Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
08 - 太平洋戦線の二世兵士 - 65年前の夏の出来事 - 竹村義明

太平洋戦線の二世兵士 - 65年前の夏の出来事 - 竹村義明

2010 年 11 月       北米ワシントン州    竹村義明

三年八ヶ月続いた日米戦争は、1945年8月15日、日本のポツダム宣言の受託と無条件降伏で終わりを告げた。天皇陛下の玉音放送はラジオを通じて日本内地の津々浦々に流され、外地にいる日本軍隊も前線でこの知らせを受けた。

今から50年ほど前、1961年から65年まで私はアイダホ州境に近いオレゴン州オンタリオにある仏教会に赴任した。オレゴンのもう一つの仏教会は西端のポートランドにあり、砂本博さんはそこの幹部メンバーだった。静かな物腰、にこやかな話し振り、それと日本人の平均以上の背丈と体格が印象に残る。その砂本博さんの弟がこの話の主人公の砂本悟トニー(Satoru Tony Sunamoto)である。

砂本トニーは1915年7月.ワシントン州ベンブリッジ島ポートブレークリーで出生した。父親は広島県己斐町出身の砂本与三、1904年6月ハワイに渡航し、同年12月にシアトルに転航し、直ちにオレゴンのポートランドに入り、その周辺各地で6年間農園に就労した。1910年にワシントン州ベンブリッジに来て、イチゴ栽培を始めた。1911年に妻せんを日本から迎えて、10年間ベンブリッジ島でイチゴ作りを続けた。ここで三人の息子に恵まれたが、1918年に母親せんが息子三人を勉学のために日本に連れて行き、祖父母に育ててもらうことにした。与三夫婦は、それからオレゴン州ヒルスボロに移り、そこでもイチゴ栽培を続けた。

砂本トニーは1918年、三歳の時に兄(宗男と博)と共に、広島市己斐〔こい〕町の祖父母の許に預けられて、13年間日本にいて地元の学校に通った。そして、1931年15歳の時に中学校を中退して、兄の博と帰米した。典型的な帰米二世だった。父親のイチゴ栽培を手伝うことになるが、英語ができないので英語を習うために、アメリカに帰ってからすぐに近くの小学校に入れてもらって小さい子供と机を並べて勉強した。英語の習得も順調で進級は早く、年の若いこともあって二、三年で両刀使いになり、1938年バンクスハイスクールを卒業した。兄と共に父のイチゴつくりを手伝った。耕作、出荷、販売のほか、トラックターや農機具の整備と修理など忙しかった。

1941年12月に日米戦争が始まり、砂本ファミリーは、日系人なるが故に苛酷な人種偏見と戦時ヒステリアの嵐の中で、太平洋沿岸四州〈カリフォルニア、ワシントン、オレゴン、アリゾナ〉の軍事区域から立ち退きを強いられ、1942年5月収穫真っ盛りのイチゴ畑を残したまま、ポートランドのアセンブセンター集合所に入れられた。今までは郡の農産物共進会々場(county fairground)が臨時の収容所となった。二ヶ月ほどしてそこから次は遠いアイダホ州ミネドカの転住所(日系人収容所 Minidoka Relocation Center)に強制収容 (forced evacuation) された。全米10ヶ所の一つである。

砂本家の長男博は、軍事区域をはずれたオレゴン州東端のオンタリオ市近辺に立ち退きして、ポテトとシュガービーツ (砂糖大根) を作ることにしたので、収容所には来なかった。残りの一家六人は、長男のように自由立ち退き (voluntary evacuation) する決心もつかず、とうとう砂漠の中に急造された収容所に送られて、コールタール紙を外壁に貼った粗末なバラックの中に住むことになった。ここには、ポートランドやシアトルなど、オレゴンとワシントン州の各地から一万三千人もの日系人が集まり、急にアイダホ州第八番目の大きな町になった。砂本一家も身の安全と生活の保証を知り、苦しいながらも少しずつ新しい環境に順応して行ったが、トニーにとっては退屈な毎日だった。

1943年1月に、二世部隊を編成するプランが立てられ、政府はハワイの島々や本土の日系人収容所の若者に呼びかけて志願兵を募集し始めた。又、転住所での忠誠登録の際に「命令されれば如何なるところでも戦闘に就く」と答えた者の中から徴兵が始まり、二月中頃から他からの志願者と共にミシシッピーのキャンプ・シェルビーで訓練を開始した。すでに入隊していた日系兵士は、日系人であるが故に所属部隊によっては開戦と同時に除隊になったり、除隊をすすめられたりしたが、そのまま同じ部隊に居留まって西部沿岸の軍事区域から離れた内陸部へ移されていた兵士もここに集まった。
  
