Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
07 - 特別展示 - アメリカに渡った日本人と戦争の時代軍日記 - 竹村義明

特別展示 - アメリカに渡った日本人と戦争の時代 - 竹村義明

2010 年 5 月       一世パイオニア資料館    竹村義明

成田空港に近い千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(National Museum of History) で特別展示「アメリカに渡った日本人と戦争の時代」が始まった。三月十三日が初日で来年四月三日まで開催されている。

日系人のアメリカ移民については、日本ではこれまで移民問題の研究者や一部の人を除いて、日本政府からも一般社会からも軽視されてきたが、この度これに焦点を合わせて一年間の長期展示が開かれた事の意義は大きい。

これを企画された博物館関係者が毎夏過去三年にわたって当資料館へ資料収集にこられたこともあって、私と妻は特別招待を受けて訪日した。今は亡き多くの人達の喜びが伝わってきて、展示場の入り口に立った時には胸がつまった。今まで日陰にいた資料が日の当たる場所に出た。大変光栄な事である。

広大なこの博物館には、これまで原始、古代から近代までの「日本に住む日本人」の生活史が展示の中心であり、「外国に出た日本人」は展示の対象にはならなかった。それが、今回、現代を取り扱う第六展示室を開設するに際して、特別記念展示として「アメリカに渡った日本人」が取り上げられる事となった訳だ。アメリカに居留まった日系人と戦時交換船で帰国した日本人が中心となるのだが、立案されてから三年、歴博の原山浩介博士を中心に移民史専攻の大学教授諸氏の研究成果の発表の場であり、見るものすべてに見ごたえがある。1913年(大正2年)愛媛県八幡浜からの漁船による密航船のサンフランシスコ北方への密航失敗物語や激変の1940年代の数々の出来事は興味津々だった。

何と言ってもここは日本の人達を対象とするミュージアムで、来館者の興味を惹くように企画されていて、しかもこのたびの展示では、移民初期の明治時代が欠如しているので、アメリカに住む者としては物足りないところは多いが仕方がない。不満の気持は微塵もない。むしろ、アメリカの日系人をテーマにして、今回この立派な国立の施設でこの種の展示が開かれた事に感謝したい。願わくば今回の展示が誘い水となって、今後多くの人達が一世の奮闘を知って下さる機縁となることを期待する。

国際協力機構(JICA) が海外移住資料館で、5月9日まで2ヶ月間特別展示「移民の暮らし」をしていると言うので横浜まで出掛けてみた。折りよく「よこはまパレード」の日で、降りた駅から資料館のある港までの沿道は人の波だった。入ってすぐ、オレゴンからの日系人に出会った。

この海外移住資料館は5年前にできて、ハワイ、アメリカ、カナダ、ブラジル、ペルーなどに移住した日本人に関する多くの資料が展示されている。然し、南北朝鮮や中国などアジア諸国へ移住した350万人の人達については何もない。圧倒的に資料も多く、スペースも広いのはブラジル関係である。日系ブラジル人の人口は150万人もあり、日本に出稼ぎに来ている人も30万人を超えるそうだ。

アメリカに住んでいると、「日系」と言えばアメリカにいる日系人のことであるが、このたび日本を訪問して感じたことは、日本で使われている「日系」はブラジルからの日系人を意味する事が多い事だった。

国際協力機構(ジャイカ Japan International Cooperation Agency) は、日本政府が戦後作った発展途上国を援助支援するための政府機関であり、中南米移民を送り出す際には経済的な支援をしてきた事、及び移民の歴史も北米などに比べて浅い事も南米の資料の多い理由だろう。昨年暮の「海を渡った花嫁物語」の展示では、ブラジルとアメリカへの花嫁が主題だったが、アメリカの部には戦後の戦争花嫁と言われる人達が取り上げられて、一世時代の写真結婚などは入っていなかった。北米への移民の歴史と年代的に大きな隔たりがあり、歴博と比べると取り扱いの範囲がせまい。アメリカとブラジルを同じレベルで取り扱おうとするところに無理が出ているように思う。

