Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
05 - 冬季オリンピック雑感 - 竹村義明

冬季オリンピック雑感 - 竹村義明  

十七日間にわたって繰り広げられた冬の祭典が幕を閉じる2月28日、バンクーバーに向かった。開会式までに街の雰囲気もゆっくり味わいたいと、国境での遅れも勘定に入れて朝早く家を出たが、すべて問題なく十一時ごろに駐車場に入った。BC プレースで午後五時半からの開会式なのに、ダウンタウンへの電車の車窓から入り口へ行列の人並みが見えた。チャイナタウン近くのスタジアムステーションで下車して、尋ねたらその人達は昼から始まるカナダとアメリカの男子アイスホッケーを見に行く人と分かった。その会場の Canada プレースはBC プレースのすぐ隣にある。星条旗を体に巻きつけたアメリカ応援の若者もいたが、殆どは「カナダひいき」で、歩きながらも試合まがいの声援を揚げ、旗を振り、すでに熱気があふれていた。道端には顔の頬や額にかえでの葉メープル・リーフの模様を絵の具で描くビジネスをしている人もいた。大きな声ではないが、よく聞こえるようにチケットを売ってる人もいた。一枚千ドルから二千弗くらいだったが、あとで聞いた話によると良い席は七千ドルものプレミアムがついていたそうだ。閉会式には早すぎるので、BC コンベンションセンターの近くへ聖火を見に行こうと思いスタジアム駅に着いて驚いた。今まで気付かなかった駅の入り口のサイン「Stadium Station China town 」の横に「体育館 唐人街」と漢字で書いてあったが、なつかしかったのは体の字が昔の「骨ヘンに豊」だったことと唐人街の表示だった。江戸時代の嘉永か安政の時代に舞い戻った感じがした。

雪山と海とスタンレーパークを背景に、もうしばらく燃える聖火を見つめた。開会式で聖火が屋内で灯された直後、そこからランナーが駆け出してここに設置された同型の聖火台にも点灯したのだ。ドイツの女子選手やペルーからの観光者と写真を撮り、その場を引揚げようとした時大きな歓声が挙がった。一対〇、カナダの先制得点だった。昼食を取りに再び唐人街近くの駅にもどった頃、レストランはどこもテレビを見る人で一杯、警備のポリスも窓に顔をくっつけて外から見ていた。得点は二対〇。テレビのない大きなレストランで食事を済まして外に出ると又人の山。得点二対一で試合時間はあと二分あまり。もう勝負は決まったと思って外に出たが、スコアは何と二対二。まだ三時前で閉会式には少し早いがBC プレースに行く事にして入場口まで行ったまではよいが、飲み物は持ち入り禁止といわれて、広場に座り込んでスターバックコーヒーを飲む。側にいた案内をしているユニフォーム姿のきれいなカナダ娘に「Did you see the games? 」と聞いてみた。そしたら「ボランテアの奉仕で野外の受け持ちだから全然見ていない」とさわやかな笑顔。私はそこに、カナダの人たちの誇りとバンクーバーオリンピック成功の秘密を見た。丁度その時、一人の女性が手を振り上げて踊り上がりながら走り出した。つづいてみんなの大きな歓声。カナダが勝ったのだ。延長戦で三対二の勝ち。アイスホッケーはカナダが発祥の地で、国技であり負けるに負けられないゲーム。しかも閉会式を二時間後にひかえての勝利。アメリカには悪いが、五輪開催国の勝利だから、まずはおめでとう。ゲームは白熱の熱戦で歴史に残る名試合となるそうだ。敗れたとはいえ健闘のアメリカは堂々の銀メダル、そんなにしょげないで。Keep your heads up.

スタジアムに入ると、中央の大スクリーンには先程のゲームのハイライトが再映されて、勝利のほとぼりはまだ冷めやらず、ここでも歓声の連続。もしも負けていたら、随分湿りがちな閉会式になったろうと思い、ほっとした。それが勝ったのだから、興奮はいやが上にも盛り上がっていた。席は前から12 段目、アイルから四番と五番でしかもステージに近い良い席だった。左隣二人は移民してきたインド系の青年だった。この町には中国人も多いが、インド系の人達を良く見かける。三万人もいて、カナダ社会に溶け込んであらゆる方面に進出してマイノリティながら目立つ存在だとのことだった。その点、この町には日系人も多い筈だが、ダウンタウンで日本から進出のかなりの数の飲食店の他には存在感を感じないのは淋しい。さすがにオリンピック、思いがけない人に出会う。右隣二人は蒙古モンゴリアからアメリカに来てニューヨークとラスベガスでブティクのお店とジューリー製作をしている二十台のきれいな姉妹だった。アイル席は日本代表のスキー選手の母親。日本選手団が浅田真央旗手を先頭に入場してきた時、携帯で連絡を取りアイル席をさっと立ち、ステップを駆け下りて娘に大きく手を振っていた。

式は開会式と同じく、カナダ首相や五輪会長と共にカナダ先住民族の三名の部族代表が来賓として順次紹介され特別席に着席して始まった。アナウンスメントはいつも英仏両語だった。屋外から再び聖火が運ばれて点灯、開会式には圧力機器の不調で氷柱一本が作動しなかったが、そのままになっていたので修復できなかったのかと思っていたが、開会早々にドラマティカリーに演出して点灯された。

この聖火は去年の秋、オリンピック発祥の地、ギリシャのオリンピアで点火され、それから106日かけて開会式までに首都アテネから空路北極海を越えてカナダ東海岸に到着し、以後リレーされて海山野川町を越えて西海岸西端のこの町に着いたのだ。きれいで見事な舞台装置と観衆参加の演出、選手の入退場、エンタテインメントの数々、歌手たちの熱唱、次期大会開催地ロシア・ソチの参加案内、五輪旗の降下、・・・そして聖火消灯。かくしてオリンピックは終わった。

