Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
61 - 佐藤豊三郎と故郷の兄 四通の手紙
 
             
 

   佐藤豊三郎と故郷の兄 佐一の手紙 四通        


     #1 豊三郎から日本の兄(佐一)への手紙       

          1929 昭和4年10月15日


 From:  T. Satow

      c/o T. Ishikawa

      102 Wall St.

      Chico, Calif.

      U. S. A.

      差出郵便局消印 Oct. 15, 1929 6:30 PM  Lodi, Calif.


  To:    Mr. S. Satow  日本青森県弘前市在府町  佐藤佐一様

       Yokohama

       Japan


拝啓 永らくご無沙汰致したる段、平に御許しくだされ度候。最近私の米国にての友・今帰国致して東京の修養社の監督成され居る同郷の人長尾行介君よりの手紙によれば、老母は遂に去る八月の下旬他界遊ばされたる由、生前一度帰国致しこの白髪顔を見せたきものと常々心懸け致し居りたるもの呼呼何んたる不孝っ子よ。兄上様に対し面目の無き次第 に候。是れも在米二十有余年成せる事業皆失敗に期したる為にて、親を思ひ兄弟をしたふ心情は今も昔も決して変り不申候。

在米中事業を共にせる人、今は帰国致し居り候。老母の死後兄上を訪問せる島中氏は小生と十有余年前花園業を共にせる人に候。目下東京の修養社に居る長尾氏は帝大の文科出身の文学士にて、二三年前まで小生と共に米作事業の主脳を務めたる人に候。

島中氏は長男にて郷里東郡の大河平に財産を有する人なれば、帰国しても居食に困難するうれいなく、後者長尾氏は学識に於て日本の上流社会に立ち得る頭の所有者故、事業の失敗せると雖も皆帰国せる次第に候。私には財もなく頭も無き故、米国に残りて渡米当時の如き放浪生活致し居る次第に候。

友人は皆私の将来を心配を致され、何んとか出来ざるものかと思ひ居る際、今郷の友人楠美氏が五六年前帰国し新婚旅行を大鰐温泉に楽んで居る際、故老母も仝温泉に湯水に行き縁は奇なるもの、楠美氏と仝じ湯舟に入り話しが米国帰りという所からわたしの三男の豊三郎も米国に行って居るが話の種子となり此事は此度島中氏より充分説明ありたるものと信じる故、何もクドクドしく申上る必要も無く候。要するに私は何も僅かばかりの親の財産を分けて呉れと願ふものに無く候。

唯々老母の遺言が何かあれば、それを受給はりたきものに候。私はまた妻子も何も無き独者なれば老ひ行く先は帰国致してどうしても兄上様の厄介を願はなければならぬ身にて、幾等事業を共にせる友人と雖も事業失敗後は赤の他人に候。

今回色々心配の労を取られたるは一は故老母の老婆心に起因するものに候。私は身体の働ける間は此の米国にふみとどまりて幾等にても産を作り帰国致す考へに候。幸い渡米後一度も重き病気にもをそはれず、渡米当時の如く健全に働き居り候間御安心下され度候。

長尾氏は在米十有余年間、居住を共にせる人なれば兄上様より御礼の手紙なり秋の林檎の季節には林檎の一箱なりと御送り下され度候。

先は近況を報じ故老母の霊前に深く不孝の罪を謝すものに候。

この春の四月に左の切抜きの俳句を当地の日米新聞に発表せり。伏して、故老母の霊に捧ぐ。                              早々

      十月十五日

      兄上様                   豊三郎



この豊三郎の兄宛の手紙は便箋に五枚のインキ手書きで、現物は日本の弘前市の佐藤家にあるが、そのコピーを1991年9月末に佐藤てる様より頂いた。同時に日本およびアメリカでの豊三郎さんの写真七葉のコピーももらう。六十年も前の手紙を大事に保管された豊三郎さんの生家の方々の温情に心打たれた。

                                    竹村義明


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     #2 日本の兄、佐藤佐一より豊三郎への返事      

          (1929年)


 From:  青森県弘前市在府町八二

      佐藤佐一

      郵便日付と消印(昭和)4年11月18日 弘前 


  To:    青森県人佐藤豊三郎殿

       Mr. T. Satow

       c/o Ishikawa

       102 Wall St.

       U. S. A.

       Shico, Salif.