シアトル関係のものがあるという「移民の暮らし」特別展示室に入った。昔の東洋劇場の壁の広告写真、宇和島屋や相模屋菓子店の写真や広告、そのほかにも展示はあるが、一年かかって準備されたというのに、演出はどんなに贔屓目に見てもお粗末だ。折角の機会なのに惜しいと思った。何が足らないのか感動が湧かない。また、伊藤一男氏が一世史執筆の際、参考資料にとシアトルから送った西北部の資料がここに移されているとのことで、是非それを見たいと期待していたが裏切られた。

海外移住資料館は、現在の状態では中途半端ですっきりしない所があり、大きな変革が必要ではないだろうか。それには、二つのやり方が考えられる。設立趣旨に従って、(ジャイカの歴史を考慮して)中国、南北朝鮮と同じくアメリカやカナダを除いて、名称を「中南米移住資料館」と変更するか、又は 従来通り「海外移住資料館」の名称を残すならば、広い視野から世界中の国への日本人移民問題を考えて資料を展示する場にすることだ。

「ヨコハマ」と言う言葉は懐かしい響きを持っていて、「ヨコハマ」と聞くと言い表しがたいセンチメンタルな気持ちになる。飛行機のない昔、釜山や上海は別として、日本を離れる時に最後の一歩を踏みしめるのは横浜、日本に帰って最初に一歩を踏み入れるのも横浜だ。日本人の海外移民のシンボルとなる港町だ。大桟橋も見える理想的な場所に位置し、また日本郵船シアトル線に就航していた氷川丸も近くにある海外移民資料館が名実共に海外移民の歴史を語る殿堂となることを願うや切。

4月25日、京都北野天満宮の月例の門前市で嘉永年間の銀札売買控帳を見つけた。ペリー提督の率いる黒船が浦賀沖に来航したのが嘉永6年(1854年)で、翌年の嘉永7年(安政元年)にペリーが再び来航した際に日米間の最初の条約、日米和親条約(神奈川条約)が結ばれた。表紙に嘉永の年号が入っている和紙の綴じ込み筆書きの分厚い帳簿は掘り出し物だった。印刷技術の進歩しているアメリカでは想像もできないほどの「世界から取り残された国」を象徴するような帳簿である。黒船の大砲を見て、幕府の役人は大砲に見せかけるために浜辺に梵鐘を並べたのはウソのようで本当の話らしい。

翌日、私は彦根城に行って井伊直弼の御殿を参観し、国宝の彦根屏風をじっくりと拝見した。日米和親条約から四年後の安政5 年(1858年)、幕府の大老に就任した井伊直弼は勅許を待たずに日米修好通商条約を結び、批准されたのは二年後の安政7年(1860年)だった。今から丁度150年前のことである。ワシントンでの条約批准書交換のため遣米使節団一行がアメリカに向かっていた3月3日、開国の立役者直弼は江戸城桜田門外で刺殺され、年号は万延元年と変わった。その時の彦根の驚きと悲しみが150 年の時を超えて伝わってきた。

彦根から4マイル離れた我家の洋間に、以前はずっと座敷にかざってあった大きな額2枚が残っていた。洋服姿の祖父母と着物姿の曾祖父母の写真だが、このたびアメリカに持って帰ろうと裏打ちを剥がして驚いた。写真との間からは3点の宝物、1902年 Great Northern Railway の時間表、大正7年の京都地図、アメリカの農園での収穫風景の写真が出てきた。

1902年(明治35年)の大北鉄道の西海岸から東海岸までの発着時間がくまなく書かれている折りたたみ式時間表(16X40 インチ)は、祖父が1898年から1902年頃までモンタナ州ミゾラで鉄道線路敷設の工事現場で働いていたから、祖父の所持品にちがいない。大正7 年(1918年)の大版の京都地図(21X31)も折りたたみだが、その地図の端に1913年に学校に行くために日本に来て、当時11 歳だった母が自分の名前を書き入れている。農場の写真は古ぼけて変色しているが、日本人の体つきの若者数人が大きな麻袋に詰め込んだポテトを積み重ねて貯蔵しているものである。これを再生する方法があれば、はっきりと祖父が見えるかも知れない。同じ写真が2枚もある上、前の方で一人だけカメラの方を見て立っているので、それが祖父だろう。モンタナから1902年にオーバンに来たというから、100年前のワシントン州ホワイトリバーの農場風景らしいが、そのポテトサックの数と大きさ、広々とした畑、みんな帽子をかぶり、揃いの仕事着を着て働く人達の姿を見た村人は、アメリカの大規模な農業に驚いたに違いない。

