Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
24 - 帰米二世の戦前から戦後  山下妙子
         
 

帰米二世の戦前から戦後        山下妙子 198
                    加州アルバニー住
                    南加ロングビーチ生まれ1915 年
 

二度日本からアメリカへ
二度アメリカから日本へ

私は鹿児島県人の父、佐々木忠綱と、医者の娘であった是枝エイの長女として、1915 年9 月6 日、加州ロングビーチ・メール街737 で生まれた。1920 年ごろ、父母はロスのリトル東京でネルソンホテルを経営していた由で、5 歳頃の数々の写真で、今は亡き両親の若き日を偲び感慨無量である。当時の日本人社会の風習で、子供は日本で教育をということで、1921 年に学齢迫った私を妹2 人と共に日本の祖父母の許に預けた。私が6 歳、綱子4 歳、雅子2 歳の時であった。

ここへ来た時は、丁度さつまいもの取り入れの頃であり、下男・下女・小作人の人達が牛と歩くのが珍しくて、畑につれて行ってもらったが、しばらくして或る日の夕方家に帰った時に母はいなかった。3 人の子供を置いてアメリカに帰った母は、どんなにか悲しかったことだろう。幼い私達へのふびんさも手伝ってか,祖父母からも周囲の人達からも大事にされ、今振り返ってみても蝶のように自由に飛び回って過ごした幼い日の記憶がはっきりと浮かんで来る。学校の学芸会で母が別れに呉れた長袖の着物を着て踊った「羽衣」、祖父が蔵から出してきた裃( カミシモ )と短刀の装束で越前の守になりすました「越前さばき」、燃えるようにツツジが庭一面に咲き誇った祖父の家での花見の宴で三味線と太鼓での手踊りなど楽しい思い出は尽きない。

祖父の家は、源平の戦いでは宇治川の先陣争いをした佐々木四郎高綱の後裔である。大隈半島の牛馬の神として信仰されて、お祭りにはサーカスまで来て賑わう日枝神社は、佐々木の先祖が祭ったと聞かされた。この様な環境の中で、何の苦労もなくのびのびと育てられたが、私の心の隅に常に宿ったのは遠いアメリカにいる父母への恋しい思いだった。

小学校を出てから、鶴嶺高等女学校に入学した。皇后さまの叔母上で女官長であられた島津治子女史の創設された学校で、祖父の指示だった。国語、歴史、英語、体操、音楽が好きで、英語の先生はハワイ大学卒の美しい山口先生という方だった。アメリカの父母から定期的に送金があり、一年生(1927 )の頃は1 ドルが2 円、3 年生(1929 )の頃は1 ドルが4 円だったと思うが、世界中の不況の中でよく送金してくれたものと、今は亡き父母に感謝している。

1933 年〈昭和8 年〉10 月、私は13 年ぶりにロサンゼルスの父母の許に帰ったが、当時日本では「東京音頭」が大流行で、今でもこの歌を聞く度に、秩父丸での一人旅でアメリカに帰ってきた頃を懐かしく思い出す。鹿児島の祖父母の許にいる2 人の妹の事で、一日も早く日本に帰ろうと思う毎日がつづいたが、父母も同じように思っていたようだ。

当時、日本育ちの娘というと「娘一人に婿八人」という時代だったが、父母は私の縁談には耳をかさなかった。それは、下働きの国で結婚させたくなかったという気持ちと、レストランの経営難と父母が心の不和で悩んでいた時代であったからだ。私は店のキャシャーとして働いていたが、日本の妹達と祖父母には何一つ苦しい話は書けなかった、しかし、珍しい物やお金は送り続けた。恐らく私の一生の中で、一番悲しく、苦しい時であったと思う。その頃、南加大学(USC )で苦学していた山下を父母は早くから知っていたというが、後に彼が私の夫になるとは夢にも思わなかったらしい。ハワイ生まれの彼は、口数が少なく、誠実な人柄で、親や姉弟思いのやさしい人であったが地位も金もなかったので、父母は私達の結婚に反対した。しかし、私はこの人と一生を共にしていくと決めて、1937 年に結婚した。

