Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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  物語 - 一世関係
63 - 日本からアメリカへ(4)  夏原勢ん
 
             
 

日本からアメリカへ(4)           夏 原 勢 ん


1 9 4 1年(昭和16年)から 1 9 5 3年(昭和28年)頃まで

第四章は夏原勢んの記録(日記、書き物)が主な出所だが、夏原ファミリーメンバーが補足している。


戦争が始まってから、一世が二世と同居してたらラジオも写真機も家に置けんと言われるので、オーバンの店には長男夫婦と次男ジヤキと三人が住むことにして、私達は学校行きの子供等と田舎のクリストッパの家へ移りました。私とパパは、朝子供等を学校に送って、昼はオーバンの店に行く、こんな毎日をくり返していたら、私は目まいがして起きて居られんようになったので、ダクタ テエラーに来て頂きましたが静かに寝てなさいと注意して帰られました。何日か休んでおりましたお蔭でだんだんと良くなりました。色々気苦労と疲れが出たのでした。

十二月七日に日本からだしぬけに戦争始めたので、アメリカ中はおこっているから、日本人を見たらジャップ、ジャップと言って排斥がひどくなった。一番に、日本人会の会長や役員、続いて日本語学校も先生や仏教会の一世の開教使さんまでFBIにつれられて、はじめはシヤトル移民局へ集めて、一度ヒヤリンをしてから、それぞれモンタナやサンタフエとか遠いところへ送られなさったのです。「夏原さんも、今にFBIが来るから用心しなさい。」と注意して、「来よったら、支度する間もやかましく言われる」とききましたので、私はシャツやねまき、下着、タオルなど主人が必用と思うものを皆スウツケースに入れて待ってましたが、不思議な事に、内には来ませなんだので難をのがれました。FBIらしい白人は、店をのぞきながら通りましたが、家へは入りませんでした。主人は、その時六十五歳になっていましたし、当時日本人で商売する人はお客さんは日本人相手でしたが、夏原は日本人ばかりでなく白人にもチャーレーの名で知られて商売をして知人が多かったので許してもらったのかも知れません。

主人はオーバンのお寺の事は、初めから主な役をして居りましたし、日本語学校の会計は八年間もしてました。あの当時、学校の生徒はたくさん居りましたが、毎月の月謝がおくれて困っても、先生の月給は毎月きまって払いましたのです。前川善太郎さんが、後を引き受けて日本語学校の会計をして下さったので安心して居りましたが、一年位して戦争が始まったのです。そして、その善太郎さんは、FBIに引っぱられました。家族の人は、学校の役をしていただけなのにと言っておこって居られましたが、気の毒な事でした。また隣の青山富三郎さんは、どの団体の役もして居られん人で、長男をハイスクル卒業した時に東京の早稲田日米学園へ勉強に送っただけなのに、それが何がわるいのかFBIが来てつれて行きました。

皆々不安な日をおくりましたが、翌年の千九百四十二年三月になって、日本人は一世も二世も皆、立ち退かせて収容所へ集めると発表されました。私達夫婦は日本生まれですが、オーバン生まれでアメリカ国籍がある息子や娘まで立ち退きさすのは排斥です。近くに住むドイツ人ファミリーには、立ち退き命令がきませんでした。私方はあれこれと広げていますので大心配でした。何から始末したらよいか、まず店の品物を店のワヤハウス(物置warehouse)に皆集めて、となりの洗たくやさんミスターサナマンさんが全部ワチ(注 watch)してくださるのでキイを皆あずけました。オーバンは排斥がひどかった所でしたが、悪い人ばかりではありません。サナマンさんは以前から何でも親切にして下さいましたのです。私達が加州へ汽車で送られる時もオーバンの駅へお別れに来て下さったし、収容所に入ってツールレーキのキヤンプに居る時には、家族の皆さんが私達を見に来て下さり写真もとって下さいました。

