Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
16 - 小吹ストーリー
         
 

  小吹 実 フランク   FRANK MINORU KOBUKI

1908年(明治41年)7 月10日、ワシントン州オーバン市の郊外クリストファーの片田舎で生まれた。Dr. J. Sato が出産に立ち会った。父親、小吹幸太郎(こぶきこうたろう)の本籍は広島県佐伯郡湯木村下麦谷で、長男の実が生まれた時は34歳だった。渡米した年は不明だが、ケントの白人のナーセリーで働いていた。オーバンとケントの間にあるクリストファーはホワイトリバー(白河)平原といわれる所で、1905年頃から日本人移民が入って、野菜、ストロベリー、牧畜などに従事して開けてきた土地である。

母親、小吹(前田)ヨシノ(こぶきよしの)は広島県安佐郡久村の出身でである。渡米は1907年ごろで、当時多かった写真結婚かもしれない。実(みのる)は初めての子供であり、大事にしたが育児と仕事に忙しかった。

実(みのる)が2歳になった1910年(明治43年)、日本に帰る人に頼んで実を日本に連れて行ってもらった。横浜の港へ母の姉(ヨシノの姉クマ)が迎えに来たが、実(みのる)が「ママ ママ」と言うが、それはお腹がすいてるのかと思ったらしい。可愛い盛りのを手離すのはつらかったが、日本で教育を受けさそうと割り切った。  

アメリカでは兄弟が三人(米雄、松子、悟)が次々と生まれた。実(みのる)は就学年齢になり、近くの学校に通い始めた。

1918年、「母死す」の知らせがアメリカから来た。母ヨシノは四男ヨシヲを出産後、 流行性感冒にかかり、入院して50 日目に死去した。当時、スパニッシュフルー(スペイン風邪)が大流行で、患者が多くてケントの病院は廊下にも患者があふれていたそうだ。母親は年わずか30歳半ばで亡くなってしまった。実が10歳の時だった。(ホワイトリバー過去帳かキング郡役所の記録)二才の時に日本に来たので、母親とそれから会っていなかったが、いつか会えると思っていたから、もういなくなったと思うと悲しかった。

妻が亡くなったので幸太郎は四人の子供を日本に連れて帰り、幸太郎の兄小吹彦太郎と妻クマに預けた。そして、ベビーのヨシヲは里子に預けた。幸太郎はシアトルに帰り、その後子供らの養育費を日本に送金していたが、米雄、松子、悟の三人が三年くらいの間に相継いで死去した。実(みのる)は学校に通い、叔父の農作業を手伝っていたが、アメリカに帰る日が来た。  

実は1927年、19歳になり徴兵検査が近づいてきたことと、父親が帰ってこいと言ってきたこともあり再渡米することになった。17年暮らした広島から横浜に出て、伊予丸で16 年振りにシアトルに上陸した。ベビーの時に日本へ行ったので、アメリカは初めてのようなものだった。九年ぶりに父と再会した。

父親の幸太郎は、シアトルを東に70 マイル行きキャスケード山脈のスノーコラミイ峠を越えたところにあるレークケチェス(Lake Kechess)でホテルを経営する白人夫婦のクレアラム (Cle Elum) の40 エーカーの敷地にある豪邸で働いていた。主人は犬が好きで、ペットに高価な犬を何種類も飼っていたし、ミセスは花が大すきで、大きなフラワーガーデンがあった。

父親の所に来てから、実(みのる)は父の仕事を手伝っていたが、その時、ミセスが FRANK フランキと言う名前をつけてくれた。三ヶ月ほどして、オーバン郊外のタマスの田中亀九郎さんの畑仕事があるというので、ホワイトリバーに移った。英語を習った方がよいからと、少しのあいだ英語を習いに近くの学校に行ったが10歳くらいも違う小さい子供と一緒だった。そのクラスには実の他に帰米二世も四人居た。タマスの白河仏教会にも出入りした。竹村義諒開教使にもらったお数珠をずっと持っていた。 

父親の幸太郎の働いていた主人の Mr. Canrun がホテルの雪解けのアクシデントで急死され、Mrs May Canrun はケントに家を買って移られた。 実(みのる)は、サウスパークの浜本さんの農場(豚の飼育と野菜栽培)で仕事をすることになったが、父親の幸太郎はその後、シアトルの藤井ホテルに移り、シアトルで仕事をしたり、サウスパークにも来たり、自由な生活をしていた。

