Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
46 - 二世よ日本に帰るな 浦賀に泣く送還二世
   米記者に述懐

 
             
 

二世よ日本に帰るな 浦賀に泣く送還二世  米記者に述懐

 

第一回送還船で日本に行った一、二世が帰国と同時に浦賀の館府に収容されたが、その惨状は英字紙にも紹介されたが、十二月十日付けのサンフランシスコ・エキザミナー紙は、サリナス出身の吉山智タム君 (Satoru Tom Yoshiyama) の悲痛極まる幻滅の叫びを大書詳報している。

記者は加州サリナス生まれでサンフランシスコ師範学校(現 州立大学)出身のタム吉山智君をとらへて帰国の感懐を聞いてみた。彼はツールレーク収容所にいる時、自発的にアメリカ市民権を放棄して日本へ帰った青年である。開口一番、彼が記者に哀訴したことは、「日本がこんなひどい状態とは夢にも知らなかった。どうかお願いだから、いまなお米国にいて日本へ帰らんとしている二世諸君に、日本に帰ることは思いとどまって、米国に踏みとどまるよう伝えてくれませんか」ということであった。彼の悲痛極まる感懐は大略次の如くである。

「私は米国で継子扱いされたため、市民権を棄てて日本へ来たが、私はそれまで常に善良な米国市民だった。然るに桑港のフライシャッカー水泳場は我々日本人の入場を許さず、戦争となるや我々に総立ち退きを命じ、民主主義はわれわれ有色人種には適用されないのだと痛感し、ついに市民権放棄を決意したのだった。こうした失望から私は極度に反米的となり、ツールレーク時代にはいわゆる強硬派の一人で、八ヶ月も監禁されたことすらある。戦争も日本の必勝を信じ、第一回送還船で帰ってきた者は殆んど全部日本の土を踏むまで、日本の勝利を信じていた。日本が勝ったればこそ、こうして我々を日本の要求通りに帰すのだ、と信じていた。日本の降伏なぞ、米国の宣伝に過ぎぬと思っていた。」

なお同君は米国にまだ若い妻君の残しており、「米国に帰りたいか」との質問に対し「米国はよい国だ、帰ることができたら帰るかも知れぬ」と答えた。

 

1945年12月10日付 ロッキー新報(コロラド州デンバー発行の日本語新聞) より

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アメリカで生まれた二世はアメリカと日本の両国の国籍を所有していた。しかし、約二千名の二世は戦時中に自発的にアメリカの市民権を放棄した。戦後、永年の歳月と紆余曲折の末に、その多くは市民権を回復した。

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