Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
19 - やむなく一時休刊  加州毎日新聞  伊丹 明
         
 

やむなく一時休刊    加州毎日新聞

 

加州毎日(新聞) 社説  1942 年3 月21 日 

やむなく一時休刊

我ら日系人にとり最大の不幸事たる日米開戦以来、我社は終始一貫米国政府の命令指示を守り、全日系人が政府に協力し米国に恭順忠誠のまことをつくすやう唱導して来た。不幸中の幸ひともいふべきは政府が敵国語を使用する我らの新聞に対して何一つ干渉を加へるでなく弾圧を加えることなく自由な言論を許してきたことである。政府当局が敵国籍国民たる日本人一世をして時局下迷うことなきやう、如何に寛大な配慮を与へたかはこの一事を以てしても明らかである。敵国民に対してこれ程の寛大な態度を示す政府は世界中どこを捜しても無いであろう。我々は戦前のデモクラシー米国が余りに自由開放的であったため、ともすればこれに馴れて有難味を忘れ勝ちであるが、この際改めてこの点を認識せねばならない。政府は日本人一世に対しては日本語新聞による指導が必要であるといふ点を充分に承知しているのである。

政府当局が軍事上の理由から米国領土のいかなる所に於いても、軍事重要地区から市民非市民を問わず立退かしめる必要あることを認め、大統領令を以てその立退き命令権を軍当局に与えて以来、事態は急速に進展した。戦時下米国内住民は市民たると非市民たるとを問わず、また何人種たるを問わず軍の命令ある場合、命令に従って指定地区から立ち退かねばならなくなったのである。次いで軍当局はこの権限の下に太平洋及びメキシコ国境にある四州の全部を軍事重要地区として指定宣言し、その中半分即ちAB 両区に居住する日本人非市民及び日系市民は老幼を問わず男女を問わず唯一人の免除もなしに、いづれはAB 地区外へ移住せなばならぬのだと声明した。ここに於いて日系市民非市民の運命は決定的に定まり、我々は遅かれ早かれ転住せざるを得ないことが明らかとなったのである。

一時は我々も之を以て、日系人を悉くスパイ視する地方官民一部の排斥運動が政府を動かした結果だと解釈して、政府も又我々を敵性人種として取り扱うのかと嘆いたのであった。その後に至って政府及び軍の真意は、我々をスパイ視するものに非ず、反って我々を人種迫害より保護せんとする趣旨の下にこの断乎たる処置に出たのだという点を理解し得るようになった。 

軍の公表によれば、軍事重要区域居住の日系人に対して逐次立ち退き命令を発令するが、個人的にはなるべく速やかに自発的に立ち退けとの言葉があった。しかし、我々日系人の大半は行き先の住民の気心も分からず、また先々の生活の見込みもつかない内陸地に立ち退いて反って路頭に迷うよりも、軍の命令を待って立ち退くという方針を取った。そのため立ち退き命令は今日か明日かと心待ちにしていたのであるが、最近になって軍は自発的立ち退きに頗る力を入れて、立ち退き命令以前に立ち退く者には身の安全と生活の道を拓く機会を与えるという一歩進んだ立ち退き勧告の方針を取り、オーエンス平原のマンザナや他の場所に日系人立ち退き者を一時収容した後、徐々に内陸に定住地を紹介斡旋する方針を取り、先ずオーエンス・バレーに立ち退き者のキャンプ宿舎の建築を開始したのである。そして、この収容所に入る日系人には、内陸地に出るまで収容所に居住中、政府は生命の保護と生活の保証を決めて、衣食住、教育、医療の無料支給を発表した。

軍はあくまでも強制立ち退き命令の発動を控えて、出来るならば自発的立ち退きの機会を与えんと幾度か声明を出して「軍に協力するものは有利な条件を与えられる」と我々に自発的移住開始を勧告した。而して去る三月十八日にはオーエンス平原の宿舎マンザナの一部が完成間近となり、まず独身男子一千名の自発的移住者募集が発表された。ロサンゼルスを来る二十三日に出発するこの一千名は、日系人収容所の建設の手助けをして、まもなく各地から立ち退いてくる日系人の住むバラックを全部建てる任務につくのである。参加者に対しては軍の護衛を附し先方に於いては衣食住の心配なきよう政府に於いて取り計らうと発表された。・・・中略・・・我社としてはここに、社員の一人一人が一日も早く立ち退き準備をととのえる機会を得るよう、一時休刊の方針を決定したのである。

