Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
50 - 開 墾 - (野開き)
 
             
 

開  墾  (野開き・野拓き・ のびらき


移民初期、ワシントン州やオレゴン州にいた一世の多くは、山間や奥地で大木の伐採運搬・製材所や鉄道の仕事に携わったが、次の段階として白人の農家が日本人を求めたので、次第に農園で働く者が出てきた。一世は日本の農村出身者が多かったので、明るい時代の流れが到来した。しかし、初めは耕作栽培だけでなく、白人ボスの農園を広げるための野開き、開墾の仕事が待っていた。

日本人に対する排斥はあったが、1910年頃までは排日土地法も無い時代で、お金さえあれば土地所有もできたので、アメリカに腰を据えようかと思う一世の中には、白人農園での雇われ生活をやめて土地を買って自作農になる可能性も出てきた。しかし、初めに一世が買ったのは、耕作できる土地ではなくて、安い荒地が多かった。下記はその頃の記録である。 竹村義明

 

An Oral History of Japanese Settlers in Oregon’s Hood River Valley より抜粋

(原文は英語、日本語訳:竹村)

「収穫期が終わると、みんな外の仕事をさがしたが、野開き (clearing land) が多かった。仲間と毎日10時間ほど働いた。松や FIR の大木を切り倒し、根の下にダイナマイトを仕掛けて爆破した。とても危険な仕事だが、当時自分は危険を気にしていなかった。野開きの男が、時間がたっても爆破しないので見に行って死んだ事もあって、それからは爆破しなくても翌朝までは近づかないようになった。それから馬を使って引き抜いて、それを積み上げて夏中乾かす。大木は10、15尺に輪切りにして野焼きする。これで、仕事が終わる。(富田)」

一世の中には、木材会社から伐採と積み出しのすんだ土地を安く買って、野開きをする者もあった。野依ファミリーは1920年にオレゴン・ランバー・カンパニーから500ドルで18エーカーの切り株が残る土地を買った。夫婦二人で骨身にこたえる大変な仕事を始めた。「周りが三人でかかえるような大きな切り株もありました。当時持っていた手動の道具(mottoch, pee-pee)では、2エーカーをクリアーするのがやっとでした。(野依みよし)」

「大きな切り株の除去には、3個所に棒状のダイナマイトを15本くらい、全部で45本も仕込みました。そして、テコを引くと大爆発です。切り株や土が舞い上がり、この居間ほどある大穴が開くのです。爆破前の整備も大変ですが、爆破後もこれまた大変です。切り株は少なくとも三つに割って、それを集めて燃やすのですが燃えにくいので、それを燃やすのにほかの細木を運んでこなければならず大仕事です。大きな切り株一つの処理に二日かかったこともあります。燃やした後には、穴埋めの仕事があります。それも大変な仕事です。」

野依一家は後には「根引き抜き」stamp puller を使うようになった。1インチの鋼鉄の電線を切り株につないで引き抜くのであるが、複雑な仕掛けと馬の制御の問題があって、簡単なことではなかった。この仕事で、私の手はこんなに変形しました。日本に帰った時、「あんたが何も云わなくても、あんたの手を見ただけで、アメリカでの苦労が分かる。」と云われました。(野依) 

 

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