持って行き、旅行先や久徳で沢山写真をとって帰りました。近所の人たちやなつかしい小財スミさんの写真もありました。富子も丁度、久徳に帰っていました。千九百二十九年からの不景気は、七年もたつのにまだ続いていました。本当に長い間、アメリカ中で不景気がつづく大変な時代でしたが、日本も同じように不景気で、都会では仕事がなくてルンペンがいっぱいだったそうです。

私方夏原商店は 開業当初から現金売りは少なく、日本人農家には肥料から食料品一切をクラップ(注 収穫)が取れた時に払う約束の「つけ売り」で、皆チャージでした。不景気の上に、大霜で作物が全滅になったとか、豊作の年でも安くて売れなくて一仙にもならなかったとか、千九百三十年前後はフケーキがつづいて皆大困りしました。今頃の人が聞いてもウソのように思われるでせうが、あの不景気の時にシヤトルの古屋商店は支店を五ヶ所と東洋銀行まで持って居られましたが、一度に閉まったので皆おどろきました。あの不景気な頃、小さい銀行はたくさんつぶれたとききました。其の頃私方でも、農家の作物の収入がないので困っていた時、オーバンの銀行の副頭取「ミスターホール」さんが、「チャレー、ユー、ボースタープにするか」と尋ねられた時、良人は子供がいるからボースタープはしたくないと申しましたら、「そうか、それでは今から払い込みをイージーにしてあげよう」といって、商売を続けられるようにして下さいました。其の恩人ホールさんは戦後亡くなりました。( 良人はビジネスを始めてから、白人にはチャールス (Charles) の名前を使ってましたから、みんなはチャーレー {Charlie} と呼んでいました。)

千九百三十年代の何年か忘れましたが、悪い付け火放火がつづき、最初にスミスデリーミルク屋の牛のバアーン(納屋)が付け火で焼けました。つぎは、日本人ミルク屋の板橋様の牛のバアーン丸焼けで牛がたくさん焼け死んだので、板橋さんはオーバンの仏教会で死んだ牛の法要をおつとめになりました。一週間後にまた、小財喜一郎さんのミルクハウス牛のバアーンに放火があり、大事な牛が何びきも焼け死んだと泣いて居られました。生き物をこんなに殺生するあくま、つかまらんので、また一週間後に安村さんの大きいバアーンが丸焼けになったが、安村さんの牛は皆外にでていたので、牛はたすかりました。つぎに又付け火で、喜一郎さんの弟、小財末次郎さんのミルクバアーンが放火で大きいバアーンと百姓道具皆まるやけにされました。幸ひ牛は外にいたのでたすかりましたと。 タマスからオーバンまで四マイル位の間で五つも放火しとるのに「はん人」は見付からんのでした。日本人排斥が強い時期でした。

九月一日のレバーデー休みが三日つづくので、今まで苺タイムとても忙しかったので、子供等学校夏休みにどこへも遊びに行けなんだので、ヤキマの平原さんが

ボートを作ったからレーキへツラウト魚つりに行くから是非遊びに来て下さいと言って下さったので、一泊するつもりで子供等皆つれて家族七人行きました。善雄一人は、此の日、ブラキベリー十クレーツをワイオミンヤローストンパアークホテルへ送る事になってるので、善雄( 注 次男で英語名は JACK )が「ミーが送るからママもパパも皆行きなさい」と申しました。平原ジョージさんは、内で二年ツラクドライバで働いて下さったので、お互いにしたしく交際しています。ヤキマにご両親が居られましたので、ヤキマ市にホテルを買って、移られたのです。それで、是非ホテルで泊まってゆっくり明日はレーキへ魚つりにつれて行くと言われたので、みんなでヤキマに来ました。子供達はよろこんで夕食のこちそうを頂きました。私は日の入りになった時、ふっと家の事が気にかかり、「今夜は寝んと(注 寝ずに)帰りませう」と申しました。平原さんは、一晩位大丈夫ですよと言って止めてくださったけれど、私はどうしても気になるので帰るとがんばりましたのです。ケントの銀行の方が「付け火で大きいミルクハウスや牛のバアーンがいくつも焼かれたが、ナツハラ お前の大きいワヤハウス用心しなさい」と注意して下さったのですから、私等が留守にして、もし今夜付け火されてやけたら、ジヤキ (Jack) は一人でどうしようかと心配してうろたえるでせう。ママかパパが居たらよろしいが、ジヤキ一人では心配だから今夜は帰らせて頂きませうと申しましたら、パパも子供等もノーとは言わず皆だまって帰りました。

丁度十一時にクリストッパの家に帰りました。ジヤキはまだ新聞を読んでましたが、「今夜は宿ると言ってたのに帰ったのか」と申しました。「宿る積りで行ったが、夕方になって家の事が心配になったので、急に帰りましたよ。お前一人の時火事が起こったら心配だから帰ったのです」と言って、子供等は早く寝るように言いました。十二時前にふとワヤハウス (warehouse) の方を見たら、鉄道線路の方にガスのようなけむりが見えるので、是は火事ではないかと思ってよく見てたら、急にパアと赤くなったので「パパ、ワヤハウスの方、火がみえてるから早く起きなさい」といって、ジャキにも、ワヤハウスの方が火事だから早く起きなさいと言って、オーバンのフワイヤーデポト (fire department) へ電話かけさせましたが、オーバンは市内だけしかでだめでした。それで、ケントのフワヤデポトへデンワしたらケントは市外も出られるので来て下さったけれど、おそくてけしとめられず、まるやけになりました。肥料の原料ボンミールなどたくさん皆やけて大きいそん害でした。近くにあった小財さんの小さいバアン (barn) と私の家の馬草へーの入れてあるワヤハウスだけは、おかげで消しとめて下さった。私たちがもしヤキマで宿ってたら、此の火事は見ずにすみましたが、子供等は折角喜びたのしみにしてましたのに、私が夕方になって帰るとがんばりましたので、皆だまって帰ったのです。後になって私は「これは、こんな事が人生にはあるぞ」と神仏様が私達に教えて下さったのだと思い、別にけが人も出なかった事にかんしゃいたしましたのです。