京都よりも古い日本最初の都、奈良の平城京に行った。西ノ京駅を下りたら、 平城京遷都1300年の催しを見に来る人の案内と交通整理をする係員が、会場まで要所要所に立って手際よくさばいていた。奈良平城京跡は大極殿、朱雀門などの復元が進んでいて、また次に来る時が楽しみだ。敷地の広大さに驚き、天平人の大らかさを感じた。天平の貸し衣装をまとい闊歩する娘達を見ながら感じたのは、当時の日本は後進国で、大和人はシナ(中国)を憬れていたということだった。

奈良では後日、橿原神宮にも参拝した。平城京よりももっと古い神代時代の神武天皇が祭神である。戦前や戦中にはもてはやされたお宮だ。大きな多賀大社より、まだ十倍も大きい立派なお宮だ。現代日本人は神武天皇を歴史上の人物と思っているのだろうか。

奈良から京都に都が移った時の天皇、桓武天皇をお祭りする平安神宮にも行った。近くの勧業会館(都メッセ)では古本市と日本刀即売会を見た。西本願寺にお参りして国際部にあいさつに行ったら、桐林部長の配慮で本願寺新報の5月20日号の記事のインタビューを受けた。日本滞在二週間は日の経つのが早く、忙しかった。岐阜の飛騨高山と下呂温泉、広島とカープの野球観戦、名古屋と市内散策などで出てばかりで、家にいる日は少なかったが、隣村へ行って1897年に祖父がカナダに渡航する時の斡旋と世話をした人の家をお訪ねして、ご家族に会い昔の写真を見せてもらった。結局、家では墓参りと玄関の草取りをしただけだった。

今までは、感じなかったことだが、最近は日本を離れる時に「これが最後かも」という思いがする。「年のせい」である。名古屋で買い物をして買い物袋を地下鉄の駅のベンチに置き忘れ、気がついて名古屋JR 駅から電話したら、「あります」とのことで引き返した。近年の日本は昔と違ってモラルも下がり犯罪も多いということだから、見つからないとあきらめていたのに「わが故郷」はまだ大丈夫。 いい思い出をまた一つありがとう。隣家から土産にもらって帰った煮物「山椒の葉と実」の味と共にほのかな香りがまだ残っている。 お わ り

   このたびの訪日の際、「日本の米国日系移民研究者」に
   これから して欲しいと思ったこと MAY 2010

日本に戦前に引揚げた出稼ぎ日本人の研究や報告書が少なく皆無に近い。然し、これは日本で日本の研究者のできる課題と考える。

調査研究の内容としては

   
渡米理由(出稼ぎ、勉学、政治的理由、商売)渡航資金の調達、
   
年齢、職業、家族構成、既婚・独身、学歴、出身地
   
渡米の方法(合法、非合法)、上陸地
   
アメリカでの生活、仕事の種類、在米年数
   
帰国年月、帰国後の生活および仕事

    戦前に引揚げ帰国者

      静岡、和歌山、滋賀のアメリカ村(正確には多くはカナダ村)
      
広島、熊本、山口、福岡、兵庫、愛媛八幡浜、和歌山など
      
親元・故国への送金 (出稼ぎ移民で永住移民でないから)
        
その額は。。。。調査方法はあるか。
      
現在、メキシコ人の故国送金額はメキシコの総輸出額を超える。

    渡米日本人を永住者と引き揚げ者に区分すると、引き揚げ者が圧倒的に多
   
く居留民はわずか。アメリカへの入国者数と日本への帰国者数の比較をす
   
れば分かる。外務省資料を参考、または日本郵船乗客数の情報。

帰国者で現在なお生存する人は極めて少なく、文書に記録された資料を使っての研究となる。しかし、前述のいわゆる「アメリカ村」などは現在でも一定の調査は可能であり、新しい成果が期待できるのではないだろうか。 以上

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