 

  小吹春子(旧姓 市山)  HARUKO KOBUKI

春子は1919 年1 月31 日 加州リードレー(Reedley, California) にて生まれた。リードレーはフレスノの東南30 マイルで、フルーツやブドウの栽培で全米にしられるサンオキン平原にある。

父、市山友二郎(いちやまともじろう)は広島県山県郡加計町三石出身で、渡米年は不明だが、サンフランシスコに上陸した。渡米後はフレスノやリードレーでぶどう農園で働いていた。1912 年、友二郎は隣村の市山オキシ(いちやまおきし)と写真結婚をして、日本から呼び寄せた。オキシは、話がきまってからアメリカに来るまで、入籍して友二郎の親の家に住んでいた。渡米してから子供ができるまで、夫婦共働きをした。春子が生まれる前に、男の子が生まれたが、生後まもなく死亡した。

1920年(大正9 年)、日本に引揚げることにして一家そろって帰国した。

母親はアメリカに8 年住んでいたそうだ。

春子が両親と共に日本に行ったのは一歳の時だった。広島県山県郡加計町三石。 日本に帰ってから弟も二人できて親子五人で幸せな生活だったが、13 歳の時に父親が亡くなった。

数え年1 7歳の時縁談が持上がる。満16 歳になったばかりである。互いの親戚の間で小吹実さんとの結婚話が出たが、その頃は日米間の移民問題が複雑で、アメリカ国籍でないと日本からは渡米できない時期だった。双方見たことのない者同志の写真結婚である。出生証明書をさがし、準備が整った。 1935 年5 月平安丸で渡米することになった。(横浜では熊本屋旅館に泊まった)

春子は行きたかったが、母は反対だった(やりたくなかった、行くなと泣いた)若い娘を遠くにやるのが悲しかったのか、それとも自分がアメリカで昔味わった苦しみを思ったのか。しかし、メリヤス足袋工場を持って、やり手の叔父は「アメリカには一人でも行かないと」と賛成だった。

実(みのる)の家の庭先で嫁入り姿で写真をとり、すぐその足で横浜へ行った。(写真あり)小吹、市山の両方の母親が横浜まで見送りに来てくれた。2 週間の船旅のあとシアトルに上陸したが、記録を調べる理由でシアトルの日本人町の近くにある移民館に6 日間閉じ込められた。そこに、日本人の安武移民官がいた。

 

  結 婚 生 活     Haruko and Minoru

実(みのる)のいた浜本さんの農場で二人の生活は始まった。そこで一年働いた。

1936 ・11・10 サウスパークのイタリア人パッチ・マアレスさんの畑6 エーカーをリースすることにして、日本から来たスクールボーイやフィリピン人もやとった。知人の米山さんのご主人がなくなったので、その後を引き継いでリースして1942 年まで耕作し、レタスを栽培した。土地はよく肥えていた。この冬は大雪だった。

「アメリカには金のなる木はない。共に働いてくれるならこい。」と結婚前に実(みのる)は言っていたが、若かった事もあるが、二人ともよく働いた。おかげで丈夫な体になった。

1938 ・1・1 ツインの邦男フランク(Kunio Frank)と正男ジミー(Masao Jimmie)が生まれる。上野産婆さん宅で生まれた。ジミーが弱くて手が掛かった。

1941・12・7  日米戦争が始まる おどろき

1942 年2 月 日系人強制立ち退きの大統領令が出る。

1942 年5 月1 日 ペアラップ集合所アセンブリーセンターに入った。

      レタスは葉は収穫間際できつく巻いて金になるばかりで残念だった  

      が、強制立ち退きは容赦なく執行された。

      ボスは立ち退き前に「あげないと悪いと思ったのでしょう。わずか

      ではあるがくれた。1,000 ドル。」

      一家は持っていたツラックでペアラップのバラックA に入った。

      「トラックは40 ドルでシティに売りました。」

 「立ち退きが決まってから、家の荷物をどうしたらよいかと思案の末、 Tukwila で養鶏を営む白人に預かってもらう事にしました。畑の肥やしに使うために、鶏糞を分けてもらっていた方です。洗濯機、ラジオ、ソーイ  ングミシンなど色々、気持ちよく預かって下さいました。ツールレークのキャンプに落ち着いた頃に、送ってくださいませんかと連絡したら、早速親切に全部送って頂きました。本当に良い方々でご親切は何時までも忘れません。キャンプに入る時、二束三文で売った人もありますし、預けた品物を全部なくされた人も多かったと聞いていますが、私達はありがたいことでした。」