一方、クリストッパのワヤハウス(倉庫)には来年用の肥料の原料がたくさん買い集めてありました。お正月がすぎてから二月三月にかけて、いろいろメキスして農家へ送り出すはずでしたが、皆立ち退きの話があるので百姓をつづけるする人は少なくなりましたので、注文が少なくなりました。しかし肥料原料は別にいたむ事はありませんから、今はどうする事もできませんので、ワヤハウスに入れて戸を閉めて錠を下ろして、働いて居た白人スワンソンにワチしてもらうようにしました。つぎは四十エーカの苺畑です。ラスベリとブラキベリばかりです。日本人に全部仕事をしてもらっていたのですが、皆立ち退きになるので始末に大困り。

婚期になっていた三女、富子の結婚が急に決まり、オレゴン州ヒルスボロ市の岩崎末吉氏の長男、岩崎ジョージさんと二月二十日にポートランドの仏教会で結婚式をすることになりました。末吉氏は滋賀県出身の同郷人で、内の千代吉とは渡米直後モンタナ.ミゾーラで一緒に仕事をした友達同志でしたから、結婚の話はすぐに決まりました。しかし、家から遠くへ行くことは政府に禁止されているので、娘の結婚式にも出席できません。戦争を恨みました。ジョージさんにこちらへ来てもらって、白河仏教会でファミリーだけのささやかな式をしました。そして、ポートランドへは、末っ子のメリヨだけが警察の許可をもらって行って、夏原家を代表して式に立会いました。結局、富子は結婚の式を二回しました。

ジョージさんは岩崎末吉、いと夫妻の長男で、弟のあきらさんとアーサーさんは戦争が始まってからまもなく軍隊に召集になり、この二人も式に出られませんでした。強制立ち退き令で岩崎一家も、五月にポートランドのアセンブリーセンター集合所に入所しましたが、オレゴン州の最東端のネッサ方面でシュガービーツ(砂糖大根)栽培のチャンスがあると聞いたので、すぐそこを出たので収容所には入らなくてすみました。ヤキマへ嫁に行った勢き子の須田一家はアイダホ州ナンパに同じく自由立ち退きしてポテトつくりを始めました。私らも自由立ち退きをしようかと思った事もありますが、どこに行ってよいか見当もつかず、やがて自由立ち退きの期限もすぎて強制立ち退きを待つばかりでした。

1942年四月末から立ち退きが始まりました。六月にはラスベリが出始めるので、フランキがサムナーやピヤラップの苺のキヤナリ会社(注 缶詰会社)へ行って相談して、苺作りをしているノーウエ人に相談しました。其の人は、自分も十五エーカ、ブラキベリつくっているが、「シア」〔注 シェアのことshare〕でなら引き受けてみようと申されたので、クラップの収入は半分わけにして、内の分はケントの銀行へ入れてくれるようにと言って約束ができたので、フランキは安心して帰宅して父に話しましたら、父も大へんよろこび安心いたしましたのです。せっかくイチゴの手入れをして収穫が間近かでも、軍側はそんなことは聞いてくれませんから、アレンジできない人はあきらめてそのままにして、ほって出られました。借家やボスの家にに住んで自分の家のない人は、家財道具一切を二束三文の安売りか投売りをしたり、置き去りにしてこられました。

立ち退く日系人は、収容所に入れられるのですが、それができるまではテンポラリーの「仮の収容所」「集合所」(Assembly Center) に入る事になりました。毎年秋に郡共進会 (county fair) のあるペアラップ (Puyallup) のカウンテーフェアグランドも集合所になりました。立ち退きは、ベンブリッジ島からはじまり、つづいてシヤトル、ベレビユー、レントン、ホワイトリバー、タコマとだんだん進みました。オーバンからペアラップはすぐ近くで、車で行けば半時間くらいなのに、タコマやオーバンの人達は汽車で二日もかかる千マイル離れた加州〈カリフォルニア〉へおくられました。加州でも暑い所に、粗末なバラックが建ててあります。私達一家は五月二十二日にオーバンから汽車に乗せられて、青い物は草一本もないパインデールと言う暑い所へつれて行かれました。(注 パインデールはフレスノの北、五マイル)暑くてテーブルがアスファルトの床にずれこみました。何もかも不便な所で、第一、食べ物も不足でした。綿会社の大倉庫25棟と新しくたてたバラックに四千五百人ほどの日本人が入りましたが、ここは五月でもすでに暑くて、涼しい所から来た私達には地獄でした。

