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日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
35 - 太平洋の初旅 - 馬男木 瞳
 
             
 

太 平 洋 の 初 旅       馬男木 瞳

福岡県 1902 年 生まれ 加州リッチモンド居住

1922 年 9 月 28 日、慌しく結婚式を挙げ、一通りの儀式を済ませて、10 月 20 日、主人の母、叔父、私の母、その他大勢の人達に見送られて、故郷の博多駅を出発した。途中、伊勢にお参りし、京都、奈良、二見ヶ浦、名古屋などを見物し、母が行きなさいと云った東京は時間が無いので行けなかったが、無事に憧れの横浜に着いて旅館に落ち着いた。主人は、友人から頼まれた熊本の奥さん二人と郷里の奥さんの世話を手伝って、色々な手続きを済ませた。

街に出て買い物をしたりして忙しかったが、その時初めて見た外人のお店は珍しかった。横浜へ来て三日後の 10 月 29 日、大きな安洋丸に乗船した。桟橋には多勢の見送り人が見えて、両方から色とりどりのテープを投げ合って別れを惜しんでいた。渡航者の中には殖民学校卒業の青年が三人乗船していたので、多勢の学生達が見送りに来て、勇ましく大きな旗を振りながら元気な声で歌を歌っていた。

間もなくドーンと大きな音がしたかと思うと、ジャンジャンと鐘がなり、それを合図に船は静かに動き始めた。桟橋からも船からもワーッと声が上がり、白いハンカチがゆれ、張られたテープは次々に切れて、桟橋が見る見る遠くなっていった。船は更に速度を増して見送りの人達も小さくなって、やがて横浜の町は遠く浪間に消えた。私は今、未知の他国へ行くのだ、故国ともお別れだと思うと急に涙が流れ、涙は後から後から流れた。船は無常にも速度を増して沖に出た。もう何も見えない。と、その時、思いがけなく富士山を見た。夕暮れの海面からぽっかりと頭を出した富士山が見えた。富士山が背伸びして、私にさようならを云ってくれたのだ。「アッ富士山が」それだけしか云えなかった。

夜に入り海は荒れて、船に酔って苦しむ人が多く、食事も殆ど頂けない人もあった。私は主人に無理に起こされて甲板を散歩されられた。潮風に吹かれていると、不思議に気分も良くなり、食事も順調に頂けた。しかし、洗面所や廊下に出る度に、船特有のペンキの臭いが鼻についた。早朝に甲板に出ると、あの水平線より差し出る輝かしい朝日の美しさや夕方の豪華な黄金の夕日など、筆舌に尽くせぬ空の色やよれらが海面に映った素晴らしい光景は、太平洋上ならでは見ることはできない。また高く潮を吹き上げる黒い鯨の巨体も見た。11 日 目にハワイに着くので、その前に男女は別室に移動させられた。

初めて見る異国ハワイ、それは美しく、珍しかった。主人はバナナとパイナップルを買ってくれた。私には初もので珍しかったが、良く熟していなかったのか、すっぱくて美味しいとは思わなかった。ここホノルルで沖縄の人が多勢下船され、次にヒロに着いたが、港に着くたびに沢山の荷物が下ろされた。ここでは、主人の友人が私達を尋ねて下さり、車で火山口までドライブして下さった。車の窓から眺める景色も珍しかったが、日本では見られない派手な色とりどりの美しく咲いているのに眼を見張った。ここで初めて食べたアイスクリームをチョコレートで包んだ不思議なお菓子の味は今も忘れられない。その方と主人は、久し振りの再会であったとかで、非常に名残惜しくお別れした。次は、私が心秘かに待ちわびていたサンフランシスコであった。

波止場は混雑していた。老婦人が、日本では思いも寄らない真っ赤なコートを着ているのに驚き、又若い男女が人前で抱き合ってキッスしているのも初めて見たが、それを見て手をたたいて笑った人もあり、後でたしなめられたが、今省みれば外国の習慣を知らない田舎者のこととはいえ恥ずかしいことであった。そのうち、私の姉と姉の夫と姪が面会に来た。姪は6 歳くらいで羽根のついた帽子をかぶり、素敵な洋服を着て可愛かった。姉の友人に手を引かれていた。姉は私達を上陸させたかったが、船長と事務長が見つからないので上陸手続きができないとのことで、オレンジ、りんご、大根の粕漬け、おすしなどの日本料理や、上等なケーキなどを山のように持ち込んでくださり、ふねのお友達を招いて召し上がれというので、広間に並べて皆で久し振りにたらふくご馳走になった。私はこの外に、帽子、コート、洋服など色々なものまで頂いた。その時、「あんな遠いペルーに行くのだったら、こちらに呼ぶのだったわ」と私だけにそっと云った姉の言葉は、何時までも忘れられない。

又、船は出港したが誰ももう船に慣れて、船酔いする人もなく甲板は賑やかになった。トルコ人、支那人も多勢乗っていたが、その中に劇団一行も居て、航海中に2 回慰安演芸会があり、支那劇を見せてもらった。船員さん達にも芸人が多く、それぞれ隠し芸を披露して皆を喜ばせて下さった。そのうち、船はサンピードロ(San Pedro)に着き、何人かが上陸して行かれたが、その中で背の高い綺麗な呼び寄せ婦人が船中で仲良くなった人と別れを惜しんでおられたのは印象的だった。やがて、船はメキシコの港に着き、遠くにヤシの木やバナナの木が見えたが、船は荷を下ろしただけで、すぐ出港した。始めの頃の苦痛は忘れ、今は船の生活も面白いと思うようになっていた。そして、横浜を出てから50 日目、私達の目的地、ペルーのカイヤオ港に着いたのである。こうして、私の20 歳の春の太平洋の初旅は終わった。

「私達の記録」1980 年 11 月刊 より抜粋

 

彼女の渡航先は南米のペルーだったから、彼女は後にサンフランシスコの姉を頼って渡米したのだろうか。それとも姉が呼び寄せたのだろうか。日米戦争の際にペルーから、多数の日系人がアメリカの敵国外人抑留所に送られてきたから、その中に入っていたのだろうか。

 

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