お手紙を拝見しました。何よりも壮健で居られる由聞いて一同安心しました。尤も無事でゐると思ふてうゐるものの、たよりに接しては一層喜ばしく思はれます。母は昨年より健康を害してゐました。身体よりも心の労は多い様でした。それは子供等の事を考へてのではありません。米国に居て永くたよりもしませんから、それを思ふたのでないかと思はれるでせうが別問題です。

昨年の秋使ふてゐる新岡より来て居た若者は火を粗末にして寝て居る処から出火しました。其の小屋を焼き払ひ、知って居る漬物小屋に移り、今や便所に移る処防ぎ止めました。家と倉は残りました。私も知りませんでしたが弘前から自動車ポンプ迄走りましたそうで大変なさはぎでした。夜中行って見た時にはまだ燃えてゐました。

其の為に悲観したらしい。今迄長生して最後に出火、一生涯を棒にフッタとでも思ふたのか好きな酒は進みました。酒にあらざれば生活出来ない様に見えました。其の為に段々身体を害しました。弟永二郎は大変心配して幾度か相談されました。然し好きな酒なら後幾年もないのだから呑ました方はよいと、別に私は其の酒を禁じ様ともしませんでした。

酒は次第に身体を害して五月二十六日には私は北海道視察から帰った晩に、飛脚は家からありました。心臓病一分間に百二十それに血滞はあります。一同心配しました。本人の養生と医師の治療と看病にて一時はのがれる事出来るかと思はれました。

処があの呑気性絶対安静を守りません。余程よくなったと思ふてゐたら又々迎への者は来ました。行って見ると九十から百までの脈は百二十余になってゐます。起きてみたくて起きてみたくて仕方なく、起きて永二郎妻に足を洗はしめたそうです。何故に足を洗ってやったか、それは母に対して弟の妻は絶対服従です。それでなければ安らかな家庭を作る訳には参りません。それは自然のなり行きです。良くなっては帰り、次第次第に疲労して骨と皮ばかりになりました。

其の時に島中氏より弘前にて面会したいと申込も手紙ありました。絶対安静、弘前に転地療養も出来ない場合でした。玉城で会いました。御身の上の心配でした。その事を長尾君にも通信したらしい。

母は八月十九日后後O時(二十日と言ってもよい位の時刻)私等夫婦、弟永二郎夫婦、武永千世其他別家の人々に護られながら眠るが如く昇天されました。火葬后(母は父と善四の火葬された為に火葬を希望していた)葬式を村でしました。沢山の会葬者はありました。勿論知識階級の人々の多く集まった事は今迄ない。決してそれを喜ぶものでないが、会葬した者は東京の私のこどもの処に報告したと言ふ事を後で聞きました。私の子供の嫁いでゐる今其の夫は丁度旅行出来ない事務上の関係、子供は五年になって初めての妊娠し大学病院の診断を受けて、これも旅行できずに二人とも来ませんでした。

こんな訳で葬式も済ませ武永千世子供(長男)は東京へ行き、七日七日の法要も済ませました。この月の二十五日か二十六日にかけて百か日の仏事です。この手紙を見る時は勿論それも過ぎてゐます。

島中さんと面会の由を聞いてそんなに皆のものは心配してくれてゐるかと云ひてゐました。時々母はたよりはあるかと申されます。その度につい近頃ありました、丈夫でゐると常に母に云ひて置きました。母からxxxなければ決して云はない様にしてゐました。母も生きてゐる内には顔を見る事出来ないものとあきらめてゐました。其の事はあまり残念でもありませんが思ふて見ると心の中にはどんなに思はれたでせう。

りんご一町五反ばかり作ってゐます。相当な収入もあります。家族は食ふて行かれます。開墾の山も四町歩位手に入れました。何時にても帰って来なさい。皆で働くと食べられます。帰るなら妻を迎える関係上、早い方がよいと思ひます。

何れまた家族の有様など申上ます。 左様なら。

  豊三郎殿         十一月十八日          兄



この兄からの手紙は、豊三郎の遺品の手紙の束の中に入っている。       竹村


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     #3  豊三郎より日本の兄(佐一)への手紙      

          1929 昭和4年12月21日


 From:  T. Satow

      c/o T. Ishikawa

      102 Wall St.

      Chico, Calif.

      U. S. A.

      郵便消印日付 Dec. 23, 1929 12 PM  Modesto, Calif.


  To:    Mr. S. Satow  日本青森県弘前市在府町八二  佐藤佐一様

       Yokohama

       Japan


十一月十八日附の御手紙、十二月十七日に拝読致し申候。故老母の臨終の情報に接し、亦新しく涙に咽び申候。老母にどれ程異国に放浪しつつある我が子に会いたかったらふ。私も事業さへ どうにか継続して居れば、一度帰国して老母を安心させ得しものを自分の努力の足らざるを今更ながらくやしく思ひ居るものに候。 一生涯取り返しのつかざる事をしたと思へば、残念至極の事に候。妻子の無き私にて母の生命は私の生存の光明であり慰めであったのだ。七十有余の老齢の母に、そういつまでも生き居る筈はないのだ。自分の無能と不明を今更ながら恥かしく、兄上様等には勿論親戚既知の人に対して会す顔無く候。然し、死せる母は復活する訳にもあらざれば泣事は是位にして置き、私の今後の生活方進に付き少々御相談致し度く候。