このパインデールは一時的な集合所 (Pinedale Assembly Center) ですので、七月に入って新しく建てられた「ツールレーキ収容所」(Tule Lake Relocation Center 転住所) へ移動させられるようになりました。フランクの嫁の静子は出産が近づいていましたから、汽車の長旅で具合がわるくなり、ツールレーキの駅でおりると、そのまま隣の町の大きな病院へつれて行ってもらいました。七月二十五日にシャーロンが産まれました。日本名は千代子です。(注:隣の町はオレゴン州のクラマスフォール)


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次の立ち退き記録(時間表)は次男の善雄がオーバンからパインデール、そしてパインデールからツールレーキに汽車で移動する時に、ノートに書き残したものです。


日本人の立ち退き JAPANESE EVACUATION

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オーバンからパインデール

    オーバン 出発        1942年5月22日 午後 5時30分

    パインデール アセンブリーセンター着  5月24日 午前11時25分


パインデールからツールレーキ

    パインデール センター出発  7月16日 午前 9時25分

    フレスノ駅  全員集合            11時15分

    フレスノ駅  発車              11時50分

    マデラ                    12時25分

    マーセド                 午後 1時25分

    リビングストン                 1時40分

    ターラック                   1時55分

    モデスト                    2時14分

    スタックトン                  3時10分

    サクラメント 着                4時15分

           発                4時55分

    ウッドランド                  5時40分

    ウイリアムス                  7時50分

    オンランド                   8時20分

    コーニング                   8時43分


      SHADE DOWN OK BLACKOUT 8時54分

      窓のブラインダー下ろして消灯 (就寝)


    ダンスマー           7月17日 午前2時03分

    クラマスフォール                6時

    ツールレーキ タウン              7時57分

    ツールレーキ収容所 着             8時15分


    初  雪               10月26日 

    ひどい霜、気温9度(摂氏零下12度) 11月 9日   以上


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ツールレーキは加州の一番北の方にありますが、セージブラッシがいっぱい生えた砂漠の中にありました。私等が入った時には、先に入ったサクラメント方面の人が、すでにたくさん入って居られました。ここは、政府のインデアンレザべーション(先住民保留地)の中にできた日系人の収容所で、周りは一面セージブラッシの砂漠でした。昔はここは湖があった所なので、キャンプの敷地の中にも貝殻が見つかるので、みんな拾ってきて貝細工をつくりました。昔インデアンが弓の矢の先につけた石の矢じりも拾ってきました。寿美子はお友達とそんな貝殻や矢じりで沢山いろんなアクセサリーを作りました。アワビの貝殻はありませんが、収容所からは遠くにアバロニ・マウンテンというアワビそっくりの形をした山が見えました。夕陽に映えるその姿は本当にきれいでした。

前にいたパインデールより段違いに大きい収容所で、学校も郵便局もあり、一万四五千人ほどが入っていました。寝る所もあり、食べるものも十分ありましたが、私たち家族がこれからどうなるのかということが心配の種でした。ツールレーキでは皆さんそれぞれ仕事に付かれました。良人は畑仕事をすることにして、毎朝八時に食堂の前からグループとトラックに乗って仕事に行き、午後四時に帰るのです。月に十六ドルほど月給をもらいました。

ここに来てから半年ほどして、「兵役の義務を果たしますか。アメリカに忠誠を尽くし日本に鉄砲を向けますか」というむつかしい質問がアメリカ政府から来たので困りました。どちらか一方を「イエス、ノー」と答えた人は多いのですが、政府は「ノー、ノー」と答えた「ノー、ノー組」の人達を全国から一箇所にあつめることにして、ツールレーキをその人達の入る隔離収容所に決めました。このため、このツールレーキはアメリカの仕打ちが悪いと言う人と日本びいきの人が集まる事になりました。そのため、私達一家は一九四三年十一月にツールレーキを出て、アイダホ州ハント(Hunt, Idaho)のミネドカ転住所(Minidoka Relocation Center)に汽車で移りました。

