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日系一世の奮闘を讃えて

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物語 - 戦後渡米者関
02 - 私の信仰 - 米国仏教放送 (1) - 竹村義明

私の信仰 (1) - 竹村義明

1964 年 5 月出版   米国仏教放送 百話

第一話   はじめに

皆様こんばんわ。
西暦紀元前六世紀の昔、四月に生まれた仏教の開祖釈尊(しゃくそん)の降誕と浄土真宗の開祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)七百回大遠忌を記念して、いよいよ今日から仏教放送を始めることを決心いたしました。(1961年4月)

先週の日曜日、愛央仏教会(アイダホ・オレゴンぶっきょうかい)にて四百人あまりの信徒が集まり盛大かつ厳粛に、花祭法要を営み、釈尊の誕生を祝いました。今日本では、浄土真宗信徒は宗祖大遠忌法要に参列せんと京都へ続々と押しかけています。アメリカ本土からも約千人の仏教徒が大遠忌(だいおんき)をめざして訪日しています。この愛央仏教会からも三十二人の方々が参加しておられます。

このような状況に於いて、私は今こそ何か特別なこと、何か記念すべきことを始めるのに理想の時と思い、この放送局 KHDC 局の支配人ゴードン キャップ氏に会い、放送を始める契約を結びました。今晩が第一回放送です。毎日曜日にこの時間、午後六時から六時十五分までお話致します。この放送の名前は「ブッディストアワー」{仏教の時間}と決めました。放送時間十五分の内、前後三分は讃仏歌を流し、説教は日英両語各六分程度です。

私がオンタリオに来て二ヶ月が過ぎ去りました。なかなかいそがしい日々ですが、毎日をとても楽しく過ごしています。昨日、一人の非日系人が「一番近くの仏教会はどこですか」と尋ねました。ご承知の如く、一番誓うの仏教会は三百マイル離れたワシントン州のヤキマ仏教会です。ヤキマの次にはスポーケンかポートランドかシアトルかソートレーキまで行かねばなりません。この広いッレジャーバレー平原に、仏教会はオンタリオ市の他にはどこにもありません。その名の示す如く、この愛央(アイダホオレゴン)仏教会は二州にまたがって、ウイザー、ベール、ジェムソン、ネッサ、パーマ、ホームデール、カードエル、ナンパ、ボイセ、ぺエット、フルーツランド、オンタリオ等の地域を受け持っています。

毎日曜の礼拝に、ウイザー、ネッサ、ベール、ナンパ地方の遠い所からやってくる人さえあります。しかし、遠隔の地に住む殆どの大人子供は、日曜の礼拝に出席されません。仕方がないと思います。しかし時には遠さを克服(こくふく)して仏教会まで足を運んで欲しいと思います。距離のため、交通の便がないため、或いは病気のために来たくても来られぬという人にも何人かお会いしました。今十人あまりの信徒の方々が、病いのために床についておられます。

仏教は二千五百年の歴史がありますが、このアメリカでは新入生同様です。仏教の名前は聞いたことがあっても、その内容を知っているアメリカ人は少数です。 この放送によって今まで仏教に縁のなかった人々にも、教えを伝えたいと思います。仏教はこの世を生きる為に必要な勇気と慰めと精神的支えを与えてくれます。
私たちは皆、阿弥陀仏の慈悲と教えが必要です。

この仏教放送の電波を通じて、これから毎週、愛央仏教会のメンバーの皆さん、並びに一般のアメリカ人の皆さんにお会いいたします。では、来週までさようなら。


第二話   ハワイ

五年前(1956年、昭和31年)、私は住みなれた日本に別れを告げて横浜私はハワイが好きです。サーフボードに乗ってワイキキの浜辺で波乗りをしたこともないし、バナナ畑やパイナップル畑も見たことがありません。ハワイに住んだこともないし、ハワイのことを良く知りません。しかし、私はハワイが大好きです。毎年十二月が近づくと、私はハワイの事を想い出します。

の港を出帆しました。アメリカへ来るというので希望に燃えてはいましたが、親しい友だちや懐かしい想い出を後にすることは、堪えられないような悲しみでした。横浜の街の明かりがだんだん遠ざかっていくのを、ウイルソン号のデッキから見る時は、いつの日に再び日本を見ることができるかと涙しました。

船はそんな私の心にはおかまいなしに、一路アメリカに向かって進み、十日後には常夏(とこなつ)の島はわいのホノルルに入港しました。船が出るまでの五時間余りの時間を、観光バスに乗ってホノルル見物をし、その日の夕方再び乗船しました。私には見送りに来てくれる人は誰もいませんが、私もテープを買って目当てもなく下に向かって投げました。サンフランシスコに行く人を見送りに来ていたらしいきれいな二世の娘が、テープをとって、にっこり笑顔を見せてくれました。さびしがっていた私には、あの人の温かい心がテープをつたってくるように思いました。名前は勿論知らないし、顔も忘れましたが、あの時の状況はいつも瞼(まぶた)に浮かびます。やがてテープは切れましたが、その想い出は忘れられないものとなりました。私がハワイが好きなのは、ただこんな小さな事からです。

小学校四年生の時、学校の教室のガラスを一枚遊んでいる時割ってしまって、放課後友達三人で教室の後ろに、水の入ったバケツを持って立たされたこともおぼえています。こんな事は、他の人から見れば何でもないことのようですが、私にとっては大きな出来事なのです。

人間は感情の動物だと言われています。木や石ではありません。人の親切には弱いし、悪口や中傷には敏感です。ちょっとした言葉、思いやり、行いが人を喜ばし、又反対に失望させるのです。人を喜ばしたり、いじめたりするのは、何も特別な事ではなく、ちょっとした言葉使いや仕草です。私たちはほめられたり、慰められたり、悪口を云われたり、恥(はじ)をかかされたりしたことは、いつまでも忘れないものです。心理学者は、人間の本能の一つは、人に褒められたい心であると云っています。だから、私達はほめられたことと、自尊心を傷つけられた事は、心にこたえて覚えているのです。

信用は、この世の中ではとても大切なものです。これを失ったら友達を失い、人から相手にされず、あわれなものになります。この大切な信用はお金で買えるものではありません。信用を得る時には時間がかかるが、失う時は早いものです。人の対面を傷つけたり、人の顔に泥(どろ)を塗ることがあれば、全てが終わりです。子供の本を読んで、宝探しの話はあっても、屑(くず)さがしの話はあまりありません。私たちも、人の落度(おちど)をさがすかわりにひとの長所をさがし、また人を不幸にすることより人を幸せにする道に心を向けたいと思います。

「覆水(覆水)盆(ぼん)に返らず」とか「後の後悔(こうかい)先に立たず」といいます。地面にこぼれた水は盆に返らず、してしまったり、言ってしまってから「しまった」と思ってもツーレートです。人に接する態度と言葉遣いには特に気をつけたいものです。私たちは知らず知らずの内に、友達を作ったり失ったりしています。果たして私たちは、友達を失いすぎてはいないでしょうか。小さな事とておろそかにしないようにしましょう。


第三話   日本時間

ジャパンタイムの意味をご存知でしょうか。これは日本での時間ではなくて、会合などに行って、決まった時間になっても会議が始まらない時に、この言葉が使われます。どうしてジャパンと言う言葉が、こんな場合に出てくるのでしょうか。宴会や会合の時、日本では時間通りに来ない人の多いのは事実ですが、この国アメリカでも、みんなが時間どうりに来るとは云えません。ジャパンタイムと云う名はインタナショナルタイム(国際時間)と変えられるべきだと思います。

決まった時間に来ながら、病院で二時間待たされた一建築家は、診察も受けずに帰ってしまい、後で二時間分の請求書を医師に送ったと雑誌にのっていました。おくれる事は癖(くせ)であり、大変悪い癖です。未熟(みじゅく)な人のすることです。自分が考えると同じように、大切な他人の時間を無駄にすべきではありません。愛央仏教会に赴任以来、私はせめてすべての事に時間励行、約束時間を守っていただくことだけでも置土産(おきみやげ)にしたいと、自分に言い聞かせています。勿論、礼拝時間はきっちり守っていきます。

入学試験とか就職試験の時、上役との会合の時、恋人とのデート、医院で診察してもらう時、ボーリングの試合の時、みんな遅れないようにつとめるために遅れる人はほとんどいないでしょう。しかし、これが町内の会合や友人との昼食などになると、さっぱり時間を守らなくなってしまいます。「時は金なり」で、全ての人にと時間は大切なものです。

時間を守ることはエチケットです。テーブル(食卓)の前に座る時には食卓のエチケットがあり、招待されたパーティ(宴会)の帰り際には主人に対するエチケットがあり、贈り物をいただいた時には、それに対するエチケットがあります。時間を守ることは大切なエチケットです。時間を守らない事は、まことに相手の立場を考えない横着な態度です。約百年前、アメリカの教育者ホーレス マンは、「約束時間に不忠実なことは極めて不まじめな行為である。」と云っています。

約束をすっかり忘れてしまったり、又は何か予期せざることが起こった場合、時間を守ることはできません。しかし、ほとんどの場合、遅刻(ちこく)はなまけ心が原因です。ある人は、故意に五分か十分、おくれてくるのを習慣としています。時間をひとたび決めたならば、みんなその時間を守るべきです。十時とか八時半とか云うと、おくれて来る人が多いようですが、約束時間を九時五十七分とか八時二十六分とか云えば、案外時間通りに来るのではないでしょうか。ボーリングや社長や上役との面会には時間を守ることができる私たちが、他の時には守れない筈がありません。

仏教は、日常生活に行うものです。おもいやり深く、謙譲(けんじょう)であれかしというのが、その教えです。時間を守ることは、一つの仏教の大切な実践です。みんな時間をまもろうではありませんか。


第四話   内股膏薬

内股膏薬(うちまたこうやく)という言葉をご存知でしょう。内股に貼った膏薬が歩く時に、こちらの足にあたるかと思うと、今度はもう一方の足にひっつくように、自分の信念がなくて心がフラフラしていることや、そんな人のことです。いわゆる腹のすわっていない人のことです。都合(つごう)の良い時にはこちらにつき、都合がわるくなるとあちらにつくというようにふらふらして、人の心をもてあそぶ卑怯な人です。この人がこう云うからこうでぃ、あの人がああ云うからああするという人です。

