Japanese American Issei Pioneer Museum
日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 戦後渡米者関
01 - 渡米当初の思い出 - 久徳加兵

若き日の思い出 - 久徳加兵

2008 年 8 月  サリナス在住一年目

L.A.を暗くなってから出て、U.S.101を海岸線に沿って一路北上、ピックアップトラックに引越し荷物をいっぱい積み込んで北加サリナスに向かってドライブしていました。オクスナード、サンタバーバラ、サンルイスオビスポ、パソロボスを過ぎてサンルーカスの手前あたりでした。真夜中の二時ごろのことです。睡魔に襲われ酔っ払いのように自分でも危ないと思うフラフラ運転です。後ろから来た大きなセイマイトラックの追い越しぎわの大きなクラクションで眠気が吹っ飛び、事故にならずにすみました。うしろからは、ワイフがドライブするパッセンジャーカーが小さな息子二人と義母を乗せてついてきていました。これが私たちのL.A.からサリナスへの最後のツリップとなりました。

私は一九六〇年一月十三日、ロングビーチの隣のウイルミングトン港に短期農業実習生(Supplemental Agricultural Worker)として渡米しました。見るものすべてが珍しいアメリカでした。農園労務者が不足している日系人農家へ三年契約の渡米でした。激しい労働でしたが、若者にとってはアメリカは魅力ある国でした。契約が切れて帰国する日が来なければ良いがと願っていました。良縁に恵まれて、一九六二年十月に加代子と結婚、両親への報告を兼ねて訪日しました。妻は日本生まれですが、母親はアメリカ生まれの二世ですので、渡米ビザは難なく獲れました。

一九六三年に再渡米し、L.A.郊外のホーソンやガーデナ近辺で庭園業で資金を貯め、何か事業を始めねばと思っていました。難民移民法で1956年に渡米した兄が1964年に北加のサリナスで花屋(花栽培)を始めたので、自分もボサットしておられないと、サリナスに行くことに決めて適当な土地も十エーカー(日本の四町歩)入手しました。1967年正月一日、何もない麦畑に前日L.A.から引っぱって来たトレーラーハウスでの仮住まいが始まりました。トレーラーに一年分の食料や日用品を積み込んで業者に運んでもらいましたが、重かったのでしょう、タイヤが何本もパンクしたそうです。

入植当時、周りは子供の背丈ほどある麦が繁っていて、その中にポツンとトレーラーハウスがあるだけです。何もない、電気も水道も下水道もガスも本当に何もない所でした。まず整地から始めるのですが、庭仕事の道具以外は作業機具を持っていないので、近くに一年前に入植した兄の道具を借りての作業でした。

広さ一エーカーのグリーンハウスを建てるため、その建材を買うことにしましたが、サンタクルースのランバーヤードの材木屋が、加州杉ダグファーの木材ワンセクション分全部〔一エーカー分〕を、見ず知らずの私に一銭の前金なしでくれました。日本人は信用できるからというのが理由です。先輩の一世と二世が築いて下さった信用のお蔭と感謝しながらの作業でした。四月から十一月まで加州では雨が少ないので、入植した荒地では土はコンクリートみたいに固くて、グリーンハウスの柱を立てるための穴堀りは手作業でしたので、手のひらはマメだらけでした。本当につらい毎日でした。

一月から三月末までLAとサリナス通いです。月曜から金曜までL.A.でガーデナーの仕事一週間分を済ませ、金曜の夜から土日とサリナスで仕事をして、又日曜の夜にL.A.に帰りガーデナの仕事です。そんなことが三ヶ月続き、前述の最後のドライブです。

選りによって、正月の一日から仕事を始めたので、年がら年中働かなければならなければならないはめになった様です。今では四昔(よつむかし)の苦労を笑い顔で話せるようになって幸せだと思っています。購入した土地に一エーカー〔四反〕のグリーンハウスを建ててカーネーションの温室栽培をスタートすることになりますが、日本の実家の一町歩あまりの田畑の耕作と同じくらいの辛抱と苦労が要ると覚悟しました。

サリナスは太平洋から吹き込みバレーを吹き抜ける風のために、一年中とても涼しい気候で、L.A.から来た私共にはとても寒い所でした。一年中カゼにかかり、気候に慣れるのに二年はかかりました。

ワイフもよくがんばってくれました。か弱い女でありながらがんばる妻の姿を見ては、胸にこみ上げるものがありました。確かに、ワイフには苦労をかけましたが、リタイヤーした今でも苦しかった昔のことを口にし、こちらを困らせます。入植当時、三男を身ごもっていて七月出産。その前日までグリ-ンハウスで仕事でしたから、、、、、、。子供も街の生活から急に誰もいない田舎の生活に慣れず、毎日泣いてばかりいて顔は涙の塩分でガサガサになっていました。三男が生まれても充分世話できず、切花の出荷用の空き箱の中がクリッブでした。

一年目の七月の末には、カーネーションの収穫が始まりましたが、最初の年ですから苗植えから収穫まで、作業の事や働き人の問題や販売方法など頭の痛い事の連続でした。スタートした時、ほとんどの働き人はメキシコからでしたが、グリーンハウス栽培について知っている熟練者がいませんから大変でした。こちらはスパニッシュが解せず、向こうは英語が話せず、そこで、まずは先方に英語の言語教育から始めて、英語をならってもらをうと一生懸命教えましたが、来る人も来る人も全く英語を話そうとしません。二年間頑張って教えて見ましたが、こちらがギブアップしてしまいました。そんならこちらがスパニッシュを覚えようと覚悟し、少しづつ仕事用スパニッシュを習って、カタコトのスパニッシュで使用人を指図できるようになった訳です。

一番くやしかった事は、最初に収穫したカーネーションを一束五十セントでしか買ってもらえなかったことです。一本がたった二セントです。いい花が出来たと思っていても屋根のない温室で育った花は、見る人が見たらやっぱり等外ですよね。サリナスは風の強い土地です。このサリナスの気候を知らずに建てたグリーンハウスは、少しでも安くと思って手を抜いて作ったので、この風に耐えられず何回も何回も補強する始末でした。

あれから三十三年間、一日二十四時間、2000年にリタイヤーするまで、ひと時も気をゆるめる時はないままに、あっという間に時は流れました。パッキンッグハウスの高い屋根の軒下に巣を作っていた雀(すずめ)が、夏が来て巣立ってゆく様に、子供達も巣立ってしまいました。私も去年は古稀を迎える歳になりました。仕事、仕事に追われた生活から開放されて、妻と共に自分たちの時間を楽しみたいと思います。

以上

一世パイオニア資料館 - isseipioneermuseum.com - 2010