忠誠登録の後、トニーはすぐに陸軍に志願した。何故か、ミネドカからは他の転住所九ヶ所のどこよりも志願者が多かった。1943年3月、ミネドカを出て、ミシシッピー州のキャンプ・シェルビーの陸軍錬兵場に入隊すると、ただちに新しく編成された陸軍第442戦闘部隊,歩兵中隊「H」(US Army 442nd Regimental Combat Team, Company H) に配属され、「Pfc. Sunamoto」「プライベート ファーストクラス スナモト 砂本一等兵」になった。入隊した二世兵士は、三、四ヶ月の訓練が終わると、ナチスドイツと戦うためにヨーロッパのイタリヤとフランス戦線に送られた。有名な442部隊 である。

しかし、時を同じくして日系兵士を太平洋戦線で情報兵とする計画が立てられた。そして日本語の強い者はミネソタのキャンプ・サーベ ッジ (Camp Savage) に送って、情報兵 MIS (Military Intelligence Service) の養成訓練を受けさせることになり、トニーはキャンプ・シェルビー兵営に入隊して間もなくの1943年7月にミネソタに移された。ヨーロッパに行くと思っていたのに、フルサトとも云える日本と戦うことになってしまって、彼の心の葛藤はいかばかりであったろうか。

ミネソタ情報兵訓練所の語学校 (MISLS) で、砂本は30週〔7ヶ月〕の訓練を受けた。自由に日本語の会話は勿論のこと、読み書きも出来る帰米青年の彼には指導は順調に進み、彼は1944年早春、卒業するといち早く米軍の反撃が軌道に乗る太平洋戦線に送られた。この度は、海軍の海兵隊附属になり、階級は軍曹で「Sgt. Sunamoto サージェント スナモト」( 翻訳が任務なので、正確には Technical Sergeant 技術軍曹)となった。部隊によっては、日系情報兵は剣〔ナイフ〕と手榴弾〈グレネード〉のみの装備で、側には常に情報兵を護衛する完全装備のボディーガードが、味方の誤認による誤射と敵からの攻撃から守るため付き添ったが、砂本もそうだったのだろうか。前線に行きながらも、日系兵士にはライフルや機関銃などの銃器を持たせなかったのは、まだ完全に日系兵士を信頼していなかったからだろう。暗号や無電の解読、心理作戦文や捕獲文書の翻訳、捕虜尋問の通訳などが主な任務だったが、勿論前線にも出て作戦に参加した。

太平洋戦線での二世情報兵士は Yankee-Samurai と呼ばれている。Go for Broke を合言葉としたヨーロッパ戦線での442部隊の活躍は新聞、雑誌、本、映画などで頻繁に報道されたが、太平洋戦線での MIS のことは、トルーマン大統領がいう如く“このたびの戦争の秘密兵器”であり、戦争が終わるまでその存在は外部には一切知らされなかった。しかし、MIS の活躍は高く評価され、マッカーサー元帥司令部は、「この度の戦争は、彼等の貢献により少なくとも二年縮まった」と回顧している。

1945年8月、中部太平洋マーシャル群島の小島ミレー MILI には、警備隊指令志賀正成海軍大佐 (Navy Captain Masanari Shiga) 指揮の下、日本軍守備隊2500名が駐在していた。島は南北1.5キロ、東西2.1キロの小島ながらも開戦初期には三菱のゼロ戦闘機や爆撃機の飛行場もあり、さんご礁の島々でできているマーシャル群島の中でも重要な日本軍の拠点で、最初は5700人の日本兵が駐在していた。しかし、度重なる米軍の空襲のほかに疾病や飢餓のために戦争末期には半分に減っていた。1944年2月、マーシャル群島の中心のマジュロ島を攻略して艦船の停泊地と飛行場を確保した米軍は、戦略を飛び石攻撃作戦(蛙跳び作戦)に切り替えて、武器や食糧の補給路の絶たれたミレー島の掃蕩をせずに自滅を待ち、日本本土に近いサイパン島や硫黄島に攻撃目標を向けたので、終戦までミレー島は取り残された形となっていた。1945年8月、日本の無条件降伏の通知を受け、島に立てこもる日本軍に対する武装解除と降伏の通告の伝達が行われる事になった。

戦争は終わったといっても、昨日までは睨み合った相手陣地への乗り込みであり、米軍代表が決まらない中、砂本トニーは自らこの役を買って出て、ただ一人、軍使として日本兵の死守する島に決死の覚悟で乗り込んだ。降伏説得と武装解除の重要使命を帯びていた。日本人の顔をしたアメリカ兵を見た日本側は自分の目を疑ったことだろう。