こういう人は、しばらくの間は割合に平穏に過ごすことができますが、やがて人から頼りにされなくなり、落伍してしまいます。しっかりした信念がないからです。膏薬は、むやみやたらに貼ってある場所から動いては、薬としての効き目がありません。だから、内股膏薬の人は、結局人としての値打ちの無い人ということになります。昔から歌われている歌の一つに「燦めく星座」があります。

 一、 男純情の愛の星の色 冴えて夜空にただ一つ 溢れる想い
    春を呼んでは夢見ては うれしく輝くよ
    想いこんだら命がけ 男の心 燃える希望だ 憧れだ、きらめく金の星

 二、 何故に流れ来る熱い涙やら これが若さというものさ 楽しじゃないか
    強い額(ひたい)に星の色 うつして歌おうよ
    生きる生命は一筋に男の心 燃える希望だ憧れだ 燦めく金の星

これは、男心を歌った恋歌(こいうた)ですが、これは人生一般にも通ずるものだと思います。「ただ一筋に」とか「想いこんだら命がけ」というのが男らしさと言ってもよいでしょう。男は信念に生きる動物だと思います。したいことがあればそれに体当たりし、信じたらどこまでも、目標に向かってまっしぐらにすすむのが男です。近頃はイージーゴーイングがふえて、難しいことや辛いことは、できるだけよけて、一時しのぎを考え、したい事や言いたい事があっても、つい尻ごみをして行わない人が多いのは残念なことです。

人間の生命(いのち)は、宇宙の長さに比べれば、まことに短いものです。この短い一生に於いて、私たちは各々が自分の目標に、当たって砕ける位の覚悟がほしいと思います。人に気兼ねばかりして、言いたいことも、したいことも遠慮ばかりしているのは、この尊い人生を無駄にするものです。自分の子に対し、親に対し、夫や妻に対し、或いは友達にするべきことを見つけ、それに精を入れることが必要です。何事も苦労なしには、実は実りません。しかし、私達が真心こめて行う時、必ず前途には明るい道が開けてくるものです。

頑固とか意地を張ると云えば悪く聞こえますが、実は必ずしもわるいものではありません。私は人がもっともっと、自分の正しいと信じた事に頑固になり、意地を張ってほしいと思います。誰が何と言おうと、正しい事は正しいのです。世間では良い事や正しい事をしても、反対に会うものです。こんな時に、へこたれて尻込みするようでは駄目です。こんな時に男の意地を出して自分の意見を主張することが必要です。後に下がる事ができない時があるものです。

しかし、相手の意見に耳を傾けないというのではありません。人間のこと故、初めは自分で正しいと思うことも、後からまちがっていた気付くことがあります。こんな時には、早速「まちがっていました。」と頭を下げてあやまるだけの勇気が欲しいと思います。大抵の争いやツラブルの原因は、自分の言いたいことばかり言って、自分が悪いと分かった時にあやまらず、握手(あくしゅ)せずに帰ってしまう所にあります。内股膏薬はやめて、はっきりとした自分の意見を持ち、正しいことはあくまで主張し、悪かった時には握手して別れる人になりたいと思います。


第五話   だるま

アメリカの子供は、雪が降ると行き投げをしたり走りまわったりしますが、日本の子供は、すぐに雪だるまを作ります。手と足のないこの雪だるまは、ただ雪をかためて積み重ねるだけで、すぐ作れます。家の中に入れば、子供はダルマのおもちゃで遊んでいます。太いまゆと、何も恐れず何もかも見抜くような鋭(するど)い目を持ち、ぐっと一文字に結んだ口元をしたこのダルマさんを覚えておられるでしょう。日本人には、とても親しい感じのする名前です。

このダルマさんは、元はインドから支那に渡り、禅宗(ぜんしゅう)の開祖となった禅宗の僧、達磨大師(だるまだいし)であり、悟りを開くために、手足が無くなるほど座禅(ざぜん)の修業をされた方だと言われています。ダルマは七転八起(しちてんはっき、七転び八起き)を示すものだというのは、この達磨大師の精神を言ったものでしょう。

おもちゃのダルマの面白さと良さは、前後左右どちらに転がされても、すぐに起き上がることです。子供にどんあにいたずらされても、いつもまっすぐに立ち、何もなっかったような顔をしています。私は時々、私達人間も、このダルマさんのようだったらよいなあと思います。七転八起とは何と良い言葉でしょう。ころ んでもころんでも、最後には必ず立ち上がるというこの精神を、とても尊く思います。

この人生には、災難、不幸、失敗はつきもので、なかったら不思議です。好き嫌いにかかわらずあ、誰でも大なり小なり、この為に何回も横倒しにならなければなりません。長い一生には、七回位のつまずきではなく百回こけることがあるかも知れません。病気、死別、別離(わかれ)の悲しみ、経済的な苦しみ、精神的な色々の悩み、心配など数えれば限りがありません。

こんな時、人は皆泣き悲しみます。時にはあまりの精神的打撃、精神的痛手のために、地面に打ちのめされたようで、しばらくは立ち上がれない時もあるでしょう。悲しみと苦しみの毎日を送らねばならない時もあるでしょう。しかし、やがて、悲しみ、苦しみ、さびしさの涙を払(はら)い、もう一度立ち上がり、にっこりと笑顔を見せるところに、この上なき人間としての尊さがあります。泣いて暮らすのが一生ではなく、苦しみと悩みに耐え忍んで強く生きることこそが、人間の在るべき姿です。夜が来ても、やがて明るい朝も来るし、寒い冬が来ても、待てばやがて暖かい春がやってきます。

私は、秋の取入れ時、忙しさと激しい労働に悩まされながらも、笑顔を浮かべてせっせと働く年とった一世の顔が忘れられません。いかにも仕事をしていますという代わりに、働くよろこびを顔一杯に見せることのできる人は本当の幸せ者だと思います。夫や子を失って、心の内では泣きながらも、それを人前では見せず、じっと我慢している人を見る時は、かえって同情が湧(わ)き、見る私達の方が泣かされます。病気でずっと床につき、動けず、自由がきかず、随分不自由だなあと思う人が、不平も云わず、穏やかな顔をして、世話をする人や見舞いの人に、心から感謝される姿を見る時は、私たちの心の垢(あか)を洗い落とされるように感じます。

人は悲しみや苦しみに会う時に、その人の値打ちが現れます。悲しくとも悲しみにまけず、苦しを内に抱きながらもぐっと耐え忍び、外には笑顔を忘れないようにしましょう。七転八起、どんな事が起ころうとも、必ずや立ち上がるというダルマの精神をあなたのものとして下さい。


第六話   渡る世間に鬼はない

「渡る世間に鬼はない」という日本の諺(ことわざ)。果たして、この世に鬼はいないでしょうか。渡る世間に鬼がいないならば、どれ程か楽しい穏やかな人生かと思いますが、世間の実際は鬼が多いのではないでしょうか。

さて、この鬼とは一体何でしょうか。私は、この鬼とは人情(にんじょう)のない人と言いたいと思います。人情のない所が餓鬼(がき)の世界であり、そこに住む人が鬼です。人間として生を受けながら、外形だけが人間で、内側に鬼の心を持つ人の多いのはまことに情けない事です。世の中が進歩するにつれて、人情は昔のもの、徳川や明治の置きみやげとして忘れられていくのはなぜでしょうか。

人情はそんなに悪いものでしょうか。悪いどころか、これこそ人間の誇り(ほこり)とすべきものであり、人としてなすべきものです。良いことが滅びていくのは、やはり末法(まっぽう)の世の中のせいでしょうか。物質万能の心の冷たい人間、善悪をわきまえない人間、鬼の仮面をかむった人間、すぐにソロバンをはじいて物を考える人間が多くなり、道徳、宗教、犠牲の精神、義理、人情とかいうひとを時代遅れのように思っています。自分では偉いと思っているこのような人たちに限って、色々と社会に害をおよぼし、迷惑をかける人が多いようです。

この間、週刊誌「タイムス」に次のような記事がのっていました。ニューヨークでの出来事です。川で溺(おぼ)れかかっている婦人を見た一青年が、服を脱ぎすてて川に飛び込み、やっとのことで助け上げて、元の場所に帰ってみれば、財布(さいふ)と共に上着は見つからなかったという実話です。この青年は、賞讃の言葉の代わりに失望を与えられたのでした。世知辛い世の中になり、人情は踏みにじられ、全てを損得に結びつけ、得にならないことはしない人の多い世の中で、このような青年っは至って少なく、その反対に人をだましたり、人の隙(すき)をうかがう人は多くなりました。人情という言葉さえ知らなぬ人が多い今の時代に、人情深くというのが無理にさえ思えます。

渡る世間に鬼はないという諺は、渡る世間に鬼多しと変えた方がよいと思います。しかし、鬼ばかりではありません。きっと貴方は今までに、困っている時に力になり助けてもらった事があるでしょう。温かい人情ほどありがたいものはありません。地獄(じごく)で仏(ほとけ)に会ったようだと言いますが、人情味豊かな人は、仏さまのように慈悲深く、人に慰めと励ましを与えます。

世の中が暗くなり、乱れれば乱れるほど、人情ある人の尊さが現れてきます。小さな蝋燭(ろうそく)の明りでも暗い部屋にある時、その闇を破るように、人情ある人はこの世を照らす人です。法句経のなかには「善き人はヒマラヤの山の如く、遠き国よりも見ゆるなり。善からぬ人は闇に放たれし矢の如く、近づけばとて見えがたし」とあります。自分は果たして、人情ある人間か、鬼に近い人間かを真剣に考えてみることが必要です。人情がいかに大切かを思い、また人から受けた情けのうれしかったことを思い、人間らしい人間になるようつとめたいものです。


第七話   他人の身になって

「仏法(ぶっぽう)は無我(むが)にて候」と蓮如上人(れんにょしょうにん」は申されましたが、自分中心の我(が)を引っ込める事が即ち「他人の身になること」です。私達はあまりにも自分の利益ばかり考えて、わがまま勝手になり、他人を蔑(ないがしろ)にしてはいないでしょうか。他人の成功をねたみ、人の不幸や失敗を喜んではいないでしょうか。何事も他人の身になって考えることができたら、どれほどこの世の中が明るくなるかと思います。

