Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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    物語 - 一世関係
29 - 在米五十三年の想ひ出 - 久保助作
 
             
 

在米五十三年の想ひ出    久保助作    1960年 シアトル

顧みれば明治四十年(一九〇七)春に移民法の改正により、学生、商人並びに在米の親の呼び寄せの外には、当時日本外務省として米国への渡航免状の下付は厳禁していた。然し渡米熱に燃え立つ私は親戚に当る彦根町(現滋賀県彦根市)京町、丸正上野醤油醸造所の店員として米国向け丸金醤油販路を拡張する目的の許に、委託されて視察の名目にて旅券の下付を出願した処が、間もなく下付になって、同年八月シアトルに上陸した。早速目的とする商務にて古屋商店、平出商店、タコマ市の岡丸商店以上三軒が日本食料品を販売していたので、店主に合って商談した処が、いづれも野田醤油と特約されており、割り込む余地なく断念した。

そこで方針を替えて他に生きる道を構ぜねばならぬ。それかと云って有り余る資本があるでなし、かつ又英語不十分、一層のこと学僕となり英語の習得をと思ひ立ち、或る周旋屋に掛け合って就職を求むべく二三の白人家庭に尋ね合わした処、何れもが英語を多少解する者が欲しいと云うのであった。之も断念せざるを得ず、そこで同航者の友人と謀り、鉄道の仕事に就職を求めた。二三日経て職場に行き、つくづく想うに遥々大きな夢を見てきた己が現在の状態は想像もしなかった鉄道工夫とは余りにも情けない。夜間秘かに落胆の涙で枕を濡らした事屡々。翻って名々業成らずんば死すとも帰らずの一言に気を取り直して諦めた。当時一日十時間働いて一弗十五仙であった。戦後目下の給料は普通八時間働いて最低九弗より十六七弗、之に比較すれば雲泥の差で感慨無量。薄給ながらも四五年辛苦を舐め、その間多少蓄財も出来たので、一九一二年秋大胆にも白人相手の旅館を買い求めて経営する事にした処が、不馴れでもあり充分英語も解せぬので不安の思ひがした。でも誠実と親切を専ら実行した。幸いにして真心が通じてか日に日に繁盛して漸く愁眉を開いた訳で、翌年妻を迎へて共稼ぎ、一九一七年孫見せの意味で一時帰国、翌年再び渡米し、従来のごとく又旅館を求めて経営、日米戦突発まで三十八年間同業に従事した。

斯様にして少々基礎も出来て将来の見透かしも付き、喜こんだのも束の間、戦争になり敵国外人として強制立ち退きを命ぜられ,止むを得ず涙を呑んで命の糧ともする商売を捨て、親子六人丸裸となって遠隔の地に転住させられた。転住所はアイダホ州の中央で広漠たる原野、一望千里の荒野原で棲息するものは鈴蛇、ダニ位のもので、土地は火山灰、昼夜強風に見舞われ塵埃尺を弁ぜずとは此の事、悩まされた。冬は極寒零下幾十度、鉄柵をめぐらして所々に機銃持つ監視兵付き、ここに不安の三年有余を無意味に過ごした。

終戦なるや、元のシアトルに帰還したが、私は既に老境に入り、あまつさへ病妻を抱えて再び事業を起こす勇気もなく、家事万端は子息にゆだね、以来十有余年隠居生活に入り、趣味にする歌や詩吟にて安静の余生を送っている。以上が五十三年間の偽らざる思ひ出であります。おわり

久保助作 (くぼすけさく) 出身:滋賀県坂田郡伊吹村

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