このミネドカもインデアン保留地の中にバラックが建てられた収容所で一万五千人くらい入りました。アメリカの歴史の中で、自分の住家を追い出されたのは一番初めから居たインデアンと新しく来た日本人だけですから、歴史の不思議を感じました。来た当時は、出来て間もない収容所ですから、砂塵はバラック部屋の中にもどんどん入って来ましたし、外では鈴蛇を見たこともありますし、夜にはカヨテの遠啼きも聞こえました。部屋はガランとして調度品が少なかったので、善雄が木材置き場から不要の板を持って帰ってテーブルや棚を作りました。時間をもてあまして、物作りが好きで上手な善雄は、仏壇を沢山作ってほしい人に上げていました。

急造のバラックの建物の並ぶこの収容所は、初めは見るからにあわれなものでしたが、日本人持ち前の我慢と努力によって庭を造ったり花や木を植えたりして、日に日に「人の住む町」に変わっていきました。丈次と寿美子は、バラック建物を教室にしたハイスクールと中学校へ行きました。白人の先生にまじって日本人の先生もいました。ここには大学がないので、戦争の始まった時ワシントン大学一年生だったメリヨは、大学と転住所の事務所のすすめで、ミネソタの有名なメーヨクリニックMayo Clinic in Rochester, Minnesotaへ特殊看護の訓練をうけることにして出て行きました。

戦争になってから一般のアメリカ人の生活も苦しくなり、(Ration book)配給手帳で統制品、配給品の買い物をしたそうですが、収容所にいる私らはそんな不自由をせずに生活できました。用事でユタ州ソートレーキに行ってきた人の話では、日本人に対する周囲の空気は温かいとはいえず、ソートレーキに住む日系人の生活は厳しかったという話です。収容所に入った私たちは全然今までの排斥はなく、仕事をすれば給料もくれましたし、毎月衣服代もくれましたので本当に気楽な生活でした。三年あまりの収容所生活は、多くの人にはべケーションのようなものでした。特に生活が苦しかった人や成長盛りの子供の多かった家族には、収容所は天の救いでした。三度の食事は据え膳で、費用は先方負担で財布と相談の必要もなし、栄養十分な料理を十分食べさせてもらいました。

戦前は働くばっかりで趣味やレッスンの時間や余裕のある人はごくわずかでしたが、ここでは 生け花、裁縫ドレスメーキング、詩吟 川柳、観世流謡曲、英語、手芸工作など習うことが出来ました。お寺や教会もあるし、この収容所をもじって休養所とか修養所という人もありました。子供たちは野球場が方々にあってベースボールをエンジョイしました。購買部で手に入らないものやいろんな必要品はシアースローバックの分厚いカタログを見て、通信販売を利用してシカゴから送ってもらいました。精神的な苦しみはありましたが、衣食住の心配と身の危険は一切なく、日本人だからと入所前に受けたような排斥もなく、多くの友達に囲まれて全く「住めば都」でした。終戦になり、この転住所閉所の期日の発表後も、最後の最後まで出所したくない人もありました。

こう云えば収容所が楽園のように見えますが、収容所生活をどう見るかは、各人のかかえた事情や年齢によって、大きく違っています。一世は、全体的に「仕方がない、我慢辛抱」と受け止めた人が多かったようですが、家庭を持つ年輩の二世は一家のこれから(戦後)の生活に対する不安が大きく圧し掛かって、常に気苦労に取りつかれていました。若手の二世にとって、この転住所は、これからアメリカ社会で前向きに生きる覚悟を固める準備場所を与えてくれました。帰米二世は日本とアメリカの狭間の中で悩んだ人もありましたが、多くの純二世は親の反対を押し切って、進んでアメリカに忠誠を示して軍隊に志願されました。この頃、三世の数はまだ少なく、しかもほとんどはまだ十歳までの幼年でしたが、この三世の子供達が収容所生活を一番エンジョイして楽しく過ごしたグループではないでしょうか。

収容所には学校(小学校から高校)、購買部、病院、歯医者さん、魚屋さん、警察、消防署もありできるだけ自給自足なのでどこにも日本人が働いていました。みんな仕事をもらって給料をもらいました。職員も医師も歯医者さんも日本人でしたし、学校の先生の半分は日本人でした。魚屋さんではサシミも買えました。一寸したものは、ここの購買部のカンチーン店にありましたが、ここにないものはシカゴのシアースローバック商会のメールオーダーを利用しました。 分厚いカタログを見ての注文です。善雄はラジオ部品と写真部品取り寄せてました。

