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日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - その他関係
25 - 思い出 収容所からコロラドへ - 小田切千代子
         
 

思い出  収容所からコロラドへ     小田切千代子

 

加州クーパティノ 1907 年 出生
加州エル・セリト住

第 2 次世界大戦が始まって 3 年目の 1943 年春のことです。私共のユタ州トパーズ収容所では米国政府の命令で、米国に忠誠か否かを誓わなければならない事になったのです。所内では色々と流言蜚語が飛んで騒がしくなったのですが、事あるごとに相談する先輩がありまして、私共はその方の冷静な判断に従って忠誠を誓う署名をしました。そして、主人は直ちに米国海軍語学校日本語科講師に応募して収容所を出ました。

この日本語学校は、日米開戦前にバークレーの加州大学に開校されていたもので、第 1期生は 23 名全員が Phi Beta Kappa 優等学生会員で、5 名は日本生まれの外人だったそうです。戦争が始まり、加州の日系人に立ち退き命令が出ると共に、この学校はボールダーのコロラド大学へ移りました。第 2 期生は 150 名で、その中に 24 名のハーバード大学からの優等生がおり、その翌年の第 3 期生は 300 名に増えたのです。それで、主人に日本語の先生という機会が来たのでした。

生まれた時から話してきた日本語も、いざ文法から教えるとなるとむずかしい問題で、何事にも真剣に取り組む主人は大変苦労しました。このような生徒に、10 ヶ月でいろはから漢字草書まで読み書きを詰め込むのに、先生も生徒も一生懸命でした。その内に、主人も教えることにも慣れて、週末にはゴルフを楽しんだり、碁会に出たりする余裕もできて気分的に楽になりました。このボールダーは山の中の大学町で、街路樹は空高く伸び大変美しい町でした。初夏の五月半ば頃まで雪が降り、その雪の中からいっせいに鈴蘭やスミレが咲き出し、次々に色とりどりの花が春から夏にかけて咲き、黄金色のアスペンの葉が風に揺れる秋が過ぎて銀世界の冬が来ます。私達は何度も「こんな所で老後を送り度い。」などと話したものでした。

ここに2 ヵ年勤めた頃、学校がオクラホマ大学へ移る事になったのですが、私達はオクラホマと聞いただけで、これは大変なことになったと思案しましたが、オクラホマはと竜巻とインデヤンの住むところいうくらいの知識しかなかったので、オクラホマ行きは断念しました。主人は朝のクラスが済むと、連日バスでデンバーへ出掛けて手ごろなレストランの売物を見て歩いたのです。それと言うのは、ソートレーキから来られた先生が、「短い期間に小金を貯めるのには、レストランが一番だ。」と熱心に勧めて下さったからですが、他に出来そうな事もないからと言ってやる気になったのですが、他の知人は「目くら蛇に怖じずだね」だと言っていたそうです。

デンバーには、自由立ち退きでアパートを経営していたいとこが居り、不案内な土地であっても好都合でした。丁度、日本人町近くに売ってもよいという店があるとのことで、早速交渉に行きました。やっと半額を払い込み、残りは 6 ヶ月という事で話が纏まったのですが、主人は大金の工面で夜も眠れない程でした。

主人は戦争まで、叔父の貿易商店(小田切商事)に働き、「お前はここで縁の下の力持ちをしていたら、今に何とかしてやる」と言われていたのが、あの大戦勃発で会社は閉鎖になって何ももらえませんでした。子供は 3 人になり、日本の母への仕送りもあり余り貯えはありませんでした。先ず、資金の相談をテキサスへ自由立ち退きしている親類の 3 人兄弟にしましたところ、気持ちよく直ぐ用立てて下さったので、急に元気が出ました。収容所の同郷の知人にも相談しましたところ驚いたらしく「貴方はデスクの仕事しかした事のない人で、レストランをやるとはえらい事だ。良く考えてやりなさい。申し越しの金子は直ぐ送るし、まだ要るなら貸してもよい」という返事でした。後日それを受け取った時の感激は一生忘れる事ができません。

ようやくお金の工面が出来て、デンバーに出てレストランを譲り受け開店となりました、昼食が評判となり良い噂が出て大繁盛しました。大きなチョコレート会社の外、近所の印刷屋、製本屋、金物屋などから、毎日同じ顧客が来てくださり、実に忙しいレストランでした。忙しくてもみんなよく働いてくれました。コック長は几帳面なドイツ系の婦人で、その助手がサンジェゴでレストランをしていた働き者の日本人夫婦でした。主人は美味しいコーヒーを出すのだと言って、朝早くからコーヒー作りに専念し、その頃お砂糖は配給の統制品で他店にはテーブルに出していませんでしたが、主人は砂糖壷のまま出していました。

終戦の日も店を開けていましたが、日本人の店に何か被害があってはと心配して、毎日来て顔なじみの人達四五人が、コーヒーを飲みながら一日中、カウンターに座っていてくれましたし、客人にここの人はみんなアメリカに忠誠だと言って下さいました。

家族全員の協力もあって、予定通り1 年で借金を返すお金ができました。その頃から加州への帰還も始まっており、主人も少し疲れが出たようでしたから、私達も帰りたい気持ちが日毎に募りました。店の日本人夫婦が「私達が手伝うから、もう1 年やりなさい。そしたら、纏まったお金を持って加州へ帰れるから」と親切に言ってくださいましたが、思い切ってレストランを人に譲り、懐かしいバークレーへ帰ってきました。デンバー 20 街のこのレストランは、今も日本人親子で開けていますので、又近いうちに訪ねたいと思っています。おわり
1981 年 3 月 

「私達の記録」1986 年 より抜粋

 

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