宝の山に来たり一度は宝を握り申候えども、又その宝に逃げられ、亦新しく握るべく努力致し居り候へども、一度来れる好機会は一生中に二度と来るものにあらず。今後少なくとも自分自身の力にて老後の生活の安定を保証できる位の金を儲畜出来得る迄、此の米国に踏止まるか旅費の出来次第兄上様等の膝下に走るか未だ未定に候。

此の米国で働く位日本にて働けば、幾等世事つらい故国とは言え、人間一匹生活出来ない事はあるまいと思はれ候。長尾氏も日本は少し働いて少し食ふていくには結好な国だから帰国するなら帰国しては如何かと最近の通信に読まれ候。

兄上は迎妻の事を心配され居るが、五十歳の花ムコも少々可愛な話に御座なく候や。やはり私は気楽な独身の方がよいと思ひ居るものに候。それから私の手紙の宛名の綴字をまちがへない様に注意して下され度候。此前の手紙にはChicoをShicoとCalifをSalifとしてCをSとまちがえて居り申候。それでも手紙は届くには届いだす。最も私の書きやうが悪かったかも知れん。

何れにせよ、今一二年は米国で働く考に候。兄上様等の子供等は皆相当の年齢に達し、私が米国に渡航した時の年齢に成って居るならん。実に今昔の感に不堪候。

明年は加州の林檎の栽培地に働きに行き、米国式の林檎栽培方法を研究せんと考へ居り申候。目下は加州の葡萄畑に働き居り候。

帰国の際はフオドの貨物自動車か或は普通の五人位乗れる自動車一台持って帰らふと思ふて居るが、貨物自動車の方が林檎を市場に運ぶに至極便利だらふと考え居るものに候。

是れで年末並に年始の挨拶に代へたく候。旧式の新年の挨拶も兄弟間には無意味と考へ居る次第に候。親戚の人には年始の挨拶を兄上より御伝へ下され度候。

   兄上様     十二月二十一日の夜         豊三郎


上記の手紙は便箋5枚に書かれている。同じく弘前の佐藤家から複写を頂く。封筒のアドレスはChico になっているが、消印は Modestoになっているから豊三郎はモデストの葡萄畑で師走の寒風にさらされながらぶどうの蔓(つる)切りpruningの仕事をしていたのか。「ブランケかつぎ」の季節労働者の彼は仕事を求めて渡り歩きの生活で、Chicoの住所は豊三郎がパーマネントアドレスのために石川さんに頼んで使わしてもらっていたのではないだろうか。

アメリカを引揚げて日本に帰るために、まとまったお金を貯めようとアラスカへ行ったのは一年半後の1931年であった。明くる年の1932年にも再び出かけた。五十に近い身で、無理が過ぎたのか病に倒れ、遂に1933年(昭和8年)5月に亡くなった。彼の遺品の中には、履歴書や日本からの手紙と共にアラスカ紀行を記した手帳が入っている。

                                    竹村義明


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     #4 佐藤佐一(兄)よりアメリカの豊三郎(弟)への手紙       

          郵便日付 昭和5年1月23日 (1930年)


 差出人  佐藤佐一 青森県弘前市在府町82

  宛名   Mr. T. Satow

       c/o T. Ishikawa

       102 Wall St.

       Chico, Calif-.

       U. S. A.


十二月二十一日付の手紙を見ました。無事に働いて居ることを聞いて皆安心してゐます。都合上何時帰っても差支ありません。達者で働いていたら生活できないことはありません。林檎のことを研究して帰ると色々の関係上至極好都合と思はれるが米国は日本と異なり高木作りと聞いてゐます。だ米国の新種を得て、日本に試験して見ると将来の為に有利かと考がへられます。一二年米国に居て帰ることは最も賢き行為と思はれます。次に自動車をのことですが義塾長の笠森氏は米国より自動車を買い求めて帰ったら関税などの関係上当地にて買い求むると何等利益無かりしを話されています。米国より買求めて帰ることと、その費用にて当地にて買求めすることの何れが有利かまだまだ研究の余地合うように考へられます。余り荷を多く出すのでもなく、出すとしても秋から冬にかけてこと故に雪道の方は多い。すると自動車は余り有利に利用出来ないとも思はれます。

