Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
59 - ああ 二世兵士   島田重雄
 
             
 

ああ 二世兵士  苦悶の親子     島田重雄


 日米戦争が始まった時、アメリカの市民権を生まれながらにして持っていた二世も、不幸にして一世と同じように敵国外人の取り扱いを受けた。これは今日から見る時、アメリカにとっては拭うことのできない歴史的な大きな汚点となっているが、あの当時、政治家も軍人も指導者とみられる人達も、皆あわてふためいて、先々を見通し、大義名分を明らかにして事に当たるといった態度がなく、今にも日本が攻め込んでくるかもしれないという民衆の恐怖心が、常識外れの処置が時の政府と軍部によってとられた。アメリカ市民である二世を、敵国外人である一世と同じように沿岸地方から強制的に立ち退かせた。

 サンフランシスコ湾方面に住んでいた日系人は、最初、桑港(サンフランシスコ)の南十マイル位のところにあるタンフォラン競馬場に一時収容され、四、五ヶ月後にユタ州中央の荒野に急造された収容所に移された。それは、トパーズ転住所と名づけられたキャンプで、九千人近くの日系人を収容し、一躍ユタ州で五番目の大きな町となった。

 こんな転住所がアメリカのあちこち十ヶ所に造られ、約十万人の日系人が収容された。各地の収容所は、初めのころは平穏だったが、まもなく、アメリカの市民権を持ち、アメリカで教育を受けた二世と、日本で生まれて日本の勝利を信じている一世の間に意見が衝突し、次々に騒動が生じた。一世だけでなくて二世にも立ち退き命令が下った時、二世は皆、政府に対して激しい怒りを覚えた。公立学校でアメリカ市民権の意義を強く教えられて市民権の絶対性を信じていた二世が、政府の不当の処置に激しい義憤を抱いたのは極めて当然な事であった。その二世の気持ちを巧みに利用して、日本主義一点張りの一世たちが 「それ見ろ、結局二世も日本人だ。アメリカ政府が二世の市民権を踏みにじったではないか。二世もここらあたりで目も覚まし、アメリカの市民権など自分の方から棄てて、日本に忠誠を尽くすべきである」と教えた。

 これも今になってみれば、大きな間違いであったと理解できるが、然し、戦争が始まってから日本の連戦連勝の続いたあの当時は、一世の大部分は日本の勝利を確信していたのである。二世を立派な日本人にしておかないと、アメリカが日本の軍門に降った時、彼らが可哀そうだという気持ちから、真剣に二世に「日本人に帰れ」とすすめた。初めの頃は二世もそんな気持ちになったようであったが、月日が流れて落ち着きを取り戻すと、結局、自分たち二世はアメリカ人であり、アメリカに忠誠を尽くすべきだと言い出した。ここに、アメリカ主義の二世と日本主義の一世の間に深い溝が生じた。

 衝突と騒動がだんだん激しくなりつつあった1943年の春、陸軍省は二世に兵役志願の道を開いた。それまで二世は敵国外人並みの取り扱いを受けて、軍隊志願は認められていなかった。陸軍省は日系人の収容されている戦時収容所に将校を送り、特別集会を開いて二世男子青年に志願するよう熱心に勧誘した。そして、この機会に志願しない者もいずれ近いうちに召集されることになると付け加えた。つまり、どうせ召集令状がくるのだから、進んで今志願しなさい。その方が何かと後で都合がよいとすすめているのであった。二世の多くはこの新しいチャンスを喜んだが、一世は反対にカンカンになって怒り出した。そして、「人を愚弄するにも程がある。今まで二世を敵国外人のように取り扱っておいて、戦争が長引いて兵隊が不足し始めたので二世からも兵士を募り出してきた。そんなアメリカの手に乗るような二世は馬鹿者だ」と言い出した。怒りにあふれた一世方は、先手を打って収容所の数ヵ所で臨時集会を開き、自分たちの息子は絶対に志願させない」と申し合わせた。

 だが二世の多くは、そんな一世の申し合わせや両親の願いを問題とせず、次々に志願して軍隊に入った。一世の多くは、志願する二世に対して激しい憤りを感じ、「腰抜け二世」と罵倒した。そんな嵐がトパーズの収容所に吹きまくっていた頃、梶原信夫(Nobuo Kajihara)という青年も軍隊志願を決意した一人であった。彼は梶原家の一粒種で、加州大学バークレー校を卒業した有望なキリスト信者であった。一人息子の信夫が志願したことを知った両親は、深く驚いて志願を思いとどまって、せめて召集令状が來るまで待つように勧めたが、彼は聞き入れようとはしない。「お前に志願されたら、私共は白い目で見られ、犬じゃ、猫じゃ、国賊じゃといじめられるから、親が可哀そうだと思って思いとどまってくれ」と涙を流して頼んだが、彼の決意は固くて両親といえども、どうすることも出来なかった。