他人の不幸を見る時、その不幸を自分に置きかえてみる事ができないでしょうか。親を亡くした人を見たら、それが自分の親だったらとどうだろうと考え、子を亡くした人をみたら、それが自分の子であったらと、他人の身になってみようではありませんか。「衆生(しゅじょう)の悩みは、我が悩みなり」と言われた釈尊の言葉は、味わうべき聖句だと思います。

立場を変えて他人の失敗、不運に自分の身を置く時、そこには必ず暖かい同情が生まれてきます。他人の失敗や落度には、鵜の目鷹の目で鋭い目をみはり、成功や善行には目をつむったり、見て見ぬふりをしてはいないでしょうか。これでは、全くの逆です。自分が善い事をした時には、これを人に褒めてもらいたいと思うように、他人の成功に対しては惜しみなく賞讃の言葉を送りたいと思います。他人の成功や善行を見る時は、これを自分の手本とし、失敗や落ち度を見る時は、自分をふり返り、そんな事がないように反省したいものです。

友達との間の冷たい関係や家庭のいざこざや不和は、この「他人の身になって」という事を忘れている所に起こります。こういううれしくない話をよく聞くのは、やはり私たちが他人の身になって物を考えたり、行っていない証拠でしょう。大無量寿経の中の釈尊の言葉「世間の人民、父子、兄弟、室家、夫婦、すべて義理なくして法度に従わず。奢淫驕縦にして、夫々、意を快くせんと欲せリ。心にまかせて自ら欲しいままにし、互いに疑惑す。心と口異なり言念に実なし。心は愚かにして智少なし。善を見ては憎貶し、慕い及ぶ事を思わず」は、まさにこの事を言われたのでしょう。

釈尊の昔から二十世紀の今日に至るまで、なお私たちの心の中に悪魔のような心が住んでいることは、「他人の身になる」ことが、いかに難しいかを物語っています。でも、これは難しいからといって、ほっておいてよい問題ではありません。「人の身になる」ことは難しいが、不可能ではありません。川原の石を手にとって見られたことがありますか。水の流れで角が取れて、皆すべすべした意思ばかりです。柔らかな水がかたい石をなめらかにするように我が力に限りがあろうとも、人の身になるようにわずかづつでも努力したいと思います。この間、テレビジョンの番組「ピープルアールファニー」(人は面白い)で、司会のアーツ リンクレターが六つの子供にいくつになりたいかと聞いたら、その子供は十二歳になりたいと答えました。十二になったら兄さんより年上になり、兄さんをなぐりとばせるからだと言うのです。いつも兄さんに、いじめられているのでしょう。

お互いの立場を変えてみることは、とても大切な事です。兄は弟の気持を察し、
また弟は兄さんの気持になること、夫は妻のたちばになり、妻は夫の立場になり、
親は子の立場に、子は親の気持にもなり、若い者は年寄りの立場になり、反対に年寄りは若い者の気持もなることが人の身になることです。元気な人は病気の人の気持を考えて看護する事は勿論ですが、病人は看護してくれる人の身にもなってみなければなりません。人を雇う人は、雇われて働く人の身になり、社員は会社や社長の身にもなって、おたがいに立場をチェンジすることは本当に良い事です。そうすれば、おたがいに今まで気付かなかった多くのことが分かり、相手の人への感謝の気持と自分に対する反省の想いが湧いてきます。今日ほど「他人の身になってみりこと」が必要な時代はないと思います。さっそく実行して下さい。


第八話   お母さんありがとう

五月の第二日曜日の今日は「母の日」です。今日の午後、壮年会の男子の方々と子供さんたちが、お母さんたちをライオンズパーク公園に招待して、楽しい午後を過ごしました。朝早くから、男の人達が仏教会のキチンに来て、エプロンをかけてなれぬ手付きでサラダ、バーベキューチキン、オスシなどを作り、それを昼からパークに運び、みんなで美味しくいただきました。その後、ベースボールやフットボールをしたり、楽しくお友達と話をしたりして、この意義深い母の日を過ごしました。

仏教会では今、仏教青年会の主催の母の日パーティが開かれ、お母さんを招いて夕食を共にいただいています。青年会員の心づくしのご馳走に、お母さんたちはとても楽しそうです。夕食の後には、ゲームや余興などを行い、日ごろのお母さんのご苦労に、少しでも感謝しようという、うるわしい母の日行事です。

一世の皆さんの中で、お母さんがまだご存命の方はほんのわずかでしょう。アメリカに来てから思い通りに日本に帰ることはできないし、日米戦争などもあり、四十年、五十年前に日本を出る時の別れが最後となった方も多いことでしょう。青年会や壮年会の人達には、今日のこの母の日に「ありがとう」を言えるお母さんがあるのに、一世の人達には「ありがとう」と言いたくても、この世に母なく、心さびしく感じられる事でしょう。

一世同士の話の中で、「いくつになってもお母さんは良いもの、わすれられないものです。なつかしい想い出ばかりですよ。ははには、随分苦労を掛けたし、心配もさせました。生きていてくれたらと思いますよ。」と話されるのを聞きます。親という字は、「木の上に立って見る」と書きます。わが子の無事と幸福を、ひそかに人知れず、祈っているのが親というものでしょう。父親のきびしさにくらべて、母親の優しさは私たちには忘れるにも忘れられない、ありがたいものです。今日の母の日に当たり、在りし日の懐かしき母の面影が思い浮かぶことでしょう。「子を持って知る親の恩」という諺があります。一世の皆さんが、自分の子供を育てて、どれほど子供を育てる事の苦労が多く、難しいものかがお分かりでしょう。あなたのお母さんも、貴女を育てるために、やはり同じ苦労をされたのです。今は仏さまとなって、仏さまの国へ往かれたお母さんに、心から感謝と合掌を捧げましょう。

大無量寿経に「仮令身止、諸苦毒中、我行精進、忍終不悔」という一節があります。その意味は、「たとえ自分は多くの苦しみや苦難に会わんとも、人々の幸福のためなら、じっと耐え忍び、我慢して一生懸命はげみます」という仏様の誓いの言葉です。あなたのおかあさんの、あなたに対する想いと全く同じです。さあ、真心込めて、仏の国に往かれしお母さんに、お念仏を通して「ありがとうございます」と感謝しましょう。


第九話   独立記念日を迎えて

独立記念日が近づいてきました。今年も、全米の町々で各種の記念行事や祝賀行進などが行われる事でしょう。私はこの独立記念日の起源を思い、アメリカが今日までたどってきた苦難の道を思う時、親鸞聖人の越後への流罪を思わずにはいられません。親鸞聖人が法然上人(ほうねんしょうにん)に念仏の教えを聞いている時、この念仏の教えは日を追って盛んとなって、われもわれもと慕い来るようになりました。あまりの隆盛と評判にねたみを持った人たちは、朝廷に働きかけて策動を用いて師匠の法然上人を初め、その門弟は京都から退くことを命ぜられました。弟子の中のある者は加茂川のほとりで首を切られました。その時、法然上人は四国に、親鸞聖人は北国の越後(今の新潟県)に流罪人として送られました。

この流罪に会いながらも、親鸞聖人は歎くことなく、むしろ北国の人々に会える事ができたのも流罪のお蔭であると感謝したのでした。大抵の人にとって流罪の如きは大きな苦痛でありましょう。しかし親鸞聖人にとって、それは人々と仏さまのためにつくす絶好の機会でありました。親鸞は当時の日本の首都京都を、大きな希望を胸に出立されました。五年間の流罪生活は、退却ではなくて、それは彼の信仰の強さをためす試練でありました。もしも流罪に会わなかったら、都から遠く離れたこの北国の人々に、どうして念仏の教えを伝える事ができるだろうかと、伝道心に燃えて流罪を受け入れたのでした。

アメリカは、国歌に歌われているように、勇敢なる者と自由の人の国です。私がこの国に来た時、先輩の或る開教使が「若さはア人の好く所、愛情と権威は宗教家の両腕」と言う言葉を書いて送り、励ましてくれました。これは私の好きな言葉なので額に入れて、今も毎日見ています。第二次世界大戦で手柄を立てた二世の四四二部隊の合言葉であった「当たって砕けろ」も私の好きなモットーです。二世兵士たちは、時には優勢な敵のために前進することができず、苦戦を余儀なくされましたが、一度も退却はしませんでした。そして、「ゴーフォアブローク」(当たって砕けろ)が彼らの合言葉になったのです。

アメリカは最初の独立記念日以来、発展しつづけてきました。初めの十三州が今は五十州となりました。一七七六年の独立宣言以来のこの百八十五年は、アメリカにとり、またアメリカ国民にとって、決してなまやさしいものではありませんでした。この新しい国アメリカが、比較的短い期間に、いかにして今日世界の指導国といわあれるまで発展したかを振り返る時、一種の興奮を覚えさせます。インディアンとの争い、英国との独立戦争、メキシコとの米墨戦争、国民が南と北に分かれての南北戦争、スペインとの米西戦争、第一次および第二次世界大戦など数々の戦さを経験してきました。アメリカ人は、その間幾多の勝利とそれと同時に幾多の失望を味わってきました。奴隷解放の問題、西部への移住と開拓、新政府の構成、大恐慌による経済危機などがその苦難の歴史を色づけています。しかし、どのような苦難に直面しても、決して希望を捨てませんでした。

アメリカの強さは、この精神を身につけた一人一人に存しています。今年も又この独立際を祝うに当たりあ、アメリカ歴史の底を流れるこの尊い精神を私達の心に留め、仏の教えを深く信仰し、毎日の生活に於いて自分に与えられた責務に対して勇敢に力いっぱい取り組みましょう。


第十話   貧者の一灯

加州のサンタバーバラ仏教会から転任でサクラメントにあるフローリン仏教会に移って間もなくのことでした。その時、フローリン仏教会には古ぼけたピアノがあって、どうしてもオルガンが必要だと誰もが思っていた時です。丁度仏教会創立四十周年を間近かにひかえて仏教会を増築中であり、オルガンを買うのは到底不可能に思えました。

ところが、まことに思いがけない事が起こりました。このオルガンの話を聞いた一世の婦人会メンバーが私たちで寄付さしていただきましょうと申し出てきたのです。婦人会員有志が自分の小遣いを出し合った寄付によって、三日目には早くも立派な電気オルガンが仏教会聖堂に備えつけられました。