結婚前、山下は一生懸命働いてロサンゼルス市の9 番街にあった農産物収集市場にあった露天店「たちばな亭」を500 ドルで買い「大阪カフェ-」と命名し、幸いに良い従業員にも恵まれて繁盛した。1939 年「チェリーチャプスイ」そして1940 年に「チェリーグロッサリー」、1941 年には「アイボリーカフェー」と次々と手に入れ、1938 年6 月に長女、1950 年7 月には次女が生まれた。すべてが順調に行っていた時、日米戦争が始まった。

1941 年12 月7 日、その夜から日系人の店は閉じるようにとの命令がポリスから出た。私達は当夜お客に出すために用意していたフライチキン200 羽その他をみんなに上げた。年が明けて早々、マンザナーへの立ち退きが始まった。戦争が始まった時、私は妊娠7 ヶ月で、これからの立ち退き、出産のこと、小さな娘のこと、店のことなどと思案は際限もなかったが、お産は以外に安産で3 月6 日三女奈緒美が生まれた。不安な毎日であったが、私共の集合所は、パサデナの歩の間集合所で、店の客や近所の人達の温かい見送りを受けた。彼らの中に「こんな良い人達をなぜ立ち退かせるのか。戦争を始めたのは上層部の人達だ。」といきり立っていた人もあった。家族番号「9013」を胸と荷物とにつけ、60 ポンドまでの物ならいくつでも良いとの事で、子供達の物を持って入所した。ポモナの馬小屋生活は3 ヶ月だった。ここからワイオミング州(Wyoming )のハートマンテン(Heart Mountain )収容所に移されたが、幼い者、婦人、老人は寝台車での移動であった。

ここは零下30 度(華氏)にもなる草も木もない荒野であったが、「住めば都」で勤勉な日系人によって荒野も緑になり、花も咲いてきた。私は産後の荷造りの無理などから体調をくずしていたが、ドクター鈴木の看護で元気を取り戻した。夫は若い人達に相撲や野球のコーチを懸命にしていた。そして、1943 年8 月4 日に、待望の男の子・雄一郎が生まれた時、誕生祝いの品々を48 個も頂いたが、夫の普段からの行為に対するお礼であった気持ちがする。

戦争が始まって以来、いろいろな事があった。10 ヶ所の収容所の中では、忠誠組と不忠誠組とに分かれてごたごたも起こるし、立退きの際に私達は何もかも失ったので、日本に帰る決意をしていたのでツールレーク収容所(Tule Lake )に送られた。一万人ほどの日系人が入っていた。そこには報国団という人々がいて、毎日朝早くからワッショイ・ワッショイと駆け回っており、あれはエネルギーを発散さしているのだと思っていたが、ある夜、キャンプの中に戦車が入ってきて物々しい状態になったので、ブロックマネジャーの青木氏や保安課の人に「何事ですか?」と聞いたら、管理局と収容者代表との間で問題が起こったとの事だった。これが、あの有名な鶴嶺湖事件である。翌日はMP が物々しく繰り出して各戸を捜索したが、7 人の代表を逮捕できなかったとのことだった。

管理局と居住者の関係が悪化したため、解決の道を見出す為に私の夫は住居者代表の一員に選ばれて出頭した。「管理事務所に出頭したら、白人の保安官がピストルをつきつけて身体検査したので腹が立った。」と夫は後で話したが、この度の事件でも住民に不満が出るような事実があったのだと思う。「何故話し合いをしてくれなかったのですか?」とペスト所長に聞くと、「今後は話し合いをして行きたい。」といって、全職員を呼んで、「我々の仕事は、この人達に奉仕していくのが役職であり、この人達と話し合って誠心誠意尽くしてほしい。」と訓辞され、それから握手をして帰ってきたとのことだった。

それからは、空高く飛ぶエアプレンを見るのみで、その後の収容所は平穏だった。収容所の生活は兵隊並みで、月給は19 ドル、16 ドル、13 ドルの3段階で、大人はみんな各部所で仕事をした。家族手当や衣服手当も出ていた。ある日、赤十字を通じてキッコーマン醤油と黒くなった味噌が各戸に届いた。物資不足の中からアメリカにいる私達同胞を思って、故国から届いた真心の贈り物に皆は泣いた。