1942 年6 月27 日 小吹幸太郎ペアロップの Assembly Center で心臓麻痺で死去。

      享年68 歳。 寺尾開教使が司式して、タコマの葬儀社が世話をし

      てキャンプで葬儀。入所した時、最初は別々だったが、一緒にして

      呉れとツランスファーを頼んだら許可されたので、50日ほど一緒   

      に暮らすことができた。それからしばらくして亡くなったが、実

      (みのる)は父親との縁が薄かったので、しばらくでも一緒に生活で

      きてよかったと思った。

サウスパークの土地はシティリミット境界線が違うのでパインデールに行かずにペアラップ集合所(Puyallup Assembly Center) に入った。ホワイトリバーの人達はカリフォルニアのパインデール集合所(Pinedale Assembly Center) に送られた。しばらくして、アイダホ州のミネドカ転住所に行くようになったが、友達がパインデールからツールレークに行かれたので、ペアラップから50 人くらいボランテアして汽車でツールレーク転住所(Tule Lake Assemble Center) に行った。

ツールレーキ収容所は、砂漠の中にあって、周囲はバッブワイヤーがはりめぐらされて、見張りやぐらには銃を持ち鉄兜を被ったた兵隊が警備に当たっていたが、収容されている日本人に危害を加える事は全くなくて、身の危険を感じたことは一度もなかった。小吹一家はバラックハウスの大部屋ワンルームをもらって入居した。 ここには、一万二千人もの日本人が入ったが、事務所、憲兵詰め所のほかに、学校(保育園、幼稚園、小中高)病院、消防署、郵便局、協同売店、野球場、仏教会、水泳プール、野菜農園もあった。また40余りの各ブロックには、食堂、共同トイレとシャワー、レクリエーションホールがついていた。

1942 年11 月19 日に 勝 ローイ(Masaru Roy)、1944 年4 月22 日に 博 ジャニー(Hiroshi Johnny)が産まれた。病院の医者も看護婦も日本人だった。

日本国籍の人ばかりでなくて、アメリカの市民権を持っている人まで強制立ち退きさせたことは、たしかに間違っている。しかし、住む場所を与えられ、豊富な食べ物を無料で支給されて生活には何の心配もなくて、三年半のこの収容所生活は苦しいと感じたことはなくて、楽しいものだった。アメリカ政府は衣服代として一人に毎月三ドル呉れた。入所時に持って入ったお金もあるので、ちょっとした必要な日常品は、コーアップ購買部のストアで買った。

春子は子育てに忙しかったが、暇を見つけて、編み物クラスに通って子守の間に編み物をした。収容所はとても広く、食堂で使う野菜のほとんどを農園でつくっていたが、実(みのる)は得意の野菜作りはせずに、食堂(メスホール)の皿洗いをした。ブロックの住民250 人くらいの三度の食事があるので忙しかった。給料は月給十六ドルもらっていた。帰ってからはいつも子守をしてくれた。

アメリカ政府のやり方が悪いと言う人と日本びいきの人が多くて、騒動は絶えなかった。そんな人達は、毎朝「ワッショイ ワッショイ」と掛け声を上げて、「報国」の白鉢巻で走っておられた。中には、ノースダコタの北ダコタのビスマルクにある司法省の収容所に送られた人もあった。実(フランク)は、帰米で日本と戦争がはじまったことをとても残念に思っていたが、「日本組」の行事や運動には参加しなかった。 忠誠登録の時に、実(みのる)は「ノー・ノー」組ではなかったが、戦争がおわったら日本に帰りたいと思っていたので、最後までここにいた。

ツールレーク転住所での三つのエピソード。

     1. 子供の靴がほしくてキャンプの売店にはないので、シカゴのシアースローバックに     メールオーダーでサイズ13 を注文したが、届いたのは大きな大人のシューズだっ       た。こちらのミスか店のミスか?