これを知ったみんなの驚きは想像以上でした。お金が沢山ある人たちが寄付をしたのではありません。自分たち一世は年老いて、いつ死ぬかも分からぬ者で、オルガンはなくても差し支えないが、育ちゆく三世の孫たちが喜ぶのならという温かい親心からの寄付だったのです。一年一年と数少なくなっちく一世ではありますが、あのオルガンから流れる美しいミュージックを通して、三世四世の子供たちが、いついつまでも見知らぬいっせいの婦人を想い、感謝するこだろうと思います。一世婦人の真心こもったあのオルガンからは、今日もまた一世の「母のごとくやさしい」調べが流れ、それに合わせて可愛い三世の子供たちが声を合わせて、元気に讃仏歌を歌っていることでしょう。私はこのことを思う時、真心に勝る贈り物はないなあと感じます。

「貧者の一灯」(ひんじゃのいっとう)という話をご存知でしょう。お釈迦さまがマガダ国、王舎城で説法していた時のことです。国王アジャセは、供養のためにと夜になると大きな灯明をここかしこにともしました。この時、王舎城には一人の老婆が住んでいました。彼女も又どうかして御供養をしたいと思い、食べ物も買わずにわずかばかりの油を買って、真心こめて小さなともし火を捧げました。夜中に吹いた嵐の中にも、この貧しい老婆の一灯は、唯一つ消えることなく、夜通し灯っていたのでした。贈り物はお金や物だけではありません。真心に勝る贈り物はありません。

観仏三昧経の中に、「衆生の苦しみを受くるを見ては、矢の胸に入る如く、眼目を破るが如し。心極めて悲痛し、あまねく体、血を流して彼の苦しみを抜かんと欲す」といい、又、法華経の中には「今この三界はわがものなり。その中の衆生はことごとくわが子なり。しかのここに苦難多し。ただ我一人よく救護をなさん」と釈迦仏の慈悲を表しています。これが、仏さまの私たちに対する真心です。親心です。与えてもなお与えたい仏の大きな慈悲にくらべれば、私たち人間の心ははるかに限りがあります。しかしながら、一切衆生悉有仏性、すべての人は仏性(ぶっしょう)を持っていると教えられています。人の心を動かすのは、フローリンの婦人明きの人やインドの貧しい老婆の例えの如く、私たちの真心、仏性です。たとえ、私たちが死んでしまうとも、私たちの真心は子から子へ、いつまでも伝えられていくでしょう。真心こそ、永遠に残る宝です。私たちはその宝である仏性を一人残らず持っています。この宝を持ちぐさりにせず、末代に伝えようではありませんか。


第十一話   ナポレオンとパスツール

一月十六日は親鸞聖人の御命日で、真宗教徒は報恩講をいとなみ、親鸞聖人の恩徳を偲ぶのが常となっています。私は平安高校と龍谷大学在学中、伯父のいる親鸞聖人往生の旧跡である京都の角坊(すみのぼう)別院に居りましたので、一月がくると殊更に親鸞聖人のことを想います。

昨年は七百回大遠忌法要が行われ、今年は亡くなってから丸七百年に当たります。十年一昔といいますが、七百年はまことに遠い昔のことです、よれにもかかわらず、聖人の残した教えは人から人へと伝わり、聖人を開祖とする浄土真宗は二十世紀の今日では日本の代表的仏教とまで成長しました。そして、七百年の昔、地味な一生を送られた親鸞聖人は、今では浄土真宗と言えばすぐに親鸞と言われるほど、人々に愛される人となりました。

最近、フランスで興味深い調査の結果が発表されました。「フランス歴史の中で、貴方はどのフランス人が一番好きですか」という世論調査にたいして、フランス人は誰を選んだと思いますか。一番人気のあったのは、予想を裏切ってパスツールという科学者でした。ナポレオンの名はしっていても、パスツールの名を知らぬ日本人は多いことと思います。ナポレオンは、かつてはイタリヤを破り、オーストリアを攻め、スペイン、ドイツを従え、イギリスを除くヨーロッパ諸国はすべてナポレオンの命令に従い、その名をほしいままにして、フランスの名を高からしめた英雄でした。これに反して、パスツールはどんな人だったでしょうか。

パスツールは、ナポレオンのように派手で人目に立つような人ではありませんでした。しかし、パスツールはちがった意味での英雄でした。彼は毎日、顕微鏡に向かって黴菌(バイキン)の研究をし、多くの人を伝染病から救った人なのです。恐ろしいタンソ病も狂犬病もジフテリヤも、皆このパススールが発見した予防注射により、いまでは未然に防ぐことができます。

脳溢血(のういっけつ)で、半身不随になりながらも、最後まで人類救済のために闘ったパスツールの尊い奉仕の精神こそ、フランス国民の心を動かし、ナポレオンを追い越してフランスの真の英雄としたのでしょう。昔は大将とか、戦争で手柄を立てた人が英雄にまつりあげられていましたが、今の時代の英雄とは、もはやそんなひとではなく、人類愛、人間愛に燃え、その理想に向かって努力精進する人です。そのような人のした行いは、私たちに心ほのぼのとした温かさと安らぎを与えてくれます。

パスツールは、何故に多くの人からかくも愛されたのでしょうか。それは他でもなく、人の悩みと共に生き、その悩みの解決に我が身を忘れて献身されたからです。親鸞聖人が亡くなって七百年たつ今日、なおその法灯は受け継がれ、聖人のお墓のある京都西大谷には線香の煙が絶えぬのは、やはりその一生を通じて、人の悩みを我が悩みとし、人々と共に歩まれたからだと思います。

源頼朝(みなもとよりとも)と親鸞聖人は、五十年ほどしか時代の隔てがありません。高校の修学旅行で鎌倉へ行った時に源頼朝のお墓におまいりしましたが、これが買って日本を統一し、征夷大将軍といわれた人のお墓かと思った事を思い合わす時、私はナポレオンとパスツールの場合と余りにもよく似ているのに驚きます。親鸞聖人の命日を間近に控え、私達はもう一度、この親鸞聖人の人柄を偲び、よく残された教えを受けついでいきたいと思います。


第十二話   母の日に当り

一世のご家庭を訪問してお話していると、どの一世も口をそろえて同じような事を云われます。「先生、息子や娘は結婚して他所(よそ)へ行ってしまって、淋しくなりましたよ。孫はおもちゃをやっても、親について私等には中々なついてくれないし、さびしく思います。昔、子供を育てる時は、随分苦労も多かったけど、楽しみもありました。今は何となく悲しい気がします」歳(とし)をとって、体の調子が少し悪くなり、その上、育ててきた子供たちが自分自分の家を持って出て行ってしまって、さびしさがそういわせるのでしょう。

来週の日曜日は「母の日」です。しばらくの間、皆さんのお母さんのことを思い出してみましょう。一世の皆さんが四十年、五十年前にアメリカへ来られた時、皆さんはお母さんを日本に置いて来られました。そして、その時の別れが、母子の最後の別れとなった人も数多いことでしょう。一世の皆さんのお母さんは、もう殆んど亡くなってしまったこでしょう。いくら会いたくても、もうこの世では会うことができません。来週の母の日は、皆さまには一しお感慨深いことでしょう。この世の中で、親ほど、お母さんほど良いものはありません。親の子供に対する愛情は、仏さまの衆生に対する慈悲に等しいとさえ云われています。

皆さんは、日本を出る時、「四、五年もしたら帰ってきますよ」と言って出てこられた方が多いことでしょう。雨の日も風の日も、わが子の帰りを今や遅しと指折り数えて待っているお母さんの姿を想像してごらんなさい。涙が出てくるでしょう。太平洋をはるか離れたアメリカにいるあなたの事をひと時もわすれず、今日か明日かと、待って、待って、待ち通しに待ったお母さんも居られるでしょう。わが子が帰るという、うれしい夢もやがては悲しい夢となり、待ちぼうけにあって、亡くなったお母さんもいるでしょう。母が病気ときいても、お金がなかったり、飛行機もない時代なのですぐにも行けず、また親の死に目に会えなかっお金を、親は貧乏をしながらも一銭も使わずに、我が子が日本に帰ってきた時のためにと、貯金に入れて残しておいたという話はよく聞く話です。今の貴方のさびしさよりも、日本に置いてきたお父さん、お母さんのさびしさ、悲しさの方がどれほど大きいか分かりません。

親孝行とは、親を安心さすことです。物をあげることだけが親孝行ではありません。親に「安心を与えること」が一番の親孝行です。どうか次の日曜日には、教会へお参りに来て下さい。忙しい人もあるでしょうが、しかし、限りない苦労をして育てて下さったお母さんに、感謝する礼拝です。仏さまを拝む時、なつかしいお母さんを見ることができます。今は仏さまとなられた、あなたの唯一人のお母さん、優しいお母さんに感謝しましょう。


第十三話   フロンティア精神

明後日(あさって)の七月四日は、フォースオブジュライで独立祭(どくりつさい)です。一七七六年七月四日、議会に於いてトーマス ジェファソンが起草した独立宣言書が承認されて、アメリカ合衆国がイギリスの植民地から独立し、独リ立ちするようになった記念すべき日です。

この日から、今年は百八十五年が過ぎ去りました。東洋や西洋の古い国に比べれば、アメリカはまだ本当に新しい若い国です。コロンブスが一四九二年にアメリカを発見してから四百七十年、清教徒ピューリタンが最初の移民としてアメリカへ来てから三百四十年にしかなりません。このあたらしいくに、アメリカがこの短い期間に、よくも今日の隆盛を築きあげたことかと驚くばかりです。

このアメリカの発展を通じての精神は、何と言ってもフロンティア精神、パイオニアスピリッツでしょう。東海岸から安住の地を求めて、見も知らぬ土地をただ西へ西へと、馬の背中やワゴンにゆられて、ミシシッピー河を渡り、ロッキー山脈を越えて、昼も夜も旅を続けた何事にもくじけない開拓者精神こそ、アメリカ精神の基盤と言えるでしょう。

