Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

前のページにもどる

物語 - その他関係
27 - 北米川柳発展史 - 兵頭自適
         
 

北米の川柳発展史         兵頭自適

 

北米大陸の一角、西北部ワシントン州ヤキマ市に、川柳柳蛙会が呱々の声を挙げましたのは、川柳の黎明期とでも云える今から四十七年前即ち千九百十年の秋で、故本多華芳師に依って創始せられたのでありました。当時は皆青年で、寄れば論じ、飲めば歌ふといふ元気盛りで、華芳師の口吻に依りますと、雑俳だか、狂句だか、川柳だか唯無我夢中で、これが川柳ですと威張って居た云々と、同師は慨嘆を洩らして居られる処を見ても、其の当時を今から思へば川柳の幼稚園であった事は想像せられるのであります。斯うして兎も角も川柳の第一声は北米の地に挙げられ、やがて之が導火線の役割と成って、今日北米各地に於いて川柳の盛んな事は、北米川柳発展史の上に特筆せられる一大功績と云わねばなりませぬ。

越えて千九百二十七・八年の頃、華芳師のシアトルに転住せられたのを機会に、千九百二十旧年夏、本多華芳師と吉田松亭氏等に依って北米川柳互選会の発会を見るに及んで、ここに愈々本格的に川柳の第一歩へ足並みを揃へた訳であります。

北米川柳互選会は。発足以来年を追ふて隆盛となりまして、千九百三十五年には本多華芳編纂のもとに、北米川柳と言ふ五十回記念の句集が刊行されました。ついでに華芳師の序の一部を転載して同師の努力の跡を偲び、当時の模様を語る一助にしたいと思います。

『北米川柳互選会がはじめてシアトルに生まれましてから、もう六年になります。忘れることの出来ない第一回互選会は千九百二十九年の夏、七月廿一日でした。開場は当時名高かった丸万亭、出席して下すったのは松亭、みどり、洋花楼、玄界の方々に私を加へて五人でした。当日、剣突さんがヤキマから創作を送って呉れましたので皆様の嬉しさが席上に溢れました程でした。第二回には雀喜、迷舟、第三回目には柳雨の方々が出席して下さいましたので互選会は頗る活気付き、竹涼さんが遠い雪のアラスカから句稿を寄せられましたことは如何に私共を発奮させたことでせう。中略、実に吾が北米川柳互選会が先鋒で、恐らく今も北米唯一の川柳会と存じます。中略、いずれ、二編、三篇を出版します時には多少とも筆の冴えに御意得たいと、自ら期待し、自ら楽しんで居ります事が、互選会の希望光明と申しませうか』(1935 本多華芳)

と結んで居られます。華芳師の希望光明の第二編は名称こそ変わって居りますが、このたび編纂出版の「北米西北部川柳自選句集」はその内容と実質に於きまして、華芳師の希望であった第二編に当るものであります。各吟社後輩の一人集であります。十五年前、ハートマウンテン収容所で亡くなった恩師の霊前に捧げて聊か喜んで貰らい度い次第です。

第二次世界大戦前の川柳吟社の分布はどうであったかと申しますと、華芳師指導の川柳研究会は、作句発表機関としては当時の邦字日刊紙・大北日報に掲載して居りました関係上、誰呼ぶともなく大北川柳と呼び馴らされて居りました。其の大北川柳が主催で、千九百四十一年七月四日、西北部川柳大会を開催しましたのを機に、北米川柳互選会に合流しまして、吟社の基礎をいよいよ強固にした次第であります。地方ではスノーコールミ吟社、ロングビュー吟社、ヤキマ川柳吟社、スポーケンの川柳素市、ポートランド吟社、遠くは加州のローサンゼルスに川柳つばめ、等でありました。

日米開戦は在留同胞を皆敵国外人として、遂に戦時隔離所入りのやむなきに立ち至りまして、太平洋沿岸の同胞は皆キャンプにせられました。一時はどうなる事かと云うのが皆の頭一杯で、この時ばかりは川柳どころの話ではなかったのが、やがて収容所に落ちつき、日が経つに従って平静を取り戻し、キャンプ中到る処に日本趣味が台頭し、中でも川柳熱は各キャンプを通じて戦前に優る盛況を呈し、平和到来と共に出所した柳友は、以前と違って全米の各州に川柳を持って定住する様になりっまして、今日の川柳黄金時代を招来した次第であります。