事態の成り行きに伴って、日系人大集団の沿岸から内陸地への大挙移住は殆ど不可能となり、政府及び軍は先ず自発的先発者より始めて逐次軍事地区より立ち退かしめて政府官営のキャンプに集めた上、暫くして内陸の適当なる土地へ分散移住せしめるという方針を取るに至ったことがはっきりとしてきた。自ら定め選んだアメリカ各地へ自費で転住する人は極めて稀であり、大部分は政府のご厄介になり官営の一時宿泊所キャンプ〈オーエンスのマンザナその他〉で生活するようお上の配慮を仰ぎ得る見込みがついた。・・・中略・・・ 終わりに臨み、開戦以来公正な態度をとられた政府当局に感謝し、社長のいない加毎社員に後援と激励を下さった日系人の皆様に心からお礼を申し上げます。藤井社長もニューメキシコの館府にあって皆様のご厚意に感謝しご多幸を祈っておられる事と信じます。(伊丹)

 

加州毎日新聞社説 1942 年3 月21 日号  読後所感 竹村義明

この社説は伊丹明が加州毎日の編集長時代のものである。社長の藤井肇は、開戦直後に危険人物としてFBI に連行されて、ニューメキシコ州の司法省管轄のサンタフェ抑留所に入所していた。1941 年12 月7 日に日米戦争が始まって僅か三日間 ( 72 時間 ) の間に、FBI 連邦捜査局はかねてから危険人物として監視していた日系社会の指導者及び親日団体の関係者1,291 名を危険な敵国外人として自宅逮捕し、妻子から引き離し連行した。翌年の三月ごろまでに、このような人達総計3,200 人余りは、奥地の抑留所 ( Internment Camp ) にインターニー( 抑留者 internee )として送られた。開戦前の険悪な日米関係の続く中で、藤井社長は注意人物としてFBI にかねてから目をつけていたのである。

抑留所 ( Internment Camp ) は司法省の管轄で、ノースダコタ州ビスマルク、モンタナ州ミゾラ、オクラホマ州フォートシル、ルイジアナ州リビングストン、ニューメキシコ州ローズバーグ及びサンタフェ、テキサス州クリスタル及びシーゴビルなどにあり、ドイツや日本の捕虜も抑留された。この抑留所は強制収容所と呼んでもよい施設である。

社説の筆者、伊丹 明( いたみあきら )は特異な人生を歩んだ。1911 年(明治44 年加州オークランドで出生の二世である。1914 年3 歳の時日本に送られ、鹿児島県加治木中学校、大東文化学院に学び、1931 年に帰米してバークレーの加州

大学 UC Berkeley に学んだ。ロサンゼルスの日本語新聞「加州毎日」に就職し、開戦時には編集長だった。ミネソタ州 Camp Savage の陸軍情報部勤務し、翻訳の傍ら同所の陸軍語学校日本語教官を勤めた。戦後、日本に進駐して戦犯を裁く極東国際軍事裁判「東京裁判」の通訳の任に就いた。1950 年12 月26 日、クリスマスの翌日、自ら39 歳の命を閉じた。後に山崎豊子著の小説「二つの祖国」及びテレビのNHK 大河ドマ「山河燃ゆ」の主人公・天羽賢治のモデルとなった。

西部沿岸より日系人の立ち退きに踏み切った政府は、内陸地への自発的な自由立ち退きを勧めた。ただちに財力や知人のある人、5,396 人はコロラドやユタ州など内陸に立ち退いた。その期限が過ぎると1942 年3 月末からは強制立ち退きが始まり、一般日系人十一万二千人を10 ヶ所の転住所・収容所 (Relocation Center) に収容した。1942 ・3 ・21 の「加州毎日」の社説は、この時期の事情を要領よく説明している。

転住所 (Relocation Center) はカリフォルニア(2)、アリゾナ(2)、アーカンソー(2)、ユタ、アイダホ、コロラド、ワイオミングの七州に作られた。すなわち、マンザナ、ツールレーク、ポストン、ヒラリバー、ローワ、ジュローム、トーパーズ、ミネドカ、グラナダ、ハートマウンテンの10 ヶ所に開設された。