珊瑚礁でできている島なので農作物は出来ず、ココナッツが主な産物であり、その上、1943年暮から日本や外部からの補給路が完全に絶たれたため、極端な物資と食料不足に悩まされて飢餓と栄養失調で苦しむ兵士が続出した。蛇や蛙さえ島から消えた。わずかな食料と精神力でやっと生き延びている状態だった。とはいえ、叩き込まれた戦陣訓の「生きて捕囚の辱めを受けず」を誓う日本軍人にとり、勧告の受託は容易ではなかった。 戦争末期には、最後の交戦を挑まんとする日本軍は、戦況の悪い太平洋の島々で、刀折れ矢尽きた日本兵が万歳と共に銃剣を振り上げて決死の突撃を敢行していた。砂本は、それを恐れた。

「戦争が終わっているから、降伏でもないし、捕虜でもない」と砂本流の解釈で説得を進めた。「戦争の終わった今、2500人の命を無駄にするな」と涙と共に指揮官に訴えた。 それは、同じ日本人の血を持つ者同志というよりも、一人の男と男、サムライとサムライの対面だった。天皇の玉音放送で戦いの終わった今、「戦う事の無駄と2500名の部下を一刻も早く故郷に帰して」と必死で訴える砂本の説得が功を奏した。「承托」の答えを聞いて、砂本の目に涙があふれた。

島の高台に日章旗に代わって赤十字の旗がはためいた。最悪のシナリオの日本軍との交戦がなくなり、米軍の犠牲も避けられた。幼少年期の13年間を日本で暮らした砂本にとって、運命的な戦争により敵味方に分かれて闘わねばならなかったことが悲しかったが、自分と同じ血を持つ日本人の命を救えた事が、この上もなくうれしかった。無駄死は避けたいアメリカ側の願いもかなって、米軍戦友の犠牲もなく済んで、軍使に選ばれた事を感謝した。志賀・砂本会談がすんで数日後、8月22日、アメリカ代表団と日本軍との正式文書の調印式が行われた。この度の戦争終結後、日本軍最初の降伏文書の調印であった。

日本兵は日本に復員帰還したが、指揮官の志賀大佐は別の島 MAJURO (マジュロ島)に移され、部下による墜落機から脱出のアメリカの飛行士捕虜五名殺害の罪を問われた。志賀は、トニーが育った広島己斐に近い江田島にある海軍兵学校出身だった。「命令は私が出した。責任はすべて私にあり、部下にはない。」と部下をかばい、彼は潔く自決した。通訳を務めた砂本は、断腸の思いだった。最後の別れの時、志賀大佐は自分の愛刀を砂本にもらってくれと手渡した。取調べを受けた部下十一人は、その後全員無事日本に帰った。

砂本トニーは戦後1946年1月に除隊し、ハワイ出身の二世女性と結婚してハワイに移ったが、部下を思って自分の願いを聞いてくれた志賀大佐の軍刀〔サムライ古刀〕は、ずっと部屋の神棚に供えていた。運悪く病いに冒され、1948年6月、砂本は33歳の若さで、妻(すえの、アメリカ名 Jessie)と娘〔Shirley 生後+ヶ月〕を残して病死した。

父親の砂本与三は、「遺族に返してほしい」と病床で云った息子の言葉の通り、武士の魂といわれる刀を遺族に返したいと遺族をやっと探し出して、それを返還するため訪日した。交通公社大阪本社で志賀大佐の妻(延 和歌山少年院教官、5児の母)と中学生の息子(正延)に会って形見の品を無事返還した。志賀大佐が砂本に渡した軍刀は、妻の手にしっかりと握り締められた。

先月10月下旬、オレゴン州ヒルスボーロの私の叔母が亡くなったので、ポートランド仏教会に行った。葬儀の後のお斎で、思いがけず砂本博さんの次男に会った。初対面だったが、「叔父さんのことを聞きたい」と言ったら、開口一番「He is a hero.」と彼は云った。50年前、彼の父の言った言葉と同じ言葉を聞いて「やはり、トニーは立派な人だったのだ」 という思いがこみ上げた。「叔母は亡くなったが、娘がコロラドのデンバーにいます」と名前と電話番号を教えてくれた。何時か是非、トニーの娘さんにお会いしたい気持がしてきた。

1945年〔昭和20年〕今から65年前の夏、太平洋の小島で起った歴史の一幕の今昔物語である。 お わ り (www.isseipioneermuseum.com)


左 左より四人目、砂本トニー 於キャンプ・サベッジ
中 砂本トニー・椅子に座り翻訳
右 父親訪日して遺族に軍刀を返還

一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2010