筆まめな善雄は、四四二部隊の兵士の岩崎アーサー(富子の夫の弟)と手紙のやり取りをして、受け取った軍事郵便を全部残しています。その中には激戦のすぐ後のフランスからの手紙もあるそうです。また善雄は農繁期になると、アイダホ西南部のナンパやカードウエル地方でポテトとアニオンをつくっている日本人農家へ、収容所の事務所から短期出所許可証Temporary Leave Permitをもらって友達と一緒に働きに行きました。 

丘の上にはだれが立てたのか木の丸太で作った大きな鳥居がありました。その鳥居の額には「繁都公園」と書いてありました。(Hanto Koen Hunt Park)良人はもう六十七才になってましたが、長年身に付いたくせで何もせずにじっとして居られず、仕事に追われるというのでなくて仕事を追っていく人でしたので、毎日畑に出てましたが、オーバンのお寺の事と日系人の墓地の事をいつも気にしていました。ミネドカでは墓地の掃除費の寄付を集めにまわり、一ドル以上いくらでも結構ですとお願いして、集まるとすぐオーバンのミスター、サナマンへ送って、以前から手入れをしてくれている白人チャレー、リブリンに渡してもらうのです。サナマンさんにはユダヤ系の白人で、今までに人種差別を受けているので、このたびの日系人の立ち退きにも同情して下さいました。

良人は戦前から人に頼まれて、何組も結婚の媒酌をしていました。このキャンプに入ってからも、ツールレーキで三組、ミネドカアイダホでも三組もお世話いたしました。ツールレーキで一度披露宴の時、一方の世話人の方が「夏原さん、高砂を一つお願いします」と申されたので、良人は「私は高砂どころか歌は何も存じませんから習わぬ経はよめませんので失礼します」と申しましたが、媒酌人から高砂も知らんのかと言われて赤面でした。そんなことがあって、ミネドカへ移って、そこで知人を訪問した時に「夏原さん、ウタイをならいませんか。私は今友達と一緒に習いに行ってます。」ときいて、「これは耳よりな話や。先生はどこに居られるか」と尋ねたら、シヤトル出身別府羊先生御夫妻が教えて下さるときいて早速お願いに行きました。結婚式のときの「高砂」を教えてくださいと面会早々からお願いしたら、別府先生が「高砂は日本では三年目でないと教えてもらえないけれども夏原さんは熱心だから特別に」と親切に教えてくださったのでだんだん上達したようです。先生の奥さんは、此処に来るまではシアトルで助産婦をされていた方です。

主人は家に帰ったら観世流のウタイの本を手帳に書きうつしていましたが、「毎日野菜畑で仕事しながら時々ポケツから手帳を出して大きな声でうたいをうたって居られる」と毎日一緒に仕事に行く人が言われましたが、良人の熱中振りは評判になりました。謡曲は家族のことを思う不安な気持をまぎらわしてくれたようです。謡曲の本が手に入らないので、息子の嫁静子は借りた本を書き写して手書きの本を作ってくれました。このほか、謄写版刷りの手本も残っています。渡米以来五十年今までずっと仕事一筋の人でしたから、謡い(うたい)は良人には別世界で、本人はとても楽しんでいました。六十の手習いではなくて、七十近くになっていました。

フランクはここに入ってしばらくしてオーバンの様子を見に出かけました。そしたら、立ち退きの時にしまっておいた荷物がひどく荒らされていました。サナマンさんの話によると、ガバメントの人が、夏原のワヤハウス(倉庫)の荷物、何が入ってあるか見たいと言われたので、ミスターサナマンがキイで錠をあけて中へ入ったら、荷物は大切な物もみんなめちゃめちゃにこわしていた。どこから入ったのか調べたら、ガラスの天窓ぶちわって入ったのだそうです。収容所に入っている私たちには、泣きっ面に蜂でほんとうに悔しい事でした。1044年6月17日、フランクと静子に次女 Bonnie 世津子が生れました。