     2. パパが子供(三男のローイ)を乳母車に乗せてベースボールを観に行った。試合に     夢中になって、「ベビーさんが落ちて泣いてるよ」と言われてフランクは大びっく      り。幸い子供にケガもなし。

     3. キャンプの外側にドイツ系人の大きな麦畑がある。春先には沢山の雁   

     (ギース)がやってくる。ショットガンに撃たれた一羽がフェンスのこち 

     ら側に落ちてきた。その日の夕食は早速焼き鳥にして隣のファミリーと

     天から降ってきた思いがけないご馳走に舌鼓(したづつみ)。

1945 年8 月14 日、太平洋戦争が終わった。実(フランク)は日本の小吹家を継ぐため、日本に帰ろうかと迷ったが、国際赤十字を通じて日本の親戚へ「日本に帰ろうか、どうしようか」と手紙を出したが、「今はまだ帰るな」と返事が来たので、アメリカに居留まる事に決めた。キャンプから、次々と出て行かれたが、自分には住む家がないので、どこへ行こうかと思案しているうちに半年が過ぎた。

1946年2月10日 ツールレーク キャンプ出る。汽車でシアトルに帰り、サウスパークの実(みのる)の従兄弟石井初美さん宅に三ヶ月世話になった。

1946 年7 月イタリア人マイク デロレンゾから farm house を、もらって、そこで働くことにして、実(フランク)はモンスペイ(月給)で働き、春子はアワー働きで75セントアワーで辛抱して、二人でよく働いた。ジミーは郡役所の女性の方が家に来て色々と聞かれ、学校に行くようになった。足が少し不自由なため、イエロータキシーが18 歳で卒業するまで家に送迎していただきありがたかった。

戦後 日本へ砂糖など慰問荷物を送った、隣がうらやましがると日本から手紙。

   隣家の人「アメリカに親類があってよいなあ」

1952 年11・20 戦前リースしてい畑の持ち主パッチ マアレスさんから私らに土地を売ってあげると云われ、全部は買えないので友達の平野さんと Cash で土地を購入した。

ミスター小吹はスピニッチ作りに専念し、ミセス小吹は、1954 年からバッファローワビンカンパニーに勤めて wiper 作りの仕事をし、その会社に62 歳まで28 年働いた。会社はチームスターユニオン労働組のためペイは安く、ボスはジューで給料は上げてくれなかったがリタイヤメントのベネフィットを約束通りくれてありがたい。今でも大きな恩恵をうけている。

1957 年 自宅の前にパシフィック ハイウエーができることになり、土地の一部が政府の買い上げになることになった。家をムーブすることになり、同時に新しくベースメントを作る事にして、今西ポールさんに工事一切を頼んだ。

1957 年に22 年振りに春子、ハワイ経由日航機で羽田。母、弟二人も元気。

    東京に母、弟2 人、従兄弟5 人迎えに来た。母親は1980 年に88 歳で死

    去したので、このときが最後となった。

実(みのる)は、クリスマス前日の1957 ・12 ・24 友人が「求人広告があるから行って見なさい。」と言われて申し込んだが、すぐ採用された。それから以後17 年間、Olympic Hotel のhousekeeping デパートメントで働いた。酒タバコをやらず、自分は英語ができないからとまじめに働き、Dependable Trusted employee だった。Mrs. Thompson に信用され17 年働いて1974 年にリタイヤーするときには特別表彰された。1971 年には春子、ジミーも一緒にオリンピックホテルの費用持ちで加州、ラスベガス、グランドキャニオン旅行をした。

    1964   東京オリンピックの年に訪日 

    1973   二人で日本旅行

    1974   ニューヨークツアー 帰途トロントの実のいとこ佐々木みどり  

         さんと会う

    1977   二人でメリー藤田ツアー マイアミ・カリビアン船旅

    1979   二人で護持会ハワイ旅行 帰りに春子の弟正人LA に観光で 

         来ていたので、実は迎えに行きシアトルにつれて来た。

    1980   メリー藤田ツアー メキシコユカタン半島の素晴らしい遺跡

         デンバーの全米仏教婦人会大会

    1981   サンフランシスコ 全米仏教婦人会大会

         ご講師の佐々木久子女史(母の里の人)と写真

幸い健康に恵まれて、特に引退後は、二人でツアーグループ(木の本旅行社や藤田ツアー)に入ってよく旅に出た。カナダのグレシャー国立公園、バンフの汽車ツアー、メキシコ、ロシア、日本旅行など合計10 回以上も海外旅行をした。

