Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

前のページにもどる

  物語 - 一世関係
64 - 排日土地法と日系人 竹村義明
 
             
 

排日土地法と日系人          竹 村 義 明


初期に渡米した一世は、大多数が製材所や鉄道の仕事や白人家庭での下働きに従事したが、1900年(明治33年)に入る頃より職種に変化が出て、田舎で小規模農園の耕作を始めたり、町に出て商売を始めたりする一世が増えてきた。初期の一世移民はシアトルを中心とする西北部とサンフランシスコを中心とする北部加州に多かったが、1906年のサンフランシスコ大地震以後、中部加州〈フレスノ〉や南部加州〈ロサンゼルス〉へ仕事を求めて移動する一世が急増した。それと共に、1910年頃からのカリフォルニア州における日系人の農業方面への進出は目覚ましかった。一世の多くは日本の農家の出身だから、水を得た魚というのか、カリフォルニアの大地を耕して作物をつくり、広大な農園から大量の産物をアメリカ市場に送り出した。

当時の法律では、アメリカ国籍取得不可能の日本人は土地の取得は出来ないので、一世はこの国生まれの二世名義とか合法的に他人名義で土地を購入した。収穫した作物は法人組織の会社から全米に向けて出荷し、アグリビジネス農産物取引市場でのシェアは、1920年頃になると米人同業者の脅威となる驚異的な上昇を遂げた。しかし、それはやがて彼等並びに同調者に卑劣な日系人圧排斥と日系農家追い出し工作へと向かわせた。この排日風潮に輪をかけたのは日本政府と軍部のアジアの近隣諸国への利権拡大政策だった。しかし、アジアへの経済的進出を計るアメリカとは、歳月の経過と共に衝突を避けられなくなり、この日米関係の悪化は一般市民に日系人に対する悪い感情を持たす結果となった。 

加州では1913年に加州議会で最初の外人土地法(別名・排日土地法)が制定されて、帰化不能の外国人(日本人・支那人、東インド人)は農地の賃借権(リース)を三年の間だけ許可されることになったが、1920年11月2日には加州住民による一般投票によって第二次外人土地法が通過した。この規定では、今までの三年間のリース権も奪い取った上に、農地のみならず総ての不動産の所有、保有、譲渡を禁止する残酷なものだった。しかも、これが有権者住民の投票によって決まったのだから、不満を打ち明ける場所は無かった。この苦境を脱するために多くの日系農家は、シェア耕作(地主と耕作者の一世が合意して収穫分配契約)に活路を見出して窮場を忍んで来たが、その歩合耕作も1923年の議会決議で停止された。同じような外人土地法はカリフォルニアに続き、1921年3月にはワシントン州、1923年にはオレゴン州でも作られた。しかし、この様な悪条件の中にも、日系農家は組合を組織したり、資金を集めて二世名義で土地を購入して持ちこたえた。

1923年9月1日、関東一円が関東大震災に見舞われた際、アメリカ政府や国民から直ちに多額の義捐金が届き日本国民を感激させたが、震災三ヶ月後の12月にアメリカ議会では日本への援助ではなく、日本からの移民制限と日系二世の国籍まで無効にしようとする憲法改正案が提案されたのである。憲法改正して修正アメンドメントして、二世から国籍まで取り上げて、日本人の血のある者から永久に土地所有権を根こそぎ引き抜いて日系人の農産企業を再起不能にしようとする胆魂である。帰化不能の日本人一世は帰化できないので土地は持てないが、一世は二世の名義で購入したり保有するので、二世の市民権を無効にするか又は取り上げようという訳である。

アメリカには建国時代から「WASP」 と言う排他主義思想があり、その英語の頭文字の通りアメリカは(White 白色、Anglo Saxonヨーロッパ北西部アングロサクソン系人種、Protestant プロテスタント)の国だとして、皮膚の色、人種言語、宗教の異なる他国人を排斥してきた。1920年代に農業方面で日系人の進出が自分達の損得に関わる経済問題になってくると、常識では考えられない方向へと発展した。野心政治家は、排日の風潮を扇動して選挙での得票をねらう道具に使った。彼等は攻撃の標的をはっきりと日本人に定めて、土地所有の根本となる「国籍と帰化権」を国会にまで持ち込んだ。

国会でも普通の議案は、過半数得票が多数決となるが、憲法修正案提出には議会の三分の二の賛成が必要であり、二世の市民権に関する問題で法案通過の見込みは薄かった。日系人の願い通り、1923年12月に上院、下院のJudiciary committee 立法部会から提出の憲法改正議案は議会を通過しなかった。しかし、議会でこの問題が持ち出されたという事は、如何に排日気運が根強かったかという証拠であり、在米日系社会の憂慮の程が計り知られる。新移民法もこの時に討議されたのだろう。日本からの移民に関して、外交官、聖職者、国際商人の他は、一切入米を禁止する「排日移民法」〈正式名称は新移民法〉が可決され、翌年の1924年7月1日から発効した。 

頼るべき故国日本の腰の弱さに、在米の一世は失望の日々を送った。そして、それはやがて諦めへと変わって行った。世界中からの移民の国・アメリカに住んで同じ移民でありながら、欧州や他の国からの移民には制限がないのに、日本人は「帰化不能の人種」と決められて、不動産に関して最悪の取り扱いを受けるに至った。日本が明治中期より採っているアジア諸国への進出政策は、アメリカのアジア政策と相容れず、外交上の日米関係の悪化は一般市民の日系人に対する排斥へと繋がってきた。日本政府は「アメリカ政府の日本に対する反対や妨害を避ける為に」、アメリカの一世を犠牲(置き去り)にしていると感じた一世は少なくなかった。このように、内外両面からの理由により在米日系人の苦難の日々は続いた。

アメリカ生活を諦めて日本に引揚げる家族もあったが、なおもアメリカに踏みとどまって「アメリカに永住しようか」と思う人も少なくなかった。その理由はやはり「子供」と「アメリカ生活」である。いやな目や排斥に会うこともあるが、アメリカ人は悪い人ばかりでなくて親切な人も多いし、日本にくべるとアメリカは進んでいて、日本では珍しい電気製品、ラジオ、ミシンなども手に入る。「アメリカ生活の良さ」は日本と比較にならない。不利な土地法があっても子宝の子供ができると、お金さえあれば土地も買える。精出して働けば、お金も少しは残る。日本を訪問して帰った人から、日本での生活は思ったほど容易ではないし、英語育ちの子供は日本では苦労する話を聞いて、多くの一世は働けば食べていける見込みのあるアメリカに住む気持が日増しに増した。そして、多くの親は日本に勉学のために送っていた子供を呼び戻した。

在米一世は、アメリカを目指してやって来た他国の移民の中に生活して、自分がこの国に来ている意義を考える時、自分もこの恵まれたアメリカ・チャンスの多いアメリカに来ている一人であることを自覚した。そして、一世たちは「今は苦しくても、ここは踏ん張り時。それ ヒトフンバリ! ここは我慢のしどころだ。それ、もうヒトフンバリ !」と頑張った。




www.isseipioneermuseum.com

一世パイオニア資料館

 

   
一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2015