このたびのオリンピックもドラマに満ち、多くの感激を与えてくれた。大会中に母親をなくしながら悲しみを乗り越えて自己最高のスコアを出して三位に入ったフィギュアースケート選手ジョニー・ローシェットは、閉会式でカナダの旗手だった。アメリカの旗手は今まで北欧の独占だったスキー複合10キロレースで史上初めてアメリカに金メダルをもたらした選手が選ばれた。前夜に大地震に見舞われたチリーは全員急遽帰国して旗はカナダが受け持った。スキーレースのマラソン競技、5万キロレースで優勝候補が最後のホームストレッチで敗れたが、一位で入ってから倒れた選手にかけより祝意を表すスポーツマンシップ。メダルを三つもらってこの大会の寵児となったシアトルのアポロ大野は、スピードスケート500 メートル競技で失格になったが、申し立てをせず審判の判定を受け入れた。オリンピックゲームと他のスポーツ界の違いがここにも見た。待ちに待ったこの晴れ舞台に出ながら、日ごろの訓練の成果を発揮できず、立ち去っていく選手の涙と後姿・・・・・涙を誘う。

フィギュアスケートはどうして話題が多いのだろうか。日本車 TOYOTA をめぐって 隣国アメリカで日本いじめと思える情勢の中で豊田のお膝元から出場の浅田真央と豊田の社員安藤美姫と小塚崇彦は強いプレッシャーの中で演技した。優勝の韓国のキムヨナは韓国唯一人の代表、三人の日本勢を主な相手に孤軍奮闘、少しのミスもなくあざやかなすべりをみせ、それが終って、かつて見せた事のない涙。勝利と安堵の涙。二位の浅田真央も終了後のインタビューで、悔しさの涙か、30秒余りも絶句。戦国時代日本統一の武将織田信長の十七代の末裔 織田信成フィギュアスケーター、世界の檜舞台で七位入賞。21日の日本五輪委員会のレセプションでサインをもらった時、私が「ソチで頑張って下さい」と言ったら「そちは何者じゃ」ではなく「はい、ありがとう」の返事が返ってきた。七位では不満足で悔しかったのだろう。四年後を目指しますとのことだった。銅メダルの高橋大輔も笑顔ながら悔しさが見え隠れしていた。両親は日本からアメリカに来て南加州でおすし屋を経営する16 歳のフィギュアスケーター長洲未来は全米選手権では三位だったのに、晴れの舞台では四位に食い込む実力を出し切っての大活躍。日本からロシアに移り、国籍を変えて出場の元日本人選手もいた。

カナダの金メダルは獲得は最多の14個。ドイツが10個、アメリカとノールウエーが9 個だった。カナダはチームスポーツのアイスホッケーで男女ともに優勝して40数名がメダルをもらうので、金メダルをもらう個人は60人を超える。ロシアは前回の不振のトリノ大会を更に下回る金3 、銀5 、銅7。大会後ただちにロシアの大統領はロシア五輪委員会の会長の辞任を求め、応じなければ罷免の通達を出し、結局は会長辞任で決着した。次期大会の主催国ロシアとしては責任を転嫁して誰かのせいにする苦肉の策か。かつてはスポーツの強かったロシアが今回のカナダの成功を目の前に見て、四年後の大挽回を期す姿勢が見える。オリンピックを「国の名誉にかけて」は分かるが「国の威信にかけて」と深刻には考えてほしくない。

これほどの催しをするには莫大な費用のほかに衆人の協力とが必要だ。施設、主催者、選手がそろっても、オリンピックは開けない。大きな陰の力が必要だ。大会施設や競技会場の内外は勿論、街角にも、駅の構内にも、商店街にも、どこに行ってもボランテアがいて案内や指図をしていた。大会記念誌に小さい文字でぎっしり載っている3200人余りの人が、陰の力、縁の下の力持ちとなった彼等だろう。大会の成功の為、よろこんで無報酬で働くこの人達の姿は、このオリンピックが与えてくれたもう一つのプレゼントだ。パラリンピック(Paralympic)が3月13日から28日まで、同じくバンクーバーで開催される。オリンピックを健常者だけでなく身体障害者にもと、50年前の1960年から始まり、パラリンピックと名づけて夏冬ともにオリンピックに引き続き同時期に同場所で開かれる身障者のスポーツの祭典である。喜ばしい事に、歴史は浅いが歳月とともに彼等に対する理解と協力が高まり、盛んになってきている。今回も又多くの良きカナディアンズのボランテアが、その奉仕精神を発揮して援助の手を差し伸べる事だろう。スポーツは隠れた人間の善意を掘り起こし、人を素直にする。

楓(かえで)やブナ等の木々は枝先に新芽がふくらみ、薄茶褐色から赤茶色に色変わり今にも噴き出しそうだ。暖冬のためか町の公園には既に桜も咲いている。北国カナダにも春はもう、そこまで来ている。伝統と自然をテーマに開催の「バンクーバー2010」は、今ここに終焉する。目を外に向けると、老病死や自然災害のほかに地球規模の環境破壊、公害被害、紛争戦乱、人種偏見、家庭内暴力、貧困と失職、薬物乱用、社会犯罪、個人間の不和と不信などの諸問題が渦巻いている。願わくば、「より早く、より高く、より強く」のオリンピックの精神のごとく、世界の人々が確かな目標と理想を掲げ、それに向かって各人が躍進の一歩を進めねばと思う。

お わ り 

一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2010