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  物語 - 一世関係
41 - 俳人 ・ 青稲、佐藤豊三郎の最後 (2)
 
             
 

俳人 ・ 青稲、佐藤豊三郎の最後 (

 

波多泰巌から日本の親族(兄)へ 豊三郎死去通知の手紙
昭和 8 年(1933)

佐藤佐一様

先日から書こう書こうと思ひ暮らして つい延びのびになって本当にすみませぬ。何から書いてよいやら、こう云ふ悲しいお便りをせねばならぬことを心苦しく思ひます。

佐藤豊三郎君は去る五月十八日午前七時四十分スタクトン郡立病院で永眠せられました。そして遺骸は同病院共同墓地に埋葬され、墓標番号は参千百拾六番のC です。そして、私はその弔いに立ち会ったただ三人の一人であります。

私はスタクトン市から七八十哩はなれたオークランドで、仏教の布教に一身を捧げささやかな求道舎と云ふ所謂草庵を結び、かたはら層雲派の俳句をやっています。丁度昭和六年一月に句会湖畔社を創立し、はじめて青稲( 豊三郎氏) を知りました。同年の五月青稲がアラスカに行く迄の半年は実に親しい交わりをいたしました。そのとき青稲から聴いたことは、日本にかへる旅費をつくりにアラスカへ行くということでした。私共は送別句会を開いて彼に禁酒を誓はせました。

そうしてそのとき見せて頂いたのが、アナタへの御手紙。国許へ出さずのままの手紙が一本 とあるのが、彼がそのときアナタに書いた手紙かと思います。私はスタクトンで遺品を整理すると、彼が所有品としては僅かに布団と毛布と炊飯道具の外、僅かにカバン一つだったが、かねて覚悟の上か。此の前々日、日本旅館の主人が病院より危篤の報にて呼ばれて行ったとき、お前の名は何と云うかと尋ねたら、オレの名を知りたいならカバンの中の旅券を見ろと云ふたそうです。

カバンの中には旅券から小学中学時代の成績表から卒業証書、手紙の束、アドレス帖、書籍三冊、尚 自分の唯一の足跡とも見るべき句稿、その他少しの食べ残しのクラッカや薬品、洗面化粧道具などありました。病気が隔離された肺病だったので、後で遺稿でも出すときはと考えまして、書類だけカバンに入れて持ちかへり、残りは一切焼いて貰ふことにしました。

旅館の主人の話では、三月八日 ヤマトホテルより転宿し来り、十仙ベッドの客となる。食堂に出入りせず、ミルクとクラッカにて生命をつなぐ。四月十二日 主人の申請にて郡立病院( 入院費無料) に入院。五月十六日 危篤。五月十八日 朝 死亡。

昭和六年八月 アラスカから帰って酒を飲み、自然田舎に就働し歩く様になりました。昭和七年五月 再びアラスカに出稼ぎに行き、八月に帰ってきた時はよほど身体も衰へていました。私の家には、このとき立寄られたのが永久のわかれとなっています。十仙ベッドと云へば、一日のベッド代が実に十仙ですから入院前も非常に難儀していたかを想像出来ます。

十八日死亡の日、私のうちに電話で知らせてきたのは、旅館の主人が私の送った小包の( 発送人) の住処を見て、唯一の手がかりとして知らせてくれたと云います。三月の月にジン臓病になって動けぬから協力をたのむとの手紙が、新世界新聞社で働いている下山逸蒼氏の処にきたので、同氏はサンフランシスコの友達から一弗づつあつめて見舞はれ、私にもこの話があり青稲からも手紙がきました。

七人の大家庭で然も不平云ふことの出来ぬ人の喜捨で生命をつないでるものでありますから、何等財力の援助が出来ませんでした。俳句などつくる連中は皆金に縁のない人達ばかりであります。特に近来は一生懸命働いてやっと食べて行ければよい方と云はれている時分であります。スタクトンの日本旅館の十仙ベッドに先日まで七十人もいたと云へば、如何に資本家王国の行詰まりがヒドイか想像出来ませう。

五月十八日の死亡の電話を得、私は殆ど一日自分の電話口にかじりついて、佐藤氏に縁のある各地方の人達に長距離電話や電報しました。同氏が十数年コルサ地方で米作していたと云ふ共同事業家達にも知らせました。初七日をすぎて、米作時代のパートナー ロサンゼルスの照井五郎氏から悔やみの手紙、パシフィックグローブの同郷人三浦常太郎氏よりも同様、目下二氏共非常に窮乏の由、サンタモニカの林氏よりスタクトンへ弔電一通。その他は、コルサ、メリスビル、サクラメント地方より何等の音沙汰なし。尚スタクトン地方も同様。別紙、新聞切り抜きは青稲死亡につき、日米、新世界、北米朝日等よりの新聞きりぬきです。