バファローやインディアンと闘い、雨風に悩まされ、高山、大河、砂漠等の数々の自然の障碍に会いながらも、それに打ち勝った不屈の精神こそ忘れてはならないことでしょう。私たちが毎日楽しく見る映画やテレビの西部劇も、当時の人々には血みどろの涙の記録と言えるのではないでしょうか。歌を歌い、ダンスに打ち興ずるアメリカ人の明るい半面に、このような厳粛な一面のあることを忘れてはなりません。

私はこのアメリカ発展の歴史を振り返る時、それが一世移民の物語と余りにもよく似ていることに驚かされます。大きな夢を胸に抱いて五十年、六十年前にアメリカ大陸に来られた時に、移民一世を待っていたものは幾多の悪条件と試練でした。今の二世のように恵まれた環境ではなく、当時は排斥もあったし、仕事も肉体労働に限られていました。言語、習慣、住宅などのかずかずの困難の中でも、子供には「一世の惨めな生活」をさせたくないと、朝は早くから夜は星が空にまたたくまで、芋粥をすすりつつ汗水流して働かれました。明治に育った一世の中には、やはり「何くそ。こんなことでへこたれるものか。がんばるのだ」という大和魂が宿っているのでしょう。

九条武子夫人は、その著「無憂華」(むゆうげ)の中で異国に働く人々に深い同情をこめて、「故国はもはや望めども望み得ぬ、遠い海のかなたにある移民として働く人たちは、桜咲く頃になれば、はるかに故国の春をしのぶであろう。なつかしき過去への告別は、新しき開拓への第一歩である。ボーガンベリアの咲き乱れる野、サボテンの生い茂れる山々、それも又ことごとく美しく耕されるであろう。その時は又、新しい大和民族の墓もふえているにちがいない」と言っています。どんなにつらくても、一世の人たちは常に正直(オネスティ)と勤勉(ハードウォーキング)を念頭にがんばり通されました。私はこの一世の精神を、開拓者精神、パイオニアスピリッツと呼びたいと思います。

ボーガンべりアの咲く荒野もサボテンやセイジブラッシュの生い茂る砂漠も、一世により美しく耕されました。それと同時に、多くの日本人もアメリカの土となられました。あれほど強かった一世も弱られたのでしょうか。それとも暑さのためでしょうか。一世の終わりの時代が来たのでしょうか。数多くの一世が次々に亡くなっていきます。

独立祭には花火が上がり祝賀行進も全米各地で行われ、アメリカ国民すべてが独立を祝い、同時に今日の発展に貢献された方々に感謝する日です。今年も又この独立祭を迎えるに当たり、二世のために、又アメリカのために尽力された一世の方々にも、心からの敬意と感謝を捧げ、同時に御健康と御多幸を念願いたします。


第十四話   三毒の煩悩

今年も愈々残り少なくなってまいりました。この一年間に、あなたのご家庭には色々の事が起こったことでしょう。悲しいこと、つらいことなど振り返れば限りがないことでしょう。病気はされなかったでしょうか。四百四病と言われている如く、沢山の病いがあり私たちを悩ましますが、今お話するのは、肉体的病気ではなくて心の病気についてです。

釈尊は、心の病いには三つの病気があると教えられました。貪欲(貪欲)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の三つです。他人の泣き悲しむ姿を見ても助けを延べず、自分の欲ばかりを考え、永久の欲求不満でどれだけあってもまだ足りず、その為には他の人を陥(おとしいれ)たり、いじめたりするのが貪欲であり、自分の気に入らない事があると、小さな事にでも腹を立てたり怒ったりするのが瞋恚であり、困ったことや苦しいことがやってきた時、これをどうしても乗り越えようと思う代わりに、不平を言ったり過ぎ去ったことばかりに心をとらわれているのが愚痴です。

この貪欲、瞋恚、愚痴の「三毒の煩悩」(さんどくのぼんのう)を持つ人は病人であり、健康正常な姿ではありません。体の病気になると、心が憂鬱になるだけでなく側にいる人にまで心配と迷惑をかけるように、三毒の煩悩を持つ人は、自分だけでなく他の多くの人々に害を及ぼします。


第十五話   さしみ と からし

十月十二日はコロンブス・デーと呼ばれ、今から四百七十年前の一四九二年十月十二日に、イタリヤ人のクリストファー・コロンブスが初めてアメリカを発見した事を記念する日です。当時の人々は地球は平らなものであると思っていましたが、コロンブスは地球は丸いと信じ、船で西へ西へと進めば東洋の国インドに到着できると信じたのでした。

幸いにもスペインのイザベル女王の助力を得て、三隻の小さな船に百人足らずの乗組員を乗せて、八月にこの未知の航海に出発しました。二ヶ月余りの末、フロリダに近いバハマ諸島のサンサルヴァドアに上陸する事ができました。コロンブスはアメリカに着いたとは夢にも思わず、すっかりインドに着いたと思って、そこに住んでいた原住民をインディアンと呼びました。インディアンとは、日本語になおすとインド人という意味です。

この頃までに、すでにスペインやポルトガルの商人達は、東洋の絹や金(きん)の貿易にインドや中国シナに東回りをして来ており、特にマルコ・ポーロは「東洋見聞記」という本を書いて盛んに東洋への魅力を掻き立てました。マルコ・ポーロはその本の中で「日本は東海の孤島なり。この国は黄金多くして宮殿、家屋は皆黄金を以て屋根を葺く。国民皆富む」と書きました。ヨーロッパの人々にとって、黄金のなる木のあると言う日本は、たまらない魅力だった訳です。コロンブスはこのような東洋へ、初めて西回りで行こうとした人なのです。アメリカの発見が、このように日本とも深い関係のあることを、とても興味深く思います。

アメリカは、まだ本当に新しい国です。コロンブスが発見してから五百年にもなりませんが、世界各国から新しい天地を求めてやってきた移民 ―皮膚の色の白い人も、黒い人も、黄色い人も、茶色の人も、皆が一体となって新しい国アメリカを築き上げ、いまや世界の中心國に発展しました。然し、この背後には幾多の犠牲が払われ、苦難の歴史があることを忘れてはなりません。

アメリカの一歴史家は、「アメリカは最初、偉大なる土地であった。しかし、これをアメリカ人が偉大なる国にした」と言いましたが、誠にこの言葉は、荒れ果てた広大な土地に移民としてやってきて、合衆国建設と発展に努力した事情がよく表されています。荒れ果てた土地から、偉大な国家までのアメリカの歴史は、血みどろの、けわしい、いはらの道で綴られています。

人生もまたアメリカ歴史とかわらず、容易な者ではありません。特に故国日本から異国アメリカは来た人達は、人一倍人生のつらさや悲しみを経験して来られました。何でも自分の思うようになれば何の苦まなく暮らせますが、人生はそんなに甘くありません。「いつも三月花の頃、女房十八わしゃ二十(はたち)、死なぬ子三人皆孝行、使って減らぬ金百両、死んでも命のあるように」は、夢物語であり現実の人生には通用しません。人生の苦難に負けてしまっては、人生の敗北者になってしまします。西瓜(スイカ)に塩をかけて食べるとその甘さが増し、さしみにからしをつけると、さしみが一層おいしくなるように困難苦労もそれを耐え忍ぶ時、それがよき刺激となり人生をより意義あるものにしてくれます。コロンブスデーを迎えて、アメリカ歴史を振り返り「若い時の苦労は買ってでもせよ」という日本の諺を深く味わいたいと思います。


第十六話   病床にある人へ

寒さがひときわきつくなり、外に出れば骨に染(し)み通る寒させす。今晩は特に病気でお休みの方々に、お話したいと思います。一々お宅へお邪魔してお見舞の言葉を申し上げる筈ですが、今晩はこの放送を通じて一言お見舞とお願いを申し上げます。昨日は五十六年ぶりかの大雪が降り、気温も零下二十五度にもなり、スネークリバー河には氷が張って、河の上を歩けるほどにもなりました。

病いの床にある皆様も、窓から外の雪景色を眺めて、色々の想いに駆られておられることと思います。人間にはいろいろの悩みがありますが、体の不自由なことも又大きな悲しみです。健康な人を見る時は、自分もあのように元気だったらと、さぞ情けなく残念に思われることでしょう。いつも家の中ばかりにいる皆さんは、もし病気でなかったら外へ出て雪の中で跳びはねたいような気持で一杯なのではないでしょうか。人間にとり健康な事は、どれほど喜ぶべきことであるかを、病気の皆さんはよく ' ご存知です。どうか、健康な人に、よくこの事を云って上げてください。体を大事にしなさいとみんなに教えて下さい。病を通してのこの尊い経験を私たちにお教え下さい。

体の元気な者は、自分が病気になったら途想像するだけでも悲しいのに、実際に今病気の人は、どれほどか心が痛むことでしょう。しかし、それを我慢してそれに打ち勝とうとする皆さんの態度は、本当に立派だと思います。どうかいつまでも希望を捨てず、よく養生をして一日も早くよくなっていただきたいと思います。行きたい所にも行けず、したい事も自由にできず、見たいものも見る事ができない皆さんは、元気な人にくらべれば、いろいろと制限されています。しかし、貴方たちは元気な人以上に、静かに考える時間を持っています。

古い経典の中に「世界は光で満ち満ちたり。仏陀出世の時、盲人は目開き、聾唖の人は互いに語り合い、猫背の背中はまっすぐになり、びっこの人は足のびて歩みぬ」(ボール・ケーラス著「仏陀の福音」私訳)という一節があります。私は病気の方に、特にこの言葉を味わっていただきたいと思います。実際に、身体障害のある人が、目が開き、耳が聞こえ出したり、しゃべったり、背中や足が伸びたというのではのではありません。医者にも行かず、手術もせずに目が見えるようになったり、背中がまっすぐになるはずがありません。釈尊がいくら偉人でもそんな事はできませんでしたが盲人の心の目を開き、肉体の背中を伸ばす事はできなくても歪(ゆが)んだ心をまっすぐに伸ばし、心明るい人とされました。

経典の言いたいのは、体のハンデキャップはなくすることができなかったが、仏教の教えを聞いてから精神的に生まれかわった人となり、心はもはや体の制約から離れた自由な、幸せな人になったということです。体は不自由でも、精神的に幸せな人になるということ、このことが皆さんに今晩お話したい事なのです。

