Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

前のページにもどる

  物語 - 一世関係
36 - 帝国平原 Imperial Valley - 丸谷四郎
 
             
 

帝国平原 Imperial Valley     丸谷四郎 (まるやしろう

聞き取り筆記 福井近雄 1973 年 8 月

丸谷四郎は、明治 17 年(1884)5 月 5 日、石川県能美郡小松町浜田で出生した。高等小学校を出た後、石川県立第一中学校に入ったが四年生で中退し、小松町の郡役所に勤務した。後に横浜の千田九谷焼輸出会社に勤務して居たが、明治三十七年十一月(1904)に金沢騎兵第九連隊に入隊して2 年間軍隊生活を送った。

石川県は人口は少なかったが、出稼ぎで二男以下は北海道へ移住する人が多かった。丸谷もどこかに出たいと思っていた時、ロサンゼルスに行った小学校の級友・乾安次郎(いぬいやすじろう)からアメリカに来ないかと勧誘があり、援助をお願いした。渡米するには、力行会のメンバーは比較的容易だったので入会して、同会の斡旋により「茶と牧畜の研究」と言う名目で旅券をもらった。乾からの送金を待ち、友人・池田祐吉と丹羽丸に便乗して、一九〇七年四月三日、シャトルに上陸した。シャトルでは、郷里小松町の米人キリスト教会の牧師の紹介状を持って、同地の岡崎牧師を訪ねて助力を得て、ロスアンゼルスの乾安次郎の処に来り、同氏がマネジャーであった大和美術商店に就働したが、池田祐吉と共にバーバンクに行き苺摘みもした。

一九一一年、丸谷はラミラダのレモンキャンプを池田と共同にて購入した。又石川県出身の青年十名位と共同にてレッドランド近くのユカイパに四百エーカーの土地を月賦払い契約で購入してオーツ等を栽培したが、払い込みが続かず、遂に二年後に放棄した。一九一二年には、石川県出身者四・五名共同でレッドランドの大和仕事斡旋キャンプを岡山県人の蜂谷氏から譲り受け、英語の話せる者は自転車で仕事口を探して廻り、多い時には百人余りの日系人就働者を処々のオレンジ畑に斡旋し、八百人からの日系人が出入りしていた。一九一三年に、郷里で顔見知りのあった初音を呼び寄せて、ロスアンゼルスで結婚した。

その年の暮れに大霜が来て、オレンジやレモンは大損害を蒙り、仕事はなくなったので白人の大地主のブラウン氏の奨めにより、共同経営者とブローレー市の田舎のキーストーンに二百四十エーカーの土地をリースしたが、其処は砂漠にも等しい土地で、ブラッシを刈り取って地拵えをするのに困難を極めた。「忘れもせぬ二月四日!!」と、丸谷初音夫人は、地ならしに取り掛かった日を覚えている。近くに日本人の瓜作りがいたが、何ができるものかと嘲り藁っていたという。この重労働に耐え得るのは、五六年前からブローレーへ瓜のシーズンに出かせぎに行った経験があって骨格の良い丸谷のみだった。しかし、彼も遂に過労からチブスに罹り、やむなくロスアンゼルスへ治療の為に転住した。幸いにも瓜は順調に成育したが、収穫の分け前は一文もグループから支給してもらえなかった。   

一九一四年には、インペリアル平原のヒーバーに六百四十エーカー、ブローレーに三百六十エーカー、合計千エーカーの土地に綿を栽培した。綿花摘みには、国境を越えてメキシコ人が就働し、時には支那人も雇用した。綿は長い繊維のロングステムで火薬処理とタイヤに使用された。処が一九一七年第一次大戦の終了と共に暴落し、一パウンド四十六セントしたものが、四セント迄に落ちたので綿つくりは破産状態に陥り、全資産を売り払って就働者の賃金と負債を支払った。トラック十四台、貨車四台、ツラクター一台、馬五十余頭を失い、全くの裸一貫となった。ブローレーの市長カフ氏が、少々残しておかないと明日からの食べ物にも困るだろうと指図してくれたが、潔しとせず全資産を投げ出して決算した。その時、長く働いてくれたメキシコ人からお金や米の見舞を受け、その情けが身に沁みて嬉しかった。この時代が、在米生活の中で彼の最も苦難の時期だった。

その後、彼は小規模の瓜つくりを始め、続いてアニオンも作った。外人土地法が一九一三年と一九二〇年に出来てからは、細々と二・三十エーカー位を限度にして、トマト、スコアシ等の手のかかる野菜を栽培したが、この状態は日米戦争勃発まで続けた。

ブローレーはメキシコ国境へ三十哩の地点にあるので、其処の日本人農家ではメキシコよりの日本人密入国者をしばしば隠まったという。丸谷の畑の裏に川があり、その深い川底に水が少ない時を見計らって、メキシコよりバスで近くまでやって来て、川を渡って畑の裏の崖を這い上がって、隠まってくれと頼まれたものだそうだ。大抵は二三人、多い時は七八人一緒にやってきた事もあった。日中はアルファファのヘイを積み上げた中に潜み、夜になるとロスアンゼルスに向かって発つのだが、衣類など一揃い調えて与え、長く滞在する時はふとんを買いに行くのだが、怪しまれぬように考慮して、二三ヶ所で買い求めたそうだ。そんな風に危険を冒して、かなり大勢の日本人をかくまってやったが、ただ一人だけ礼状を寄こしたのみで、他は全く梨の礫(つぶて)で、勿論 足がつくのを警戒してのことでもあろうが、と丸谷は寂しそうに語った。

ブローレー地方は、元来排日の強い土地であったが、日本人が千七八百人も住んで農産物を産出し、それを白人仲買業者が売って金儲けをしたので、時の経過と共に白人の感情も自然と好転して、排日の空気は感ぜられなくなった。日米開戦と共に、丸谷は敵性外人抑留所に送られるべき処、ドクター・パーカーの助言によって免れて、一九四二年四月家族と共にアリゾナ州ポストン収容所に入所した。それは、かつてパーカー医師が医院を開いた時、丸谷が日本人の患者を多く紹介した事に対する返礼の積もりであったらしいという。

収容所入所中は、演劇部の手伝いをする外は、将棋を唯一の楽しみとして暮した。そして、一九四五年九月に出所したがブローレーには帰らず、ロスアンゼルスに移住した。ブローレーは日本人が戦争でキャンプに収容された後は、野菜類が皆無となり白人は困却したという。勿論農耕地は荒れ放題となった。終戦後は、土地を所有していた者が十軒程帰還したのみで、大半はロスアンゼルスへ移住した由である。

「歩みの跡」より抜粋 

 

www.isseipioneermuseum.com

一世パイオニア資料館

 

   
一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2014