Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

前のページにもどる

    物語 - 一世関係
30 - 難しい時代  1920 年頃のロサンゼルス - 森野正一
 
             
 

難しい時代                森野正一

1920 年頃(大正9 年頃)のロサンゼルス
日本娘は非常に少なく、若い男性には悲惨な時代であった。日本人町を中心にした近辺では、石川商店の井上氏の秀子様、佐藤商店の娘、片岡時計店の娘、廣島屋旅館の娘くらいしかいなかった。松風堂に背は低いが素敵に美しい娘が来たが、彼女は婚約済みとの話だった。当時、結婚しようとすると、結納金を千ドル出せ、二千ドル出せという親もあった時代で、若い男にはまったく受難の時代、娘を連れて逃げたり、他人の細君を連れて逃げる者も出たが、時代がそうしたのかも知れない。

この頃、自動車の数は非常に少なく、市内ではまだ馬車を見る時代で、駐車スペース探しの苦労はなかった。店でも自動車を持っているのは、店主の石光氏のみだった。それから数年して、カリフォルニアの自動車数は急増した。一九一九年に写真結婚が禁止されたので、アメリカで結婚するか、日本へ帰って結婚する以外に道は無くなった。娘の少ないアメリカでは困難なので、同僚の友人は店を退職して日本に帰り、結婚して再渡米して他社に就職した。

一九二一年十一月二日には、一般投票で日本人の借地権が禁止された。排日の烈しい中で、L.A. タイムス. 紙は、終始日本人のために味方して好意ある記事を掲載し、S.F. エキザミナー紙は大々的に排日記事を掲載した。何かにつけて、終始一貫タイムス紙は日本人を擁護し、エキザミナー紙は徹頭徹尾排日に終始した。私としては、タイムス紙の善意を一生忘れることができない。

戦前の太平洋沿岸では、日本人の子供は大学をどんな優秀な成績で卒業しても、その学歴に応じた仕事ができるのは、日本人相手の医師、歯科医、弁護士だけだった。そのほかは日本人経営の会社や商店で働くか、野菜屋の売り子かガーデナー、農園労働以外に職は無かった。白人の会社や商店では、日本人客相手のセールスマンの仕事しかなかった。子どもの将来を考え、排斥のない、自分で好きな職業を選べる日本で子供の教育を受けさせようと、経済的に余裕のある親は子どもを日本に送った。

1930 年代に入っても、1924 年の新移民法の影響が出てきて、結婚難は続き益々深刻になった。販売係りのSの細君は、中加に居住する某と結婚する為に日本から来た「呼び寄せ二世」だが、某を嫌ってサンフランシスコに上陸以来別居して、知人のいるロサンゼルスに来てSと結婚した。後で、呼び寄せの費用などでごたごたがあったようである。これは会社に関係はないが、サンタバーバラ在住のKは、先年日本から呼び寄せた妹が結婚する前夜、妹を連れて逃げて同棲した。実の妹でも別れて成長すると、実の兄妹の感じがないのかも知れない。とにかく、日本女性の少なかった時代には、問題が多かった。

新しい時代 戦後
戦争前、日本人はいかに優秀な能力のある者でも、米人会社の中で良い仕事は取れなかった。それが戦後は、米人社会にどしどし進出し、しかも優秀だとして日系人の就職を歓迎している。また、ロサンゼルスでも白人区域の家には住めなかったが、それが戦後はどんな地区にも住めるようになり、帰化権を与えられて、戦前の私らには考えも及ばなかったことである。この点から見て、私は今度の戦争で一番儲けたのは在米日系人だと思う。金銭上の信用は、昔から絶大の信用があった。現在でも同様であるが、時折不心得者が出て、いくらか信用は低下している。一世の我々は、日本人として恥をさらすなという気構えがあるが、二世・三世はどうなるだろうか。

森野正一 Shoichi (or Masakazu) Morino

  1900 年 (明治33 年) 7 月  広島県福山出生  尾道商業学校卒業
  1918 年(大正 7 年)12 月  父親の呼び寄せで渡米

森野正一著 「私の思い出」1971 刊 より抜粋

www.isseipioneermuseum.com

一世パイオニア資料館

 

 
一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2013