 思い余った梶原両親は。私のところに来られて事情を打ち明けて、何とかして息子に志願だけは思いとどませて頂きたいと相談を持ちかけられた。これは一世という立場、また親という面からすれば当然の願いであるはあるが、牧師の私がアメリカに忠誠を示して志願するのをやめさせたとなると、これは容易ならぬ問題となる。私は事の重大性を身に感じ、どんな返事をこの夫妻にすべきか暫し思い惑った。だが、夫妻にしてみれば真剣である。しかも私より他に頼む人はないとみておられる。「とにかく愛息を私のところによこしてください。ご本人に会って話し合ってみましょう」と、私はようやくこれだけの返事をした。その晩おそく、信夫君は私のところに一人でやって来た。

 互いに顔を見合わせたが、しばらくの間、互いに言葉が出ない。重苦しい空気である。その内、彼が口を切った。「先生、私は両親の希望で先生のところに来ましたが、私の志願に対する先生のご意見を聞きに来たのではありません。私は固く決心しているのです。先生と雖も私の決心を覆すことはできません。私が先生の所へ来たのは、私の決心の程を先生に理解していただき、それから先生から私の両親に私の立場を説明していただきたいのです。私の両親は、私の顔を見ては涙ぐんでいるのです。私にはそれがつらくて耐えられません」と、そう言う彼も亦涙ぐんでいた。彼の全身は震えていた。子を愛する親でありながら、心から親を慕う子でありながら、一世であり、二世であるが故に全く相反する立場に立たなければならぬ親子の苦痛を察しながら、私は言葉の出ない数分を断腸の思いで過ごした。ようやく落ち着きを取り戻した私は、静かに四つの事を彼に尋ねた。

 第一に「君は梶原家の一人息子で、ご両親は今日まで君を立派に育てられ、最高の教育を身につけてくださった。君は両親に対して大きな義務がある。今日。このような場合に両親の希望に沿うことが一番大切なことではなかろうか。君は親の願いを退けて志願なさるわけだが、それでいいものでしょうか」と尋ねた。

 彼は「両親の気持ちを思うと、私の心は暗くなります。白人の親たちは息子に志願を勧めているのに、我々二世は全く悲しい立場に置かれている。志願を勧めてくれていい筈の両親が敵国外人で、心は強く日本に向けられている。その子供である私共二世は、アメリカ人であり、アメリカに忠誠を要求されている。孝ならんとすれば、アメリカに忠誠を尽くすことができず、アメリカに忠ならんとすれば、両親を悲しませる。気が狂わんばかりに悩み悲しみぬいた挙句に、私は志願を決心したのです。今は仰せのごとく、両親を悲しまさせていますが、いつの日にか両親はきっと私の気持ちを理解してくれると固く信じて、志願を決心したのです」と答えた。

 第二に。私は「君は召集されるまで待てないか。ご両親は、君にアメリカに忠誠を尽くしてはいけないと言っていない。ただ、志願だけはやめてくれといわれるだけだ。志願をせず召集令状が来るのを待って、それからでもおそくはないでしょう。召集されるまで待つことが最善の道と思いませんか」と尋ねた。それに対して彼は、「実は私も初めはそのように思っていました。しかし最近、私の親しい友人達が数名志願しました。私は彼らを一人一人訪ねて、彼らの心境を聞いた。ところが、彼らは「現在キャンプに閉じ込められ、八方塞がりになっている日系人のために活路を開く唯一で最善の道は、この志願の道である。すなわち、自ら進んで志願して二世の忠誠を世間に示すことによって、日系人に新しい道が開けてくる」との確信から志願されたことを知りました。私は彼らに心からなる敬意を表しました。彼らの中には、妻子のある方もありました。しかるに私は独身です。なるほど、私には父や母はあるが、彼らの立場と比較すると、はるかに私は身軽です。その私が彼らにだけ重荷を負わせて、召集されるまで待っているとは、虫が良すぎます。私は今まで親のすねかじりで、社会のために何一つ貢献していない。今こそ生まれ変わって、この機会に自ら進んで志願しなければならぬ。他の人はどうか知らないが、私に関する限り、志願することと召集されるまで待つということの間には天地の相違があります。志願するという事は男子の本懐であり、召集まで待つ事は卑怯ですから、私は断然志願することにしました」と答えた。