はん人は、いつまでたってもつかまったとききませんから不安なことでした。焼けたワヤハウスの火災保険五千弗下りましたので、早速日本人の大工さんと白人の大工さんに入札で、五千弗のカンツラクを白人の大工さんがうけおって、元の所へ立派なワヤハウスを十一月か十二月までに仕上げて下さいましたので、又肥料の原料を色々買ひ集めて大きい「メキス」のミシンを買ひました。油粕(あぶらかす)がこの地方の農家に好評なので、日本から野田醤油会社から在庫全部を買って船で送ってもらったこともありました。フランクとジャキはハイスクールの時から、5トンツラックやカーに乗って肥料の配達や店の品物の配達と注文取りのヘレプをよくしてくれました。肥料のほか、苺つくりや、箱作り、それにお店と忙しい日がつづきました。

1939年(昭和十四年)二月から世界博覧会がサンフランシスコで開かれましたが、農繁期になるまでにと、五泊六日の予定で開幕初日から一家六人(千代吉、勢ん、勢き、富子、ジョージ、竹村寿美子)汽車で出かけ、博覧会を見た後、サンフランシスコの街や近くの町を見て帰りました。みんな楽しく大満足でした。私も行きたかった桑港を初めて見せてもらいました。出来上ったばかりのべーブリッジとゴールデンブリッジ金門橋もわたりました。チャイナタウンの大きいのにおどろきました。仕事から解放されてパパにはよい骨休みでした。日本に三年も行っていたので学校がおくれていた善雄が、この年の六月にオーバンハイスクールを卒業しました。翌年の1940年2月(昭和15年)に勢き子の縁談がまとまり、ヤキマの須田へリー肇さん(父親の和歌山県人、須田竹松さんは以前は近くのサムナーで農業)と結婚しました。1940年6月にメリヨがハイスクールを卒業して、九月からワシントン大学に入り、シアトルへ出て行きました。子供達も成長したので、ずっと長い間膝下の神経痛で苦しんでいた夫は、温泉がよいのではないかと1940年春に、行きも帰りも氷川丸で日本に行って、日本各地の有名温泉で3ヶ月間湯治しました。

しばらくして、千次に縁談が持ち上がり、翌年1941年5月1日に白河仏教会で、京都・亀岡の小学校の先生の澤田静子と結婚式をあげました。静子はアメリカ生まれの二世ですが、日本に引揚げて彦根の犬方に住む澤田伝一郎、ステ夫妻

の長女で、彦根高女(高等女学校)と大津の師範学校を出ていました。日本とアメリカはとても仲が悪い時期で、戦争が始まるかも知れぬといううわさがありましたが、よく来てくれました。移民法のために日本からの日本人の移民はできませんが、静子はアメリカ生まれの二世ですから渡米できたのです。

すべてが順調に進んで喜んで居りました所、とつぜん1941年十二月七日に日米戦争がおこり、大いにおどろき、どうなることかと皆々心配いたしました。日米関係が悪い事はいつも新聞に出ていましたが、まさか本当に戦争になるとは思ひませんでした。内はずいぶん大きな打撃をうけました。先きに書いたとおもいますが、内では現金商売は少なく、農家へは肥料も食料もクラップ(crop )が取れた時に払う約束のチヤージ帳面付け売りですが、なかなかクラップ取れた時に払う人は少なくて、年の暮れの十二月三十一日までに払ってもう事にしてました。その年も十二月にパパは「かけ取り」に毎日出て居りましたら、一世日本人は十五マイル以上は足止めになり、夜は八時以後は家から出られんときびしい規則がきめられました。昼でも夜でもあちこちに兵隊や警察が見張りしているので油断できませんでした。パパはかけ取りに農家へ行っても、今後どうなる事やら分からぬからと言って、お金はあってもなかなか払ってもらえず、「ノーツ」(証文)を書いて下さいと言われるので、パパも仕方がないから控えのノーツを書いてシヤイン (サイン) をもらってました。「いつ払ってもらえるか分らんのやが、仕方がない。」とよく言ってました 。  

日本からアメリカへ (3) おわり    (つづく)

注:

終戦後になっても、「損害補償はガバメントに損害請求をして、ガバメントからもらって下さい」とか 「親の借金には自分等は関係ない」と言う人もあった。戦後の生活も少し落ち着いた1948年に、加州へ集金に行ったが結果はかんばしくなかった。収容所から出てオーバンに帰る人が少なくて、以前のビジネスもなくなり、戦争の被害はながく続いた。  

戦後、1950年頃の第一次戦時立ち退き損害賠償の際、夏原家はシアトルに事務所を持つ二世の弁護士、坂原亨 (Toru Sakahara) を介して政府に賠償請求を申し込み、かなりの額を受け取った。しかし、これはビジネスの帳簿上の損失額であり、立ち退きによるビジネス中断の被害の大きさからみると、損失補償と云えるものではなかった。

1980年代の立ち退き賠償では、立ち退きの生存者には、謝罪文と共に二万ドルが支払われたが、これは個人を対象としたもので、ビジネスの損害への補償ではなかった。

 

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