私も多分今年切りで(三月)現職を引くことになるでせう。私の先輩は県の各郡を通して住人以上はありません。今年は年寄を退職せしむる方針らしい。すると私の様に比較的多く月俸を貰ふて要るものは緊急時代イの一番にやられる方です。決心してゐます。私は退職することになると、山田の南 新岡森に川を境として三町五反歩の地所を手にれてゐます。それを開墾して林檎園とする見込です。依って一二年で帰ったならその一部を引受けて働くと、兄弟三人で営むと余程見込はあります。永二郎は動力の噴霧器を七百円で買求めて使用してゐるが,僅か一町五反歩の場所には不向きでモットモット大仕掛けな土地でなければ為になりません。こお買求めに対して私は不賛成でしたが、買求めて結果を見るのは精神上よいと考へて其のままにしたので、今の所其の点に於いてはよいと思ふてゐます。

妻のことは帰ってからヨクヨク相談して適当な人あったら迎へることにします。永二郎の子供武永は草の田原小学校に職を求め、夜分は私立大学に勉強してゐます。次の鉄男は南米行の船に乗って働いてゐると云うことです。其の妹のチセは本県(黒石町立)の実践女学校を卒業後東京に出て武永と二人で間借りした九段の洋裁学校の高等専門部に入学し今二年で卒業すると女学校の教諭のなれるのです。卒業后の就職口は余程困難の点はあります。和T氏の子供は東京の慶大卒業で岸博士(弁護士)の事務長をしてゐる今文武と云う人に縁付き、六年振の一月三日女の子供を出生。次の長男は中学校をしたものの東京の姉の処に世話になって予備校に三月で二年ゐます。弘前高等学校に受験準備中。今年が適齢です。次は中学校の三年、その次は高等小学校の一年生、今年女学校に入学準備中です。昨年は二人共パッスしませんでしたが、今年は入学して呉れる様に祈ってゐます。その次は七才、今年入学男子の子。三男二女の内、一人は縁付ゐて残りの四人の教育です。

永二郎は林檎に秀でてよい林檎を収穫してゐます。二十萬の袋掛、四十斤入り一千五百箱の見込で割合高価に売りますが、今年は物価低落の為に余程影響があります。対馬中五郎氏は林檎の研究に於て県下右に出るものない位に社会から認識されています。

何れまた色々の事を申上げます。何はともあれ、壮健であることを祈ります。

   一月二十日夜                  兄より

   豊三郎殿


これは1930年(昭和五年)二月に豊三郎が兄佐一から受け取った手紙で、以前のひらかな文と異なりすべてカタカナで書かれていた。豊三郎の遺品の中には、青森の故郷からの手紙は兄からの二通の手紙があるのみ。

父親は佐一が二十歳、豊三郎が十五歳の時に亡くなったが、佐藤家は地方の良家で佐一は弘前市の助役も務めた。

年代は不明だが、豊三郎は日本人数人と共同でサクラメントの北方のチコで「米作り」を始めた。佐藤家からの写真に、一同が紳士帽子を冠った一枚がある。みんな誇らしげな自信満々の表情をしている。農業関係で発展する日系人に対して、1913年の土地所有を禁ずる排日土地法、引き続いて1920年にはさらに辛辣な借地農業をも禁ずる第二次排日土地法が施行されて困難をきわめたが、しかし何んと云っても1929年10月末のニューヨーク株式市場の株価大暴落に続く世界的大恐慌は大打撃だった、これにより米作事業は失敗し、その昔の栄光を取り戻すことは不可能となった。これを境に,豊三郎の「ブランケかつぎ」生活が始まった。

日本に帰った旧友の長尾や兄の佐一の便りを読み、日本に帰ろうかという気持ちが出てきた豊三郎は、まとまったお金を作るために努力はしたが、日本人農家や果樹園での仕事口を探して歩くブランケかつぎでは思う通りには行かなかった。

翌年1931年(昭和6年)、彼は「アラスカ行き」の大冒険に出た。鮭の捕獲と缶詰を商う会社はベーリング海沿岸のブリストール ベイにあるが、サンフランシスコからそこへ行くには太平洋を北上し、アリューシャン列島を横切ってベーリング海に入るのだから、日本に行くよりも遠い。夏でも寒い夜のない国、アラスカでの朝三時半から起きての重労働。給料が良いので夏休みを利用して若い大学生が豊三郎とも同船しているが、五十に近い彼にはきつ過ぎた。秋から春にかけて再びブランケかつぎの仕事に北加の農家を回り、1932年にもアラスカへ行くが体が衰弱していたのか、1933年には病魔に侵されて病体の上、食べるお金にも困り、郡病院の世話を受けることになった。最後は腎臓が悪化して肺炎を併発し、スタックトンの南隣の町フレンチキャンプにあるサンオキン郡病院で四月十八日、五十一歳六ヶ月の最後を遂げた。

                                    竹村義明



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