その後、北米各州に散在する川柳吟社を挙げますならば、ニューヨークのマンハタン吟社、シカゴのシカゴ川柳、ソートレーキの川柳ユタ、加州は沿岸で一番同胞の多い関係で、従って吟社の数も多く、桑湾吟社、セコヤ吟社、サクラメント川柳、川柳つばめ、等です。川柳つばめは以前から南加の重鎮として其の貫禄を見せて居ります。吾が西北部では、戦後柳友の移動のため吟社の改廃などありまして、今ではスポーケンの川柳素市、ポートランド吟社、最近熱を上げているオレゴン州のオンタリオ吟社、そうして当シアトルには古くからの北米川柳吟社があります。北米川柳吟社は北米大陸に於ける老舗です。

杜撰の点多々ありませうが、ご容赦をお願いする次第であります。

一九五七年七月三十日   

 

「北米西北部川柳自選句集」1957 年 12 月 北米川柳吟社(岡田柳華)より引用 

句集には西北部在住の吟者 90 名の自選句 合計 900 句が入っている。

          移民船家運を賭した人ばかり
          貨車に揺れ他州の春へホボの群れ 
          雨続き取り入れ気になるシュガービツ
          蒔き終えて今日は勝手に雨を乞い        
          音沙汰は無けれど無事で居る様子
          筆不精書いて言訳通るとし
          出さぬのに来る筈がないメール箱
          君が代を歌へば頬を伝うもの
          金の奴喜ばせたり泣かせたり
          立ち退きに妻は捨てたり拾ったり
          排斥の中に育てた子も兵士  
          食い違ふ意見も籍の西東
          戦前の二の足今日は腰を据え
          母の声受話器慌てる三千里
          もうママの刈った頭は気に入らず
          帰化学生家に戻れば孫を抱き
          菊活けて明治を語る帰化市民
          今一度富士を見たさの共稼ぎ          
          懐かしい今浦島へ村言葉
          憧れて帰り冷たい瞳に出会い
          よく来たとただそれだけで胸迫り
          初期移民素朴な姿目に浮ぶ
          忙しい口裏TV見て過ごし
          奇術師のハットにも似て子のポケツ
          一日で行ける祖国へ縁遠く
          紅顔の移民のなごり深い皺
          亡き妻のコックブックで味をつけ
          古旅券じっと見詰めて感無量
          帰化証を握って次は墓地を買い
          捨石の部にも入らずに無から無へ  

          他 870 首  作者名省略

 

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

 

1941 年(昭和 16 年)8 月、タコマ週報社出版の「タコマ及び地方日本人史」に、川柳の人気と普及について次のように述べている。

『 1935 年以降、沿岸における川柳の流行するは瞳目に値する。其の内、1929 年 7 月創立のシアトル北米川柳互選会は最も古き歴史を有している。いま北米互選会には母国の「川柳きやり」社の社人に推薦された者十数名を算する。何故かくの如く川柳が短日月の間に普及したかといへば、

   一、  季題にこだわらない大衆詩である。
   二、  第一世漸く老ひて人情の機微に通じ、
       人生の波乱曲折の客観的観察が出来る。
   三、  都市に居住する者、自然美を謳う俳詩よりも、
       人事を主とする川柳詩に近づく。
   四、  課するに、一題なるが故に作句に常住坐臥専念出来て句作に至便なり。
   五、  先輩の指導よろしく常に研究的態度の持続、各社との連絡行き届き、
       キヤリ本社との接近も甚だ佳。

他にも色々な素因があるかも知れないが、兎に角、大衆向きであることが主な原因をなすであろう。北米邦人の間に漢詩、和歌、俳句、小説などで幾多の高手が出たが、川柳ほど故国のその道から認められてるものは外には皆無だ。華芳、玉兎、竹涼、土偶、鬼堂、素若などを初めとして、北米互選会の人々は故国概界の大家に比して遜色が無いということが、大衆詩・川柳の隆盛を物語っている。』

 

一世パイオニア資料館

 

 
一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2014