この転住所は、開所以来ずっと収容所とかキャンプと呼ばれてきた。しかし、これを1980 年頃から強制収容所 (Concentration Camp) と呼ぶ傾向が一部にあるが、強制収容所の名称は、もしも使うならば、司法省管轄の抑留所だけに使うのが正当と思う。「強制収容所」の表現は「すべての日系人が強制的に収容された」という響きが強く、多くの誤解を招いている。歳月の経過と共に今になって、転住所に入った人達が使った事のない言葉が使われるのは悲しい。また、この言葉はナチス・ドイツの強制収容所と混同される恐れもある。ナチスのはユダヤ人根絶を目的としたが、アメリカの転住所は日系人の撲滅という極悪なものではなかったから根本的に異なっている。その他、稀に「Incarceration Camp 監禁投獄 」と言う言葉を使って否定的な感情を表現する人があるが、日系人収容所は監獄ではなかったから使用されるべきではない。

1942 年2 月19 日のルーズベルト大統領令第9066 号によって「日系人強制立ち退き forced evacuation 」があったと理解している人が多いが、これは間違いで、大統領令は強制立退命令ではなかった。作家の山崎豊子も「二つの祖国」の中で、同じように間違って解釈している。大統領令は「非常時には軍政府は軍事上の重要区域を指定し、その区域に居住する者は人種を問わずいかなる人物も、軍の立ち退き命令がある際には、そこより立ち退かねばならない」というもので、それには「日系人」という言葉はどこにも見当らない。原文はインターネットで参照されたい。又、毎年2 月19 日を「追憶の日」“The Day of Remembrance” として、あたかも大統領令第9066 号が日系人立ち退き命令の発令日のように思っている人もあるが、この大統領令は日系人立退きに関連はあるが大号令ではなかった。

1942 年3 月2 日、西部司令官デヴィッド中将は立ち退き区域を指定して、日系人を立ち退かせた。この日系人強制立ち退き命令を出したデウィッ中将は極端な人種偏見を持った人物だったことは、翌年の1943 年4 月13 日サンフランシスコでの彼のスピーチを見れば一目瞭然だ。「Jap is a Jap ジャップはジャップだ。忠誠であろうとなかろうと危険極まりない存在だ。彼らの忠誠如何を知る道はない。米国市民であるなしにかかわらず、根本的に彼らは日本人であり、それを変えることはできない。」

彼 (DeWitt) は確かに 多民族国家アメリカの指導者としては不適格な人物だった。しかし、彼にこのような発言を許すようになった背後には、長い歴史の中の人種感情や種々の事情があることを見逃してはならない。彼一人が悪いのではなくて、当時の多くの指導者や国民が彼と同じような考え方をしていたという事実である。

昭和初年以来、日本が朝鮮、満州、中国に進出し、開戦当初にフィリピンに攻め込んだが、これらは多くの日系人の働く農場や仕事場で一所に働く人達の出身国だった。日米戦争が始まって、加州では実際に日系人にたいする殺傷や暴行事件が起こったが、ますます日系人に危害が加わる可能性と懸念があったのも事実である。このほか、今まで永年にわたり商売仇の日系人追い出しを企てていた勢力の扇動や開戦当初の日本の連戦連勝の中でアメリカ国民の憂慮もあったが、「軍事上の重要地域からの退去と日系人を危害からの保護」という「直ぐには納得できない理由」により、立ち退きが実行された。   

1987 年の政府の謝罪と金銭補償は「収容所へ強制収容」の為だったと解釈している人がいるが、これは間違いで、正確には「 evacuation 立ち退き」の故だった。だから、「自由立ち退き者」も「収容所行きの人と同一の謝罪と補償」を受け取った。抑留所に入った日系社会の指導者や要注意人物も同じ(補償額も同じ)だった。謝罪と補償は生存者に対してなされたので、当時の苦しみの中に生きた一世は、殆んどがすでにこの世にはいなかったことは呉々も残念だ。開戦時に、立ち退き区域以外に居住していた日系人は、当然のことながら謝罪と補償の対象にならなかった。

戦後、加州毎日新聞は日系人の南加帰還と共に復刊したが、1990 年代に購読者減少により廃刊となった。

 

竹村義明 www.isseipioneermuseum.com

 

 
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