家内の句の「いまはカタミとなりし時計のきざみ」といふ時計は、代価一弗のメザマシです。私は彼がアラスカのツンドラの上からひらってきたレーンリヤー(ナレシカ)の角を頂いています。逸蒼の句に
   アラスカみやげに鹿の角もて来た心ね
   
食べ残しのクラカーその侭に入院したきり
   
はや枯れかかる加州の草に先立ち逝ったか
   
手向けた櫻んぼ中小鳥つついたのもあって
其の内、湖畔社で句稿でも出版したいと思ふています。

成功者は日本にかへり、落伍者だけが皆残っています。十八、十九日の準備で、二十日土曜日に自動車をやとって加州大学の久保瀬正雄君とスタクトンに葬式に行った我々が唯二人の会葬者といふ始末であります。スタクトン地方はこの二ヵ年彼が働いたところです。ポテト王牛島のいた処です。セメテそこの日本人会あたりでも引き受けてくれたらと尋ねました。然し、所謂 開拓者の第一世は年々凋落の悲運で酒とトバクから救はれて浮び上がるものは実に稀ださうです。そんなものに関係しては、日本人会は破産するでせうと云はれています。

然し、私は全然別の意味から本当に彼が此処に骨を埋めるのは実に彼の本望で、亦彼らしい死に方と考へました。成功家の葬式には何十何百と花輪や会葬者があります。然し、葬式がすんだら、ただそれ迄です。私は漂泊俳人青稲が実に性極めて淡白、痩せ手をじっと見つめつつ彼が人生の半ば以上、三十年の労働の最後の息をこの大陸にとどめたことに、永久に涙なき能はずであります。骨だけでも送らねばならぬ、しるしだけでも石碑を建てねばならぬ、然しそれは凡人の執着と型の如き儀礼にしかすぎませぬ。

幸いに彼の魂はそう云う世界を超えての上に輝いていることを見て頂いて、この悲しみの中にも念仏申されんことを念願する次第であります。我が舎に於ける湖畔社を中心に、彼を悼む句会は故人への哀悼の意を捧げて、北米の地では未曾有の追悼句会であったことをせめてものなぐさめとして居ます。尚、ローサンゼルスのアゴスト社中五人の同人から追悼句一句宛郵送してきましたが、彼の追悼句会にはまにあうていません。いづれ又後便にて。

昭和八年六月二十日
北米加州オークランド 第九街百十七番戸
求道舎 波多泰巌    

故人・佐藤豊三郎の遺骨が日本に帰って、佐藤家の墓地に埋葬された際に、佐藤家は故人が日本に送った手紙(二通)、往年の写真(日本、アメリカ)や故人に関する資料を入れてタブレットにして親戚縁者に配布されたが、波多氏が豊三郎の兄・佐一氏に送った上記の手紙も、その中に含まれていた。

 

 