信仰を持つと、すべてのものが感謝に変わり、日ごろは不平不満に思うものにさえ、感謝できるようになります。病人のいる家は、どうしても陰気で暗くなり、憂鬱な雰囲気になるものです。悲しむのは病人だけではなく、家族の者もどれほど悲しいか分かりません。自分の妻、夫、兄弟、子供、あるいは親が病気になって悲しまない人はありません。それなのに、病気の人が悲しい顔ばかりしていたら、まわりの者がどれ程、余計に心が痛むことか考えてみて下さい。

体の具合が悪い時は、ちょっとした事にでも不平を言いたいもので、世話してくれる人の態度が物足りなく感ずるものです。しかし、病人を放って置こうという人はいません。自分の仕事をして、その上、病人の世話を来る日も来る日もすることは、並大抵のことではありません。どうかよくなってほしいと祈り、看護したり、見舞いに来て下さる人の気持に感謝して下さい。感謝する気持ができると、自由な平和な気持になりますから、案外体も楽になり病気も早くよくなるものです。どうか、病気の方々、しっかり養生して明るい笑顔を取り戻した下さい。


第十七話   人の価値

皆様こんばんわ。お変わりございませんか。八月がやってきました。連日百度を超える暑さが続き一世の皆さんには少し体にこたえる事でしょう。無理をしないようにして、この夏をお過ごし下さい。「光陰矢の如し」といいますが、私がこのオンタリオへ来てから、丁度六ヶ月が過ぎ去りました。寒かった二月も、早暑い八月と変わりました。今晩もまた、しばらくの間「人の価値」という題でお話させていただきます。

私たちは日常の会話の中で、「あの方は出世されましたね」とか「あの人はもう少し出世すると思ったのに出世しませんでしたねとか{あの人は偉い人ですね」とか言います。しかしながら、私達はこれらの何気なく使っている言葉を、もう少し深く立ち入って考えてみなければならないと思います。そんな時、私たちは普通、その人の家柄、身分、職業、財産などによって、その人の値打ちを決めてはいないでしょうか。果たしてこれは正しい事でしょうか。

お釈迦さまの生まれた二千五百年前のインドでは、カーストという階級制度があり、生まれによりその人の一生が左右されていました。百姓の子に生まれた子は一生百姓であり、奴隷の子として生まれた者は、どれ程能力才能があっても奴隷の身で終わらねばなりませんでした。そんな時代に、釈尊は、

    「人は生まれによって聖者となるのではなく、また生まれによって
    賤(いや)しき人になるのでもない。人はその人の行う行為により
    聖者となり、賤しき人となる」

と云い、もって生まれた家柄とか身分とか、職業とか貧富によって人の価値は決まるのではなく、その人の行いによって決まると言い切られたのです。家柄が良くてお金が沢山あろうとも、その人の行いが悪ければ、その人の値打ちはなくて賤しきひとであり、その反対に、身分やお金はなくても心と行いがすぐれたものであれば、その人は聖なる人、立派な人であると教えているのです。二十世紀の今日でも、ともすれば私たちは家柄や財産、職業度により人を判断しがちなのに、二千五百年も前にそうではないといった釈尊の偉大さに驚かされます。

釈尊はこの事について、随分反対にも会われましたが、でも自分の信ずる道を勇気を持って堂々と述べられた釈尊は、今ではアジアの光、世界の光とあがめられて、その教えは燦然と輝いています。釈尊の説法の相手は、子供から大人まで、奴隷階層から国王まで、すべての人々に及んでいました。三十五歳で悟りを開き仏(Buddha)となってから八十歳で入滅するまで、四十五年の長い歳月を、来る日も来る日も、町から町へ、村から村へと人類救済のために捧げられました。その長き伝道生活中には、国王にも、富豪にも、乞食にも、家庭の主婦にも、子供にも、娼婦にも、奴隷にも、商人にも、農夫にも兵士にも、またある時は殺人者にたいしても教えを説かれました。そして、行いこそが人の価値を決める基準である事を教え、正しい道を踏み行なうよう導かれました。

これからは、「あの人は貧乏だから」とか「家柄が悪いから」とか「学問が無いから」とか、そんな言葉は言わないようにつとめたいと思います。人間の価値はそんな所にあるのではなく、釈尊の言われた如く、その人の行いの上にあるからです。


第十八話   正しい行い

先週の日曜日には、お釈迦さまが人の価値、人の値打ちはその人の家柄、身分、職業、財産、学歴などできまるのではなく、その人の行いこそ一番大切なものだと言われたとお話しました。それで今晩は、その正しい行いとは何か、ということについてお話致します。

「十人十色」ということわざ如く、私たちの住んでいる社会にはいろいろな人がいます。何事も、人一倍自慢して見栄を張りたい人、又その反対に悲観的に物を見る人、いつも心がふらふらして自分の信念のないお天気屋の人、なまけぐせがついた人、人に嫌がらせをする根性の曲がった人、人の不幸を見て喜ぶ人、昔の事を想いだして今の生活に愚痴ばかりこぼしている人等、まことに色とりどりです。でも、こんな人ばかりではありません。人には親切で、思いやりがあり、人の嫌がる仕事を先に立ってする人や、自分に与えられた仕事をただ黙々と励む人や、何事も良いほうに、何事も善意に解釈して、人の欠点を見つける事に一生懸命にならずに、人の良い点を見つけようとしている人もいます。

このような色々の性質の人の寄り合い世帯が人間社会です。だから、この世間を一生平安に過ごすことは並大抵のことではありません。「人を見たら泥棒と思え」ということわざと、「渡る世間に鬼は無い」というこの二つの全く反対のことわざが、この背の中をよく言い表しています。大きく二つに分けると、一方では他人の不幸を喜ぶ人があり、また片一方では他人の幸せを喜ぶ人があるということです。自分は果たして、この二つの内のどちらの人間だろうか、人をなかせてはいないだろうか、人に迷惑ばかり掛けていないだろうか、深く反省してみたいと思います。

仏教には、正しい行いの基準として六波羅蜜(ろっぱらみつ)(六度ともいう)があります。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つです。第一の布施(ふせ)とは何でしょうか。みなさんは、さぞこの言葉を聞いた時、開教使や仏教会にあげるものだと思われるでしょうが、それは布施のほんの一部分の意味にすぎません。布施とは、ほどこしという事です。それはお金だけではありません。親切、友情、笑顔、優しい言葉のほどこしも立派な布施です。皆さんの家族の方たちに、ご親戚に、或いはお友達に、そんなお布施は如何でしょうか。親切、友情、真心、笑顔、やさしい言葉を上げること、・・・・私はこれこそが本当の布施だと思います。

第二は持戒(持戒)です。持戒とは、心正しく、ひととして踏み行うべき道を守り、社会できめられた法律や規則を実行する事です。第三の忍辱(にんにく)とは、悲しい時、苦しい時、つらい時、くやしい時、或いはさびしい時に、ぐっと我慢して耐え忍ぶ事です。私たち凡夫にはなかなか難しいことです。第四の精進(しょうじん)とは、なまけ心に打ち勝って、全精力を打ち込んで自分の務めや仕事にはげむことです。

第五の禅定(ぜんじょう)とは、精神統一という意味であり、心を落ち着けて物を考え、実行することです。名案、良策は精神が統一してこそ生まれてきます。最後の智慧(ちえ)とは、世の中の物や出来事をありのままに見ることです。自分の欲や執着を離れて、物事を冷静に見ることです。釈尊はこの六つこそ正しい行いであり、私たちにこれを実行する事をすすめて下さったのです。これを実行する時、私たちは真の仏弟子となるのであり、この地上に平和が訪れてきます。最後に法句経の一句を読んで今晩の放送を終わります。

         心ふるい立ち 思いつつましく
         心を用い 行いを清くし
         自己をととのえ 法にしたがう
         かく、はげみある人に ほまれは高からん


第十九話   自己反省

お盆もすみ、又、日本で毎年八月に大阪甲子園球場で開かれる全国高校野球も十五年ぶりに浪商が優勝したとかで、九月が目の前にやってきました。暦の上では九月は秋でも、この愛央地方はまだまだ暑さが続くことでしょう。今晩もしばらくの間、反省という題でお話させていただきます。

浄土真宗の開祖親鸞聖人は、その著「教行信証」(きょうぎょうしんしょう)の中に、「誠に知んぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して・・・・ 恥ずべし、痛むべし」と痛切な自己反省をして、自分が愛欲に迷い、名誉や損得のことに心を奪われて、仏さまのお救いを喜ばない自分であると、自分を恥じ悲しんで居られます。

無理が通れば道理引っ込むのことわざの如く、この世は自分の考えや意地ばかり通しては丸く行きません。家庭でも、友達の間でも、不幸の原因は自分さえよければよいという独善主義や他の人はどうでもよいという排他主義だと思います。私たちは、お互いに助け合い、ゆずり合って生活するように運命づけられています。自分ひとりで生活できると思ったら、大きなまちがいです。病気の人ばかりでなく、体の元気な人でも、じっと考えてみれば実に多くの人のお蔭で生活させていただいています。仏教では特に父母、国家、国民、三宝(仏法僧)の四恩(しおん)の恩恵を教えています。

この人生は平坦なものではなく、雨もあれば風もあり嵐もある悲喜こもごもの人生です。楽しさ、喜びだけではなく、悲しみや苦しみと織りあったものが人生であり、それだからこそ楽しみも湧いてくるのでしょう。それは丁度、登山をする人がWざと難しい山を選び、あらゆる危険を冒して命を掛けて山にいどむのと同じことです。低くて子供でも上れる山ならば、征服の感激も小さいが、登山は難しければ難しいほど、後を振り返る時にはその喜びも大きいものでしょう。一九五三年に世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈のエベレスト山は、初めてイギリスのヒラリーとネパールのテンシンの二人により征服されましたが、その記録を見ると、その成功は英国登山隊がいかによく天候や地理を調べ、準備を整え、訓練をつみ、意思を鍛錬したことの賜物であったかがよく分かります。

人生の成功や勝利も、やはり登山と同じく易しい道ではありません。数多くの試練、辛苦が横たわっています。その中でも特に難しくて、しかも大切なものは対人関係、即ち人と人との付き合いです。これのうまくいかない人は、人生の落伍者となり、反対にうまく乗り切った人は人生の勝利者となります。大和時代の最高の知識人であり、日本文化の父と呼ばれる聖徳太子は、この対人関係について有意義な言葉を十七条憲法の中に残して下さいました。