立ち退きの時、私達は3 つの店は売り、残った第五街の「アイボリーカフェー」は、L. ガナルというイタリア系の夫婦が、「後は見て上げましょう。小遣いを送ります」とのことで金銭は受け取らずに信用して名義変更をしたが、1セントも送ってこないのでWRA (戦時転住局)の方が心配してロスの方へ行って下さったが、彼らは早々に店を売ってしまって行方不明になっていた。その店は当時5,000 ドルの店だった。夫は「お前の云う事を聞かずに失敗した」と苦笑していた。

平穏な毎日を送ったものの、私達は一日も早く戦争が終わる事を祈った。戦局が毎日報じられていた1945 年3 月31 日、次男昭二郎が生まれたが、収容所に入って二人目の男の子で夫は殊の外喜んだ。私達は戦争中でも五人の子供と一緒に生活できる事を感謝しつつも、戦争の終わる事を待ちわびた。1945 年8 月14 日、日本は無条件降伏し、私達の長い収容所生活も終わった。何とも云えない複雑な気持ちで涙が流れた。

1945 年12 月31 日、約5,000 名がアメリカの輸送船ゴードン号に乗船して日本へ送還され、1 月13 日に浦賀に到着した。そして、戦争の悲惨さと無惨さを目の当たりにした。麦の入ったご飯、大根の葉の味噌汁と梅干をみんな黙って食べた。高松宮妃殿下が黒いもんぺ姿で慰問に来て下さって胸がつまった。浦賀から鹿児島への汽車は身動きも出来ない混雑で、用便も頂いた湯桶ですますような有様だった。故郷の村にたどりつき、村人の温かい好意に接した時は、涙がこぼれて仕方がなかった。

故郷に帰って2 ヶ月後、主人は鹿屋に来たアメリカの進駐軍の通訳として働き出した。やがて進駐軍が鹿屋から福岡に移動し、夫も転勤したので三年半の別居生活となった。私は子育てに忙しかったが、鹿屋にいる時は市長に推されて社会教育委員になり、PTA や婦人会活動にも加わった。1951 年7 月末に福岡県春日市に移り、進駐軍関係の社宅「春日コート」に65 世帯の人達と住み、多くの懐かしい思い出が出来た。女性連中で日米親善婦人協会を設立して活動したが、ルーズベルト夫人、秩父宮妃殿下、パール・バック女史、大谷智子東本願寺裏方、鳩山総理ご夫妻にもお会いする光栄に恵まれた。

五人の子供たちも次々と成長し、全てが順調に進んでいたが1964 年2 月1 日、最愛の夫は酔っ払い運転のスクーターに突き倒され、脳底骨折で亡くなった。

「世の中の男の人が、みんな貴方みたいだったら、女の人も本当に幸せなのにね。」と言うと、にっこり笑っていたのが忘れられない。1963 年長男は高校卒業後アメリカに渡り、苦学の後に徴兵で沖縄に駐留した。次男は福岡大学卒業して、兄を頼って1968 年に渡米したが、10 ヵ月後に徴兵されて1969 年12 月にベトナム戦争の前線に送られ、1970 年6 月にカンボジアの戦場で戦死した。1971

年、私は25 年ぶりに娘と共に帰米して、ゴールデンゲート国立墓地に眠る我が子の墓に詣でた。生まれたら死んでいかねばならないが、憎しみもない相手を殺さねば自分が殺される戦争、国家権力によっての愚かな戦争のもたらす悲しさを、私は死ぬまで味わねばならない。戦争は、家庭も国家も全てを破壊する。戦争の無惨さを味わっていない人々は、戦争の罪悪性を知らないで他人事のように思っている。私は愛する我が子を失って、こつこつと築き上げたささやかな幸福を崩された。「戦争はやめて」と声を大にして叫ぶ。

私は昨年の7 月から、作文教室に出席させて頂いているが、人生の荒波を越えてこられた年配の方々の尊い姿から、数多くの事を学んでいる。残り少ない人生の中で、子や孫のために自叙伝を書くために80 歳を過ぎていらっしゃる方々が、乙女時代に返って嬉々として集まっていらっしゃる姿には、本当に春の日のような暖かさと輝きが溢れている。年老いてなお頑張っていらっしゃる姿を見る時、長い排日の日々を血と汗と涙で頑張り通してこられた今は亡きパイオニア諸氏を見るようで尊崇の想いが湧く。(黄昏の丘より 山下妙子)
(1981 年2 月14 日)

私達の記録(Our Reflections )より抜粋(抄)
1986

 

 
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