湖畔社「青稲」追悼句抄    昭和八年五月二十七日 於王府求道舎

武井古流星
   こんや月ありて烏麦の穂
   シエラ雪根立ち移民墓のならび
   草かぶれの羅の膚が見える
植山素白
   黒雲に覆われて夕陽海に落ちけり
   自らをかき消しつつ生きんと努めたか友
松野珠樹
   雑草踏まれ踏まれて道になっている
関谷蓬朗
   インフレーの声のみで五月雨ている
   夏めく気分で公害の女達が自転車
   やうやく夏らしくなったストローハットで
   野火が拡がってゆく自動車で昼食のむすび
唐津文夫
   流行唄で夏若が仕上がる
   黒ン坊でギャべジマンでニタニタ笑って働く
   不満で仕事していてじりじり陽が照る
   黙って聴いてい幼い同士の話すはなし
   五月の陽が海藻のゆらぎ
財津松次
   何処かで蛙ないている夜をもう亡き君
   更けて星座が移れども終えない仕事で
   寝るだけが楽しみな仕事して寝足らぬ夜ばかり
   ブランケほどけばいちご畠に三日月
   この大平原のまん中でいちご摘んでる
田原紅人
   何かいたはりたい夕べが生まれてくる
   もう逢へない人になってるハガキが一枚
   ビール飲んでいる天気になりそう
波多若菜
   今は遺品となりし時計の刻み
   今宵初七日のサイプライスの月繊く
下山逸蒼
   彼らしい死だったと霧空仰いで
   放浪の破れ靴も脱ぎきりに脱ぎ今や
   この大陸の薫風に骨埋めた本望
   シエラの雪の連峰に照らされとこしへ
   ナムバーだけの墓標の下で不滅の魂塊
   海から霧来てこの夜の街を這ひ廻る
塩沢徹四郎
   野辺の送りも二人だけの青葉みち
   墓穴口あけ郡立病院の夕陽
   暮れる墓地は仮埋葬の土のいろ
   友が病み萎れたベッドのクラッカ
浅海露風
   世をすてて生きようとしても人の心から消えない
田中耕人
   放牧の牛追ふ子等も花を手に
   入海みんな夕陽にしてくだる
   寂しさ話し山の沼月夜となりゆく
   吾子に曳かれて草咲く丘まで
   どうにか此処で暮らせぬものか、瓜の種蒔
久保瀬正雄
   山遠の雪光る広野にヘイ刈る
   肺患の日向ぼこからむすびへ出す手の
   万霊等しく広原で白い墓標となっている
   シエラ嵐に晒されし友よ
片井渓巌子
   やっぱり浮かんで来る特徴ある顔
   仏の灯にぎやかな田舎の子供
   茄子苗わけ招魂祭もおはり
府川真砂雄
   降るでもない雲、お弁当をひらく
   貧乏が馬と汗をかいている
   ポンと豆のさや割って食ふ子になった
   夜の底へ市場から戻るうりあげ
大月喜三郎
   チカチカ鳴く雛鳥に起こされた朝かぜ
   酔へばいつも気焔上げた友の幻影見つめる
   平野の真ん中に番号フダ一つで埋没さえた友
大月郁夜子
   鯉のぼり屋根にここにも日本男子
   草笛よく鳴ってほがらかな足どり
   ベッドの名札で赤ちゃんを見せられてる
   生まれたばかりで世界へ呼びかけてる
波多泰巌
   無縁塚三千の墓標に陽炎ふ白日
   遂に名乗らず痩せた手視つめ終わったか
   国許へ出さずのままの手紙が一本
   君よまともとに雪のシエラを朝夕
   吊ひ帰る広原を入陽に吹かれて
小西登喜子
   梵音ながれ亡き友の顔浮びくる

 

 

ホームページ掲載に際して    竹村義明

「国許へ出さずのままの手紙」―― 多分、波多先生が豊三郎死去の通知と共に日本に送付されたと思う。推察は出来るが、実際どんな内容だったのだろうか。

1991 年、妻が青森へ行った時、佐藤家からいただいたものの中に豊三郎が郷里へ送った昭和4年(1929) 10月15日(ローダイ)と12月21日(モデスト)付けの手紙2通のコピーと彼のアメリカでの写真4枚がある。彼の渡米前の学生時代と渡米当初の写真のコピーも数枚、青森の佐藤家からいただいている。

彼の遺品の中に彼が晩年に郷里から受け取った手紙があるので、両者を照合すると、青稲がアラスカの出稼ぎに出た理由が理解できる。

波多泰巌先生は、昭和六年から二年の短い付き合いなのに、親身になって埋葬から日本の身内への報告通知、追悼句会などの世話をされた。全く頭が下がる、彼の示した温情、立派な人格は宗教者としても模範である。  

手帳の中には「ブランケかつぎ」の日暮しと生活を示す書き込みがあり、アメリカの不況期の状況や当時の知られざる多くの一世の生活、裏面側面が推測できる。

日本語新聞での青稲死亡通知の掲載にもかかわらず、一人の埋葬参列もなかった事は如何に皆が困窮していたか、それとも人情・道義心が衰退欠如していたかを物語っている。

佐一の息子の嫁(豊三郎の甥の妻、佐藤てる)は、「お帰りなさい、故郷に帰ったのよ」と届いたお骨を抱いて屋敷や家の周りをまわり、法事を営んでお墓に納めたというが、外地に住む者としては感激する。ありがとう。  

サンフランシスコの日米時事新聞社に保存してある1932年前後の新聞の現物を見せてもらったが、湖畔社の句会の他に、青稲の投稿文も多い。

伊丹明(あきら)は1932年(昭和7年)アラスカに鮭の缶詰会社へ仕事に行って、豊三郎と同じ場所で生活した。その後、彼は羅府に移った。

波多師は遺品の中に豊三郎の句稿があったというが、手帳二冊のことだろうか。もしそうなら、このたび他の資料と共にここに披露させていただいた。

 

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