「いかりを絶ち棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心有り。心おのおの執れる事有り。彼、是ならば、すなわち我、非なり。われ是ならばすなわち彼、非なり。我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず、共にこれ凡夫のみ」(第十条)

人はみんな各自違った考え、意見、欲望を持っていて、自分がこう思う事も他の人はそう思わず、他の人のいうことは受け入れられない事が多い。だから、人と付き合う時には、自分が必ずしも立派な者、聖人ではなく、また他人は必ずしも愚か人でないと常に心しておくべきだと教えています。自己反省することは、前進することだと思います。互いに尊敬し、愛し合い、助け合い、そして自分を反省しつつ生活することが大切だと思います。


第二十話   新年を迎えて

明けまして新年おめでとうございます。一九六二年が皆様にとりまして、良き年でありますよう念じます。法句経に「村の中に、森の中に、海に、また陸に住まんとも、仏陀の住むところ皆楽土なり」と記されています。仏陀釈尊は何よりも人の幸福に心を向けられた人です。幸せを望まない人は誰もいません。みんな物質的にも精神的にも幸せになりたいと願う人ばかりですが、仏陀は物質的に裕になる道を教えた人ではありません。ものはなくても、精神的に豊かな人、幸せな人になる道を教えた人です。

時には、母親の如きやさしさといたわりを、また時には父親の如ききびしさといましめをもって人を導きました。古い経典の中には、しばしば「妙なるかな世尊、倒れたるを起こすが如く、覆われたるを露わすが如く、迷える者に道を教えるが如く、暗闇の中に灯火をともして眼ある者は見よというが如く、世尊は様々の方便をもって真理を顕し示したまえり」と仏陀釈尊に対する帰依の心を表しています。釈尊は四十五年の伝道生活中、休むことなく、老衰のため歩むことができなくなり、力尽きて倒れる日まで幸福の道を説いて廻りました。

この幸福の道こそ仏教です。村、森、海辺に住む人も、すべての人が釈尊の教えにより心幸せな人となり、釈尊の行く所すべてが楽土、楽しき幸せな世界と変わりました。釈尊は、菩提樹下で悟った四諦八正道こそ、苦しみや悩みを除く道なりと信じ、真心込めて説いて廻りました。

自分が固く信じ、言いたいことがある時、話にも熱が入り聞く人も耳を傾けるものです。農夫も商人も国王も家庭の主婦も子供も皆、この釈尊の教えに耳をかたむけました。中には、アングリマーラという人殺しまでいましたが、一たび釈尊から教えを聞くと、心入れ替えて生まれ変わった人となりました。独り子を亡くして悲しみに沈むキサゴータミのような年若き母親も、釈尊の導きにより、人生のはかなさと人の弱きことを知り、全てのひとは愛し合うべきことを学んだのでした。学問がなくて字も書けず読む事もできなかったシュリハンドクは、釈尊からほうきを与えられ、ごみを掃くことにより釈尊の教えを理解し、やがて煩悩をはらい、十大弟子の一人とまでなりました。迷える人は道を教えられ、倒れたる人は抱き起こされ、心暗き人は明りを与えられたのです。

アングリマーラ、キサゴータミ、シュリハンドクは、ほんの氷山の一角です。数限りない人々が釈尊の恩恵を蒙りました。釈尊は誠に偉大な人でした。二千五百年を経た今日、なおアジアの光、世界の光と慕われるのもむべなるかなと思われます。臨終近きを知り、泣き悲しむ人々に、「自分亡き後は今までに説いた教えが汝の師であり、教えを依り所とせよ」とさとされたと伝えられています。仏陀世尊の肉体はなくとも、仏の教えのある所、町も村も家庭も職場もすべて平和が訪れます。一九六二年がやってきました。一年の計は元旦にあり。年の初めに当り、この一年を有意義におくりたいと切望します。常に仏の教えに信仰深く、日々を感謝の内に生活したいものです。そうする時、必ず幸せはやってきます。仏の教えのある所はどこも楽土だからです。


第二十一話   報恩講を迎えて

報恩講(ほうおんこう)が近づいてきました。宗祖親鸞聖人が九十歳を一期に仏の浄土に還られた日にちなんで、私たち真宗教徒が親鸞聖人を偲び、心からの感謝を捧げる集まりです。報恩講とは、その字の示す如く御恩に報いる集まりですが、さて、そのご恩に報いるのに何をすれば良いのでしょうか。こう考える時、私は釈尊が入滅前に、悲しみのために泣きつつ見守る弟子達に言われた言葉を思い出します。「形あるものはすべて亡び、生あるものに死は避けがたいものである。形あるものがすべてとは思うな。たとえ私の身体は消え去るとも、今まで説き示した教えに従う時、私とは離れず、それが一番私に誠実な者である」と言われたと伝えられています。

親鸞聖人去ってすでに七百年の歳月が過ぎ去りましたが、私たちの気持には七百年の時間は問題ではありません。この目で見ることが出来ないという悲しみはありますが、残された教えを行う時に親鸞聖人は今も私達の身近かにいてくださるように感じます。念仏と同朋愛の二つが聖人の中心でありました。念仏こそ何物にもさえぎられることなき救いの道であり、いつ如何なる時も私達の心の支えになるものだと教えました。又、すべての人は兄弟であると言う御同朋、御同行の精神を教えて下さいました。親鸞聖人を慕う私達は、この教えを行う事により、七百年の昔に聖人の側にいて教えを聞いた弟子達と同じ幸せを味わう事ができます。

エス・カレーは「汝もし人を救うことができなくとも、せめて同情の涙を以って悲しむ者と共に泣け。人に金銭を与える事ができなくば、労力を以って助けよ。大人を教えることができないならば、子供の師となる事につとめよ。国の柱になる事ができないなら、一家の柱となれ。大衆に向かって教えを説く事ができないならば、二三人の人の集まる所に立って語れ。慈悲は人類最大の宝なればなり」と言っています。

仏の救いに感謝する私たちは、その感謝の心を行いの上に表さなければなりません。それが同朋愛だと思います。だから念仏と同朋愛は別のものではなく、信仰生活の裏と表です。ナムアミダブツの念仏は信仰の面であり、同朋愛は生活の面です。みんな一人残らず仏に救われる事を信じ、そしてみんなが仏の子供であると信じて生活するのが、浄土真宗の信者です。自分だけ一人が救われていくというのではありません。言葉や皮膚の色や、住むところや宗教が違っても、そんな事にかかわらず、みんな兄弟であり御同行であるという、この親鸞聖人の言葉を今の時代ほど考えて見なければななない時代はありません。あの人は皮膚の色が違うとか、あの人は自分の宗教と違うとか、あの人の家柄はどうだとか、このような差別の目で見る事は、親鸞聖人の押しえに従う者のしてはならない事です。この世の人はみんな自分の兄弟のようにと、大きな温かい心で人に接し、この世を少しでも住みやすいところにするのが私たちのつとめです。人を救う事が出来なければ、せめて同上の涙を流す人、お金を与える事が出来ないなら、自分の手足を動かして人の助けをする人、大人を救う事ができないならならばせめて子供を教える人になろうというエス・カレーの言った言葉を思い出してみたいと思います。まことに愛情こそ、この世の宝です。

私たちが念仏の教えに堅き信仰を持ち、すべての人に温かい愛情を持つならば、その時こそ親鸞聖人が一番喜んでくださる時です。今年の報恩講は親鸞聖人に喜んでいただけるように仏さまへの堅き信仰と、世の人々への温かい同朋愛を持って迎えたいものです。


第二十二話   四人の妻

奈良の二月堂のお水取りが明日に迫りました。このお水取りがすむと、水ぬるみ、まもなく暖かい春がやってくると日本では言われています。お彼岸ももうすぐです。寒さでちじんでいた体ものびのびとすることでしょう。それと同時に、心の垢も洗い落として素直な心のも持ち主となりましょう。

お経といえば「ああ、あの堅苦しい訳の分からぬことばかり書いたものか」と思われる方も少なくないでしょう。そんな人に、この話は如何でしょう。阿含経(あごんきょう)というお経に書かれている話です。

四人の妻を持っている男がありました。その第一の妻は最も愛する女で、一日中自分のそばから話したことがなく、毎日のように風呂に入れ、寒いにつけ暑いにつけ常に気を配り、行きたい所へは連れて行き、欲しい着物を買ってやり、欲しいものを食べさせて、それは大変なかわいがり方です。第二の妻は、第一の妻ほどではないが、それでも側にいないと淋しくてたまらない。第三の妻は、いつも一緒に居ると互いに飽き、離れていると淋しくなる程度の親しさで、よほど悲しい事やうれしいことがある時だけしか一緒にならない。第四の妻は、妻とは名ばかりで少しもかわいがってもらえず、仕事にこき使われるばかりでいじめられていました。

やがて、これら四人の妻を持つ男が、急用ができて見知らぬ外国へ旅立とうとする時のことです。一人で行くのが不安になり、まず第一の妻に「一緒に行ってくれ」と頼みました。すると、第一の妻は「どんなに私を想っていて下さっても、私は貴方とご一緒できません」と答えました。仕方なく第二の妻に「お前は一緒に来てくれよ」と頼みますと、第二の妻も「第一の妻でさえ行かないのに、私は行けません。貴方が無理に私をここに呼んだから来ていますが、自分から来たのではありません。遠い見知らぬ国までついてはいけません」と、これ又ことわりました。第三の妻に頼みますと、「今まで色々お世話になりましたから、村はずれまでお見送りさせていただきましょう」と答えました。三人の妻に断られて、男はいつもはいじめ通しの第四の妻に、泣き泣き頼みました。「どうか、一緒に行ってくれ。お前には今までとても悪かったが堪忍してくれ」と言いますと女は「私は父母の元を離れてから、貴方ただ一人に仕えている者です。あなたの行く所なら、どこまでもついて行かせていただきます」と答えました。

これだけの話ならば、このお経の値打ちはありませんが、さすがはお釈迦さまです。第一の妻とは人間の体、第二の妻とは財産やお金、第三の妻とは父母、兄弟、友人など、第四の妻とは人間の心、外国への旅とは死ぬことをたとえたものだと話されました。