1985  5 ・27   実 ゴールドストーンのオペレーションをする。

    7 ・15   金婚式 武士亭レストラントにて盛大に開く。 

1987 年7 月26 日 ビーコンヒルのコンドを購入し、田舎から引越す。

         1312 So.Massachusetts St. #103 、Seattle, WA

         家具は2 月ごろボンマシェのセールで買っておいた。  

1989        戦後から持っていたサウスパークの土地売却した。

1992 年12 月29 日、市山正人、八代恵、辰巳国昭、河本利之、同洋子ら五人

    日本より訪米、みんなこのコンドに泊まった。家族みんなでステーキを

    レストランで食べた。正月をロスの東京ホテルにレザーブして七人で行  

    った。ガイドさんに頼んでハリウッドとディズニーランドを見物して楽

    しかった。1 月5 日、シアトルからみんな日本に帰った。長男と次男は 

    軍隊に入って韓国や沖縄にいる時、広島に行って親戚に会っているが、

    広島の市山家の人がアメリカに来るのは初めてのことでうれしかった。

1994 年7 月頃までドライブして、よくサウスセンターの Nordstrom でランチもし  

    たが、この頃より実(フランク)は健康をくずし始めた。

1994 11月 ミスター小吹 軽いストロークをする。

1995 8ヶ月後、家で二度目のストロークで Swedish Hospital 入院

1995 結婚60 周年祝いをX 月X 日、ホーシーレストランでする。実   

    (フランク)は車椅子 Wheelchair で出席。                             

     5月15 日から9 月 シアトル敬老に入居。Private Room #310

1995年9月7日 シアトル敬老にて死去。享年87 歳。

     献体(UW Medical Center 誰のアイデアか)葬儀(シアトル別院)  

     家族  ミセス小吹、四男(氏名)、孫五人、曾孫三人

「主人はとても真面目で、人に好かれる人でした。子供や私にもよくしてくれました。」

 

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2003 年、春子、オリンピックマウンテンツアでエドモンズからフェリーに乗り、

    階段を上がったとたんに倒れて、ドクターも来られたが血圧が200 以上

    上がっており、フェリーは出ていたがエドモンズに引き返して頂き、ア

    ンビュランスカーが来ており、病院へ行ったが十時ごろ少し下がったの

    でローイと帰った。ずっとメリー藤田がついていてくださり、彼女はツ

    アに行けず気の毒だった。

2004 年3 月20 日、急に足の腿の付け根が痛み出し、いろいろな事をしてもよく

    ならず、スイディッシュハスピタル九階にてスペシャルドクターに7 月

    14 日に患部に注射をしてもらってら、翌日からウソのようによくなっ

    て本当にうれしかった。足の痛み止め薬に当り、体全体がかゆくなり大 

    変だった。バセリンクリームはよくきいた。

2004 年8 月12 日、春子、へヤーセットの帰り、ジャクソン街で買い物をして36

    番のバスに乗ったとたんに意識がなくなった。バスドライバーが911

    に電話して下さりエマージェンシーで行くようになるがどの病院と聞か

    れて、「スイディッシュ」と言ったきり後は何も分からなくなった。気

    がついたのは病院で、血圧は下がっていた。これが家でなっていたら、

    死んでたと思った。ドクターからペースメーカーを入れるようにいわれ

    て入れた。それから半年に一回調べてもらっている。

2005 年4 月5 日、スミエさんと広島に帰り、みんなに至れり尽くせり、よくし

    て頂き、4 月19 日にシアトルに帰った。

2007 年ローイ、マーシャ、ブライアンと一緒に日本旅行をした。皆さん親切に

    色々と良くして頂いた。市山家は家を建てかえて立派になっていた。

春子「子供や孫達みんなによくしてもらって幸福です。曾孫3 人 浩子の子男の子ツリオ Tulio 、女の子カヨ Kayo 、マーシャの子男の子ブレイダン Braden みんな可愛いです。91 歳になりましたが、お蔭で元気で毎日40 分くらい歩き、毎日感謝の日々を送って居ります。」   

                          おわり  June, 2010

 

 
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