ミネドカ・ハイスクールを卒業したジョージ(丈次)は、召集令状が来て軍隊に入ってミネソタにある陸軍語学校で訓練をうけました。1944年12月、フィリッピンの前線に行く前に休暇をもらってミネドカに帰ってきましたが、当時めずらしかったカラー写真フイルムで家族の記念写真を撮りました。

ミッドウエー海戦から戦争がアメリカに有利になり始めてから、アメリカ政府は収容所からどしどし出所を許す方向に方針を変えてきて、ミネソタ、シカゴ、ニューヨークなどアメリカ東部への移住を勧めました。一家の行き先を考えて、義雄Jack はミネソタや妹メリヨのいるオハイオ州クリーブランドまで下調べに行きました。しかし、結局、西部沿岸はまだ排斥の気配が強いとの事でしたが、夏原一家はオーバンに帰ることに決めて出所しました。

寿美子オーバンへ帰ってから、九月の新学期となりハイスクールへ行ったが「仲の良かったフレンドが知らん顔をするし、もう学校へ行かない」と泣いて帰り」ました。パイオニア墓地の荒れはひどく多くの墓石が壊されたり倒されていました。三女勇子のお墓は土台はありましが上のハート型の墓標はなくなっていました。

政府当局は日系人の転住所から出所の際は、カリフォルニアや西部沿岸よりも他所へに転住を勧めたこともあり、移住費用をもらって大移動がありました。ここに来る前に自分の持ち家、ビジネス、農地などを持たない人が多かったので、排斥がないという中西部やイーストへ出て行った人の多かった事は確かです。同じワシントン州でも、開戦時から自由立ち退きで日系人の多かったオンタリオ、スポーケンに知人や友人を頼って出て行く家族もたくさんありましたが、夏原家族はオーバンの家にもどってきました。しかし、この町に昔住んでいた家族のうち、帰還した家族はほんのわずかで、日系社会の戦前の影はなく、店も肥料の商売もお客さんなしでは商売になりません。この度の戦争立ち退きは大損害をもたらしました。

戦争が始まってから、日本との音信が途絶えてしまって日本から手紙が来なくなり、どうしてるだろうかと案ずる生活が続きましたが、1945年秋に思いがけないうれしい手紙が千勢子から来ました。戦争が終わって日本に来たアメリカの進駐軍が久徳小学校に駐在して、その中にシアトルから100マイル北の町・ビリンガハムからの兵隊さんがいたので、千勢子が頼んで軍事郵便として送ってもらったのです。早速、こちらからもロービン軍曹を介して手紙を書きました。久徳のお医者さんの玄琳さん(小菅玄琳)が村の病人のために、そのころアメリカで出来た結核の特効薬ストレプトマイシンが手に入らないかと頼まれたので、送ったこともありました。

ジョージはフィリッピンのルソン島で終戦を迎へましたが、そこで戦前にオーバンにいた二世で、日本兵になった寺田さんに会ったそうです。ジョージはそれから朝鮮に行って、日本には1946年秋に進駐軍として東京に行きました。そして。ある日突然寝具の入ったダフルDSッフィーバッグを持って久徳へ行って竹村一家を驚かせたそうです。東京進駐の後、アメリカに帰ってシアトルのワシントン大学に入り、会計士の資格をとりました。

日本での生活が苦しいので、1948年に和子(竹村)が渡米し、1950年春に千勢子が渡米し、寿美子と一緒にシアトルに住むことになりました。フランクと静子にキャシー(1947)とジーニー(1951)が生れ、ジョージさんと富子(岩崎) は三人(ジェームズ、ラーニー、マーシャ)の子持ちです。メリヨにはザッカリーとアーロンの男の子が二人います。

今まで出来なかった日本行きが解除になったので、私等夫婦は1953年春にサンフランシスコの河合観光団に加わって行きました。前の大統領トルーマン氏がサンフランシスコからホノルルまで同じ船で行かれたので、良人はノートにサインをしてもらってきました。横浜に着いて、関東から九州まで楽しく観光しました。私は二十四年ぶりの訪日で、弟の源之助と源七、北海道の妹堀田美登に会いました。良人は13年ぶりの訪日でした。 病気中の姉森嶋トヱに会うことができましたが、アメリカへ帰る少し前に亡くなって、お葬式をすませて帰りました。良人の六回目の日本行きでした。


おわり




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