外国への旅、すなわち死ぬ時が来れば、第一の妻の如く自分の体は何よりも可愛く思って大切にしていて、日頃暑いにつけ寒いにつけよく気をつけて、欲しいものは食べさせ、好きな着物を着せてかわいがっていても、死ぬ時はどうしても別れねばならず、また第二の妻の如くそばに見えないと淋しく思い大切にしている財産やお金も、死ぬ時は一緒に持っていくことができず、又第三の妻のように思っている父母妻子友達も、死ぬ時は村はずれの墓場までは来てくれても、そこからは帰ってしまって、やはり自分ひとりで死んでいかねばならない。ただ一つどこまでも一緒についてくるものは、第四の妻のごとく毎日毎日ひどい目に合わし続けている心だけだというたとえです。

死んでからも、いついつまでも残るこの心こそ一番大切にすべきであるのに、第四番目の妻の如く、粗末にしてひどく取り扱っている私たちに対する警告です。父母妻子友人やお金の問題や体の事については、いつも注意を払っているが、大切な心の問題をおろそかにしている私たちにとって、一人四婦の話は大いに考えさせられます。心の垢は早く洗い落としましょう。


第二十三話   美しい灯火(ともしび)

病気になると、体ばかりでなく心まで何となくしめりっぽくなき、憂鬱になってきます。憂鬱になるのは病気の時だけではありません。自分の家に不幸があってさびしい時、トラブルがあり困っている時、年寄ってきた時にもやはり私達は孤独と寂寞を感じるものです。こんな時の寂しさ、悲しさ、つらさは、口では一寸言い表せません。体験した者のみが知る境遇でしょう。私たち人間は、平生は強そうに見えても、こういう時には本当に弱いものです。こんな時にこそ助けが要ります。こんな時のちょっとした慰め、励ましの言葉がどれほどうれしいかは想像以上です。

万事好都合な、楽しく、幸せな生活だけが人生ではありません。悲しい、淋しい、つらい、雨風嵐の日もまた人生です。これが人生の裏表です。今の世の中を、果たしてどれだけの人が、この人生の裏にある人に対し、励ましと同上を寄せて一日も早くそれらのひとが幸せになりますようにと祈り、努力している人があるでしょうか。地位や名誉や勢力やお金のある人には。ちやほやする人が多いこの世の中で、これら人生の浦にいる不幸な人に対して、真の友達になれる人がどれくらいあるでしょうか。おかねがなく、不幸になった人を見向きもしない人が多いのではないでしょうか。男の中の男、人の中の人、便りになる人とは、不幸な環境にある人に、救いの手を差し延べる人です。

明治時代の文豪、島崎藤村は「お釈迦さまの灯火」という題で、
「太郎よ、次郎よ、お前達はお釈迦さまの話を聞いたおとがありますか。お釈迦さまは灯火(ともしび)をつけて歩いた人です。お釈迦さまが一度、火をつけたら、そこにもここにも、灯火がつくようになりました。まあ、お前たちは、お釈迦さまがどんな灯火をつけたろうと思いますか。釈迦さまは印度のある国の王子でした。その人が灯火をつけて歩くようになりました。お釈迦さまの灯火は、提灯(ちょうちん)の灯火でもなく、洋灯(ランプ)の灯火でもなく、電灯の灯火でもありません。お釈迦さまは、人の心の奥に、美しい灯火をつけて歩いたのです。お釈迦さまの灯火は、高いみ空の瞬き(またたき)のように、消えそうでんかなか消えません。お父さんが思うように、今でも灯火をつけて歩いておいでになると思います。お前達も、その美しい灯火が欲しければ、お釈迦さまはきっとお前達にも、つけに来て下さるだろうと思います」と言っています。

自分中心で、自分さえよかったら、他の人はどうでもよいという精神を入れかえて、一日の内、しばらくは他の人の幸せをかんがえてみようではありませんか。世のため人のためには、たといじぶんの体がどんな苦難に会っても、願いを果たすその日まで、偲び励みて悔いざらん、と誓いを立てられた仏さまの教えを信じているのが、私たち仏教徒です。仏の大勇猛心には及びませんが、私たちもまた、たとえ万分の一でもがんばろうではありませんか。名実ともに立派な仏教徒となりましょう。あなたおお友達に、または近所に、お年寄りや身寄りのない方、不幸な方、病気の方は居られませんか。はげましと慰めの手を差し延べて、人生の裏側、人生の日蔭にいる人たちの良き灯火となりましょう。


第二十四話   趣味と仏教

先日、「オンタリオ川柳」六月号を送っていただき、興味深く読ませていただきました。私は、川柳はまったくの素人で何も知りません。小学校で、俳句のことを少し習い、そして太陽が東の空からのぼるのを見て、一番最初に作った句は「太陽が東の空にのぼりけり」だったと思います。

五七五の十七文字の中に、紙居ページにも二ぺーじにもなる内容を含めるのですから、難しいし、また面白さも大きいのでしょう。人生の喜怒哀楽をたくみに十七文字で表現するには、中々苦労がいります。私たちの話す言葉や文章は、各人の人柄を示すといわれていますが。川柳もまた作る人の人柄、教養、気質、環境などを現しているように思います。中には、ユーモアたっぷりに教訓や人生哲学、反省、感想などを表したものがありました。「まの抜けた話を聞いて生(なま)あくび」や「寺参り末座あくびの春日和」を見たときには、まさか私の説教のことではあるまいかと、くしゃみが出そうになりました。その反対に、「法悦の心に満ちて愚痴が減り」を読んだ時には、うれしさのくしゃみが飛び出しそうになりました。「真心は人の心をよくとらえ」と「何事も気持次第で春日和」にも心をひかれました。「合わす手にすまぬ邪心がふとのぞき」や「小善もかくしきれない浅い胸」の二句には、私も深く反省させられました。

一世の作る川柳は、日本にいる人たちの川柳とは大きな違いがあるように思いました。アメリカという英語の社会に住む一世、しかも半世紀前に日本からこのアメリカへ来て、想像もつかないほどの苦労を積んできた一世には一世独特の世界があるようでし。「懐郷の心をそそる帰米談」と言う句は、何十年前にさようならしてきたはずの日本の故郷へのやるせなさ、悲しさを詠ったものでしょう。また幸いにも日本へ何十年ぶりかで帰ることが出来た人も、「訪日の淋しく父母の墓に立ち」と、せっかく訪日しても、ともに肩を抱き合い喜び合う父母が、既にこの世にいない悲しみを、よく表しています。一世の悲しみが手にとって見えるようです。「齢老いて淋しさが分かりかけ」と「気分だけたしかで体ついてこず」には、私も目頭の熱くなるのを覚えました。体が老衰してよわくなっても、まだきぶんだけでもしっかりしておられるのは結構なことです。

趣味は私たちに人間らしさ、奥行き或いは幅をつけてくれます。食べて、は T らいて、寝るだけが人生ではありません。趣味の生活とは感情の生活といってもよいかと思います。趣味は私たちの心をより広く豊かなものにしてくれます。時には気分を転換し若返らせてくれます。趣味は川柳のほかにもいろいろあります。どうぞ、これからも大いにやって下さい。今日はこの仏教放送の時間に、仏教の話をしませんでした。でも、これで良いと思います。何故なら、仏教はすべての人が幸せに、心豊かになって下さるようにという教えだからです。趣味に楽しみを見出し、気分を若返らせ、幸せになってくださることに越した事はありません。


第二十五話   家庭法話会

ホームデールの法話会が始まったのは、去年の十二月でした。三家族来てくださったらよいと思ってはじめたこの法話会は、今は九軒の家族が参加されて思いがけない三倍にふくれ上がりました。初めは、何となく大儀に思っておられた人たちも、今では月に一回の法話会を楽しみに待って下さるようにさえなりました。名前や顔は知っていても、お互いに話したことのなかった人たちも、みんな心安くなり、一つの大きな家族のようになりました。

礼拝の後にはみんなで讃仏歌や日本の歌を歌い、信仰を語り、四方山話に時間のたつのを忘れるのが常です。本当に楽しくて笑いの絶えない集まりです。家庭法話会は、仏教会でのおまいりとは1種ちがった雰囲気があり、私はとても好きです。みんなが本当に打ち解けて語り合う事ができる、この堅苦しくない法話会に出席される人たちは、とても楽しそうです。ジェームソン、ウイザー、ナンパ、カードエル地方の法話会も、回を重ねるごとに盛んになっていきます。

今までは仏教会のあるオンタリオから遠い地方でだけおこなっていましたが、近い将来このような家庭法話会を近くのベール、ネサ、オレゴンスロープ、ぺエット、フルーツランド、そしてオンタリオ市内でも始めたいと思います。仏教会の会員の方たち皆さんが本当に良いお友達になっていた抱きたいと思います。名前や顔を知るだけでなく、お互いがもっと親しく話し合い、遠慮なくものをいう事、そしてみんなが手を握り合うこと、これこそが法話会の目的です。愛央仏教会の信徒の方みんなが、一つの大きな家族のようになってくださることが私の希望です。愛央の愛はアイダホ州、央はオレゴン州を表していますが、私はこの愛は愛情、央は中央と解釈しています。どうか、この愛央仏教会が愛情を中心とする団体として益々栄えていってほしいと思います。

よく話し、よくお付き合いしてみれば誰も悪い人はありません。「あんな人」と思っていても、よく知ってみると憎めない人ばかりです。「あんな人」という言葉が出る時は、まだ理解の足らない証拠です。体は健康なのが正常の姿であるように、心もおだやかで、やさしく、理解あるのが正常な姿です。体の調子が悪い時には、ドクターに診察してもらうように、心も荒立たしくなったり、怒ったり、憎んだりする時は病気です。薬が必要です。仏教はそんな心の薬です。

仏教の教えを通じて、益々みんなが仲良くなり、みんなが幸せになってほしいと思います。今までに法話会におまいりの方はもとより、もうすぐ始まる各地の新しい法話会に一人残らずご参加ください。体の不自由な方も、一番近くの家庭法話会にならば来ていただけると思います。みんあが、本当に親子、兄弟のような気持ちになって、楽しく和やかな集会を持ちましょう。皆さんのご協力により、きっと立派な法話会各地に生まれることを確信しています。

おわり 



米国仏教放送 1(百話の内 25話)

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