Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
34 - 渡り歩きの一生 - 安田純一
 
             
 

渡り歩きの一生        安 田 純 一

聞き取り筆記 福井近雄 1973 年 9 月

安田純一は、明治17 年(1884)4 月 に鳥取県米子市大篠津町で 安田重孝、オスウの長男として出生した。元来、働き人二十名も雇った程の村でも有数の米作・養蚕農家だったが家運が傾き、父親は病弱で三十五歳で死去した。純一は明治三十五年(1902) 十八歳でオスウと結婚し、家業に従事していたが、日露開戦と同時に明治三十六年、輜重兵として軍務に就き内地勤務となった。当時日本は、日清戦争に行き続き日露戦争にも勝って意気衝天の勢いで、世界の海に覇を唱えた英国に倣って、同郷人の間にも海外雄飛の気運は盛んになった。斯かる時代の波に乗って、青年安田も一旗挙げようと渡米を決意した。

明治三十九年(1906)妻と三才の長男を残して単身渡米、八月、サンフランシスコに上陸した。それは、かの桑港大地震があって五ヶ月ほど経った時だった。町はまだ到る処廃墟と化していたが、幸いにも、道路を隔てて焼け残った日本人町に行き着いたものの、電気はなくて夜間の外出は出来ず、日夜白人の暴徒が荒れ廻って、夜も安眠が出来ない状態であった。地震による日本人の死亡は耳にしなかったが、当時サンフランシスコの日本人のほとんどが白人の家庭働きで、家が煉瓦造りであったので毀れた煉瓦を馬車に積んで港に捨てていた。彼らの話によると、地震で起こった火災は、水がないので防ぎようがなくて焼け放題であったが、火の手の広がるのを防止するた為、道路を境にしてダイナマイト爆弾で家を毀したものだと云う。大方の日本人は、働き先の白人の家が焼けてしまったので、職を求めてロスアンゼルスへやってきた者が多かった。自動車を持たないので、汽車や船で当地に来たと云う。

斯かる騒然とした震災後のサンフランシスコに一週間ばかり居たが、食にも困ったので地震の被害を全然受けなかった湾東(East Bay)に移り、ブドウ、ハップス、プルーム等の収穫の仕事にありついて三ヶ月程就働した。その当時は、日本及びハワイから日本移民が大挙やって来たので、その翌年にはハワイからの日本人の本土移住が禁止される等、排日の兆しが見え始めた。

此の仕事を振り出しに、初期のパイオニヤの多くがそうであった様に、仕事から仕事を求めて転々と移動する生活が始まった。彼の足跡は、それよりネバタ州内のSP 線(Southern Pacific Railroad)工夫となり、その翌年にはユタ州のソーとレーキに移住し、同地の銅山や赤色の石材を切り出す仕事に従事した。其処には橋本事務所というのがあり、手数料を取って仕事の斡旋をしたり、日本送金や手紙の取次ぎをしたりして居た。

それから、アイダホ州ポカテロに移った。其処は交通の中心地であったが、鉄道や炭坑に働いた頃は野菜に乏しく、ユタ州のオグデンの日本人経営の店から、ポテト、アニオン、味噌、醤油等を送って貰った。当時工夫は十時間働いて日給が一弗十仙であった。鉄道工夫をした時、川が側にあったので日中は実に蚊が多くて困ったが、夜になると冷えるので不思議に出なかった。炭坑の仕事は白人と一緒に働き、日給は高くて三弗位であったが、暗がりで働き食って寝るだけの生活の連続で、何の楽しみもなかったが、九州の炭坑で働いたことのある者達は平気の様に見受けられた。

当時、娯楽機関は全然なかったが、ギャンブルをする様な者は居なかった。然し、年に一回位同郷の者が初めはチョンガリを、後には浪花節を語って、田舎のキャンプを志 (おこころざし) を貰って回ったものだ。その頃、支那人は殆どが洗濯屋か博打場をやり、店の前で椅子に腰掛けて長い煙管(きせる)でアヘンを吸って居た。日本人の醜業婦も大勢居たが、彼女等は白人が日本から連れて来たもので、主に横浜の女が多かったと云う。ソートレーキでは公然と女郎屋が店を開けて居た。  

斯かる転々とした暮らしの中にも、真面目な者は金の使いようがないので自然と金はたまり、当時紙幣は流通して居なかったので、コインを百弗も持つと重くて困ったそうだ。彼はそれを屋根裏へ常に隠して置いたと云う。

一九一三年、プレジデント・ウイルソンの時代は実に不景気で、仕事もなく鉄道線路の傍にテントを張って居たが遂に脚気になり、転地療養をするために、ロスアンゼルスに移った。忽ち脚気はなおったので、ルーミングハウス(簡易宿舎)のジャニター(掃除人)となり月給三十弗で働いた。当時はバキュームクリーナーがまだ無かったので、ラッグは庭に持ち出して棒で叩いて埃を取った。庭の草刈りには、ローンモアをフィルバーに乗せ、ガーデンツールは肩にかづき仕事して廻った。併し、ジャニターでは食うだけなので、リバサイドに行き一冬オレンジ捥ぎをやり、後ネバタ州のマウンテンホームへ行きホテルのジャニターを四ヵ年やったら、すこしお金が溜まったので、加州のパサデナに来て農業を始め、トメト、ピー等を栽培した。

パサデナへ来た年、即ち一九一六年に日本より妻を呼び寄せた。呼び寄せる為に日本に八十弗送金し、入国には百弗の見せ金(現金)が必要だったが、その場だけ融通して貰い、移民官の調べが済むと返した。入国には眼の検査が厳重で、殆どの者がカナダのビクトリヤ港で一週間抑留所へ入れられた。パサデナで、子供三人が生まれた。然し、かの排日土地法のために農業が出来なくなり、ロスアンゼルスに移り、以後第二大戦の開戦までガーデナー (庭園師) を本業とした。

第二大戦開戦後、二男勲は先発隊となってマンザナーへ行き、二日後に全家族が家財道具を捨て売りして、サンピードロ在住の人々と共に一九四二年四月、マンザナーキャンプに入所した。入所中に、アイダホ州の砂糖大根やポテト農場へ出所して働き、終わりの二ヵ年はアメリカ東海岸ニュージャージー州のシーブルックで就働した。その理由は、何れ収容所は閉鎖されるだろうし、先に加州へ帰還した人々からは激しい排日空気の模様が伝えられたからであった。彼は一足先にシーブルックに行き、家族の者は三ヶ月後に移った。彼はジャニターとして働き、時給七十五セントの給料を得たと云う。

同農場には、中米ペルーの日本人を加えて日系人約一千人とそれとほぼ同数の黒人が働いて居たという。時にはバスを雇ってワシントンやニューヨークへ見物に行ったが、東部の白人は加州と異なり人情も厚く、戦時中にもかかわらず何処に行っても排日の空気は感じられなかったという。電車に乗っても、黒人の座席は区別されて居たのに、日本人は白人並だった。

終戦の年、即ち一九四五年の十一月までシーブルックで働き、加州に帰還して戦前より所有していたハリウッドの自宅に、戦時中住んでいた白人家庭にやっと出て貰って一家が落ちつき、元のガーデナーとなり再出発をスタートした。   

家族 1973 年 9 月
  妻  オスウ 1963 死亡
 
長男 英一 (雅号 北湖) ホトトギス俳句同人 羅府 橘吟社
 
次男 勲 軍隊除隊
 
三男 16 歳で夭折
 
長女 富子 陸軍病院看護婦長 子息いづれも独立し、各界で活躍している。

南加日系パイオニアセンター
「歩みの跡」より抜粋

 

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