 第三に「君はアメリカ生まれのアメリカ市民だ。それにもかかわらず、敵国外人と同じように収容所に閉じ込められ、敵国外人並みに取り扱われてきた。つまり、アメリカ市民としての自由も権利も全く踏みにじられている。そんなアメリカに、君は志願までして忠誠をつくしたいのですか」と、私はするどく尋ねた。この言葉は日本主義一点張りの一世が、二世に対してよく使った言葉であるが、私も彼の心境を知るために借用した。彼は静かな態度で「戦争勃発直後、タンホランのアセンブリーセンター(臨時収容所)に収容された時、私は自分の国の政府に迫害されているかのような感じがして、激しい怒りを覚えた。こんな、有って無きに等しいアメリカの市民権など自分の方から捨てやるというような気持になった。そして、自分は両親と同じように日本人だから、日本のために尽くすべきだと、自分に云い聞かせた。だが、日本の地図を開いてみても、これが自分の祖国であり、この日本のために命をささげねばならぬという気持ちが一向湧き上がってこない。日本の旗を見ても、これが我が愛する国の旗であるとの感激は生まれてこなかった。反対に、敵国外人の扱いを受けているこの収容所内でアメリカの地図を見ると、これこそ自分の愛する祖国という感激が強く生ずる。又この鉄条網がはりめぐらされているキャンプの中でもアメリカの国旗を見ると、何時とはなしにアメリカの国歌が口から流れ出るし、涙すら流れてくる。やはり、自分はアメリカ人である。

 アメリカ政府がどんなに私を迫害しようが、いじめようが、自分はやっぱりアメリカ人です。自分の命を捧げる国は、アメリカより他に絶対にないのだとはっきり悟った。そうなってくると、市民の取り扱いを受けたとか、受けなかったとかは大した問題ではなくなり、反対に、むしろ今まで受けたアメリカの恩が大きく感じられるようになった。僕が志願して出るのは、私が心に描いている美しい理想のアメリカのためです」と答えた。

 私は最後に「では君は、たった一つしかない命を戦場の露と消えるために志願するのですね」と言うと。彼は「先生、一寸待ってください、先生まで私の両親と同じように、志願する事と決死隊員になる事とをごっちゃにしておられます。私は戦場に死ぬという事を最後の目的として志願するのではありません。勝利を勝ち取ることを念願して志願するのです。私は生きて凱旋する事を心から祈っています。が然し、どうしても戦死が避けられない事態になった時は、潔く散華する覚悟はすでに出来ています」と答えた。

 こんな質問や返答が終わった後、私は彼に「信夫君、随分失礼な質問をしたり無礼な言葉を使ったりしてごめんなさい。これは君の真の心境を知らんがためでした。君の考え方と態度は実に立派です。私は説教者であるが、今夜は君から大説教をうけたまわった気がします。明日、君の両親にお会いしたら君の心境をお伝えし、ご両親に態度を変えられるようにお勧め致します」と約束した。彼は喜び、明るい顔になって帰って行った。

 翌朝早く、私がまだ床を離れない頃、梶原夫妻は前夜の様子が知りたくて訪ねてこられた。心配そうに私の顔を見ておられる夫妻の心中を察し、私の心は暗くなり言葉は容易に出てこなかった。然し、何といっても、ありのままを伝えることが私の責任であると思い、前夜の会話の内容を伝えて、信夫君は立派な精神と態度で志願なさるので、これをやめさせる道はこの地上にはない旨をお話申し上げた。私の話を身動き一つもせずに聞いておられた夫妻は、やがて大きな溜息をされ、目に涙を一杯浮かべ、「そこまで信夫が決心しているのであれば、私達も立派に彼を見送りましょう。私共が日本を思うと同じように、彼も又、アメリカを愛するのは当然です。彼を励まし、快く志願させましょう」と仰った。私はただ、涙ぐんで聞く他はなかった。

 両親の理解を得た信夫君は、心おきなく陸軍に志願して入隊した。そして、最後の訓練も終わり、ヨーロッパの戦地に送られた。イタリーの戦線から受け取った彼の手紙の一節に、

  先生、目下伊太利に来ています。色々ご指導ありがとうございました。

  戦況は楽観を許しません。生還期し難い状態です。しかし、私は勇気にあふれています。

とあった。私は、彼の男らしい手紙を繰り返しい繰り返し読んだ。だが、それから数週間後に彼の戦死の報に接した時、私はかねて覚悟はしていたとはいえ、深い悲しみに閉ざされた。

あれからもう十六、七年は過ぎた。その間に、アメリカは美しい良い国になった。信夫君の夢が実現したのだ。アメリカの一般人は、日系人を良きアメリカ人と認めるようになった。政府の方から、一世に市民権をどうぞお取りくださいと言ってきた。アメリカ生まれの二世は、今はアメリカ社会のどこにでも堂々と大手を振って出ていくことができるようになった。戦争前には想像も出来なかった変わり方である。これは。時代の流れも手伝っているだろうが、然し何と言っても、二世兵士の犠牲が大きく働いたのである。信夫君の霊は天上でさぞ満足しているに違いない。


ワシントン州スポーケン市

  ハイランドパーク メソジスト教会

  「北米の空に星は輝く」 1962年出版 より抜粋